されど五文字
好きなひとからもらった言葉と好きな本や映画の言葉だけをまとって生きたいのに、どうでもいいひとから言われた些細な一言が、刺さって抜けない。
のどに詰まった魚の骨みたいに、ずっと気になっている。
それは高校生のとき。
前はそこそこ仲が良かったけれど気付けば話すことすらなくなっていた、学生にとってありふれた関係のひとだった。
苗字は荒巻で、下の名前は……。
卒業してから三年ほどしか経っていないのに思い出せないのだから、本当にどうでもいいひと、にカテゴライズしていたらしい。
その言葉は突然降ってきた。
廊下にあるロッカーに教科書を取りに行き、教室へ戻ると、たまたま荒巻と目が合った。
彼は教室を出ようとしていて、わたしとすれ違うかたちになったのだろう。荒巻の周りにはいつも友だちがいたが、そのときはお互いひとりだった。
なぜか目をそらせず、その場に立ち止まってしまう。
彼は久々にわたしを視界にとらえ、
「変わったな」と呟いていなくなった。
空気をわずかに震わせただけのたった五文字。しかしこれは、わたしにしか届いていなくて。
変わった? わたしが?
確かに、荒巻とも話していたころのわたしは社交的にみえたかもしれない。休み時間の度に誰かの周りに集まって、たった十分の談笑を繰り返す。いつも話は尻切れトンボになって、続きは後でね、という割に次の十分までには忘れてしまう。思い出せるのは誰かの笑顔、強いて言うなら誰かの悪口と噂話。
けれどクラスメイトと一緒に行くトイレは気味が悪かった。手を洗ったあと、いつもハンカチを借りる女の子が苦手だった。そういう子に限って彼氏がいて、ひとを見る目がないなぁと心底がっかりした。あの子の手を拭いたのはわたしのハンカチで、お前が怪我をしたとき差し出せるハンカチもティッシュも絆創膏も、あの子は持っていないんだよ。ひとに頼りきりで表面だけ繕って、馬鹿みたいだ。
誰とも話さず一日を終えるようになっても、その気持ちは変わらない。
トイレで女子の集団をみる度に気持ち悪くなる。集まらないと何もできないことにも、前は自分がそこに属していたことにも。
荒巻がわたしの本心に気付いていたとは思えないから、やっぱり変わってなどいないのだ。的外れな五文字は記憶の彼方に追いやって、忘れてしまえばいい。どうでもいいひとのために海馬の一部分を分け与える必要はない。
あれからずいぶん経った。忘れることができたのは彼の下の名前だけだった。
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