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夢で逢えたら

 これで最後だ、と言い聞かせるのはもう飽きた。いつの間にか四年も経っていた。
 どんなに飽きても止めてはいけない。何度も言い聞かせて、何事にも動じないわたしでいなければならない。今日を逃したら、この決心が揺らいだら、二度と離れられない。
 これで最後だ。今日が最後だ。家を出るときにも、電車の中でも、駅のトイレで鏡を見たときも、言い聞かせた。もう一度、今日が、最後。
 肝心なことを何ひとつ言ってくれないひととは会えないと、肝心なことは言わないまま、別れるのだ。
 まがいものの幸せに別れを告げて、まだ二十二歳のわたしを、もっと明るい未来に連れて行くために。
 待ち合わせは潮風が香る駅。すこし肌寒い夕方。
 すぐそばにある海には行かない。寒いからじゃなく、最後にふさわしくないから。潮風でかすかに海を感じるくらいのもどかしさが、その余韻が、彼の中にわたしを残すはずだ。離れる覚悟を決めたのに、永遠になろうだなんて、おこがましいけれど。それが許されてもいいくらいの、四年間だった。

 最初は大学一年生のときだった。
 週四の語学でたまたま仲良くなった女の子に、たまたま誘われたサークル。サークル自体にたいした目的はなかったし、わたしだってたいした目的もなく入部したのに、その女の子はさっさと彼氏を見つけて辞めてしまった。彼女の居場所はサークルなんかじゃなく、彼氏の隣だったらしい。気まずくて授業では話さなくなり、あれから連絡は取っていない。
 わたしは抜けるタイミングを見失って、ずるずると居座っていた。気にする相手なんていないのに、欠席するのは気が引けて、ほぼ皆勤賞。居心地は良くなかったけれど、わたしにはここ以外の居場所も見つけられなかった。
 月イチの総会の度に開催される飲み会にも嫌気がさしていた。大学生はアルコールを通さないとコミュニケーションが取れないのか、と呆れても、欠席しますとは言えないわたしがいた。奢ってくれる先輩はいないから、月に一度は三千円の出費が確約されている。たいして飲めもしないのに、飲み放題で、冷食をそのまま出したみたいなくだらないおつまみを片手に、壁の柱に寄りかかる時間は、無、そのものだった。あれほど何も生まないとはっきりわかった時間はこの先もないと思う。思うのに、拒否できなかった。
 遊木は、全くこれに参加しなかった。
 どうして彼があのサークルにいたのかはわからない。三年経った今も聞けないままだ。聞いたら、瞬きの間に存在ごといなくなるような気がした。うすく発光しているような白い肌は、空気に溶けてしまいそうで、その場に落ちた黒のセーターとゴールドのフープピアスを拾い上げるわたしが目に浮かぶ。消えるのはわたしの目の前で、だから彼を包む全てを拾うのはわたしだ、という自信は今もある。
 遊木は、総会には必ず出席するくせに、飲み会に向かう輪からは必ず外れていた。いつも気が付いたときにはもういなくて、あれ、と思うのだ。いつからいなかったんだっけ。消えちゃった、と。
 だめな先輩と同期を眺めるうちに、わたしも大学生なんだから、お酒を通さないといけないんだ、と思うようになった。成人の壁なんか忘れちゃって、大学生としてひとまとめにして、飲んで飲まれないとだめなんだ。悪酔いする先輩たちを軽蔑しながら、いつかあれになるんだと、諦めのような気持ちでいた。
 それなら、遊木の不参加は、誰とも関わりたくないという意思表示なのだろうか。飲み会に行かないということは、そういう考えの表れなのか。誰とも関わりたくない人間がサークルにいる理由はわからなかったけれど、何かのカモフラージュとか、就活のためとか、探せばいくらでもあるようにも思えた。カモフラージュなのだとしたら、あるようでない活動内容はちょうど良かったのかもしれない。
 それでも、いつも彼の耳で揺れているフープピアスが頭から離れなくて、勇気を出してLINEを送った。返ってこなかったらそれまでだと思っていたけれど、返信はちゃんと来たし、その先も続いた。わたしのことなんて知らないと思っていたのに、増川一花、って名前まで把握されていた。わかったふうな口のきき方はひとを苛立たせるものだったけれど、こんなひともいるんだ、と世界が広がったみたいで、わたしには新鮮に映ってしまった。やり取りの間に手にした情報は、くだらない飲み会の代わりに、彼はファミレスに通っているということだった。
 そこから始まった月イチのファミレス通いは、いつしか週一になり、多いときは週に三回になった。
 みんなが高校生のときから知っていることを、数年遅れで知った。ドリンクバーで粘る時間の楽しさとか、妙に難しい間違い探しをコンプリートしたときの嬉しさとか。配合を間違えた飲み物の不味さも、それを飲むわたしを見てげらげら笑う遊木の美しさも、知ってしまった。やっぱりフープピアスは揺れていた。
 もう四年目か、と思う。
 出会ってしまったことは間違いじゃないと断言できるけれど、わたしはどこで間違えて、今ここにいるのだろう。

 いつものように、待ち合わせの時刻になっても遊木は来なかった。駅前にある背の高い時計は、まぁ今日もだよね、と呆れて立っている。慣れっこだから何の感情も湧かないけれど、そういうものだと思って待つことにする。
 携帯を見ると『ごめん遅れる』の文字が浮かんでいた。『ごめん遅れる』でトークを検索したら、何回になるんだろう。その数はイコール、わたしたちが会った回数だ。それくらい遊木は遅刻していた。どんなに短くても五分、長いときは三十分くらい。最初は次は気を付けてよ、って言っていたけど、もう当たり前になってしまった。当たり前なのに、毎回律儀に連絡してくれるところが狡い。連絡がなかったらそれを怒れるのに、もう許してなあなあにするしかなくなってしまう。
 遅れることもひとつのこだわりだったのかもな、と今更思った。こだわりまみれの人間が、自分の遅刻を気にしないわけがないのだ。
 遊木の最大の魅力は、こだわりをもってひとつひとつに丁寧に向き合うところだと思う。そのひとつひとつが、彼のものの見方を複雑で明確なものにしていたし、信頼に足る部分でもあった。消えてしまいそうなのに、この世界で地に足つけて、どうにか生きていることを示していた。
 数々のこだわりのせいで生きづらくなる遊木を見るのは、ちょっと楽しかった。生きづらいね、と笑い合うとき、わたしの抱える生きづらさとは格の違う遊木のそれを眺めるのが、たまらなかった。彼を可哀想だと思うために一緒にいたわけじゃないけれど、そうだったのかも、とも思う。可哀想で可愛い、なんて軽い言葉が当てはまりそうだ。
 遊木の隣にいることで、わたしは救われていたのかもしれない。もっと下の人間がいるって思いたかっただけだとしたら、わたしの性格のねじくれ度合いは計り知れないから、やっぱり離れたほうが正しいと思う。遊木の正しさまで歪めるのは意に反する。彼には生きづらさを山ほど抱えたまま、それでもまっすぐ生きていてほしい。

 駅の広場から見えるホームに、遊木の姿があった。この距離からでも一発で彼だとわかる。遊木は、今日も左手に午後ティーのペットボトルを持っていた。いつもと同じ、モノクロで固めた服に、小さな斜め掛けの鞄、手にはペットボトル。見慣れた光景すぎて、一年だったときのわたしたちを錯覚してしまいそうになる。二年のときも、三年のときも、同じ光景を浴びていた。
 いつもと同じだ、と思ってふと気付く。その格好の全てで、変わらないこと、変わりたくないことを表していたのかな。だからわたしたちは、こうなってしまったんだ。変わらないことがいちばん難しいんだって、どこかで話したことがあったけれど、遊木はそれでも変わらないことを選択した。それなら、今日が来るのは必然だった。わたしの選択も、遊木なら納得してくれるはずだ。それがいつになるかはわからないけれど、いつかはわかってくれると思う。
 歩く速度に合わせて混ざる午後ティー、脂肪分がこびりついたペットボトル。たまに振って溶かしては、また固まる底のそれ。わたしが好きだったのはほろよいのグレープ味で、遊木は何も言わずに常備してくれていた。午後ティーと大量の氷、たまに麦茶が入った小さな冷蔵庫のセンターを陣取るのは、いつだってほろよいのグレープ味だった。
 家に上がり始めたころはすっからかんだった冷蔵庫も、いつの間にか調味料が増え、食材が増えた。最初はがらがらだったくせに、野菜室がなくて不便なんだよね、なんて言えるようになった。どんなに不便でも、狭くても、ほろよいは入ったままだった。
 午後ティーと氷は最初からずっと入っていて、ほろよいが仲間入りしたのは、大一の夏。コンビニのがばがばな年齢確認をすり抜けて買ったほろよいは、今より美味しかったと思う。先に誕生日を迎えた遊木に煽られながら、まあいいじゃんなんて言って、喉をぱちぱち言わせて飲み干したあの爽快感は、もうどこにもない。未成年なのに、って規則を破ることで満たしていた空洞を、わたしたちは満たすことができなくなってしまった。心の満たし方なんてほかにいくらでもあるはずなのに、適切なやり方を見つけられないままだ。
 遊木の部屋はいつも暑くて、それはわたしの頬とか思わず触れてしまった手のせいでもあったけれど、彼の冷房の温度設定が二十七度だからだった。風に当たりたくない、寒い部屋は苦手。わたしが何度暑いと言ってもそれだけはだめで、薄着するしかなかった。初めは気負ってお洒落していたのに、いつの間にかそれができなくなったのは、室温のせいもあるだろう。
 彼のこだわりはひどく面倒で、周りを巻き込んでは苦しんでいた。離れていくひとを見送るのは、やっぱり悲しくて切ないことらしかった。それでも決めたこだわりを曲げないところは輝いて見えた。わたしは窮屈な彼が好きだった。そう、好きだった。いや、過去形にはまだできないかも。今も好きだ。
 変わらないように、と真空パックに詰め込んだ気持ちは色褪せないかもしれないけれど、人間は止まっては生きられないと思う。マグロが止まったら死ぬのと似ている。日々進む時間の中で生きていて、止まったら緩やかに死んでいく。緩やかな死を迎えるのはごめんだ。たとえ遊木と一緒にいられたとしても、死んでしまったら意味がない。
 わたしは生きたままのわたしで、生きたままの気持ちで、遊木を好きでいたかった。
 だから今日ここ、この場所で。まだ生きたいと願う気持ちに、明確な死を。

 改札の向こうに、右手を挙げる遊木が見えた。腕には華奢なバングル。
 遊木が寝ている間にこっそり、一度だけ借りたことがある。遊木の腕にはまっているときはぴったりに見えるのに、わたしがはめるとぶかぶかで、腕を軽く振っただけで外れてしまった。こんな些細な違いを見つけてはときめいていた、健気なわたしとも今日でさよなら。
 改札を出てゆっくりと歩いてきた遊木は、遅れたことなど忘れたように、いつもと同じ声で話す。第一声が何かなんて、すぐ当てられる。
「やほ」
 ほら。
「ちょっと久しぶり?」
「そうか、最近サークルなかったし」
「なかったっていうか、引退したからね」
「四年間何かしたっけ」
「ファミレス行ってたことしか覚えてない」
「総会の後のね」
 こんな一言だけで、たくさんの思い出が浮かび上がってくる。シャボン玉みたいに、目の前の遊木を取り囲む記憶は、どれも笑ってばかりだ。俯瞰のわたしが、わたしの笑顔を指差す。どれも満面の笑みで、幸せそうに見える。一緒にいる時間は、確かに幸せだった。
「楽しかったね」
「なに今更」
「今更かな」
「うん」
 遊木の聡いところ、今日だけは発揮しないでいてほしいよ。
「で今日はどこ行くの」
「海見たくない?」
「さみーよ」
「遊木も海好きでしょ」
「好きと寒いは違うじゃん」
「まぁ気にせず」
「はいはい」
 両手を上着のポケットに突っ込み、後ろを見ないで歩きだす。行き先は特に決まっていなかったけれど、遊木は何も言わず着いてくる、わたしはそれを知っている。口ではああ言うけど、内心久々の海を楽しみにしていることも知っている。知りすぎてしまったし、近付きすぎてしまった。
 一緒に占いを冷やかしに行ったとき、ふたりとも海がストレス発散の場所だって言われたんだけど、それも覚えてるんだろうな。案外記憶力が良くて、些細なことばかり覚えているひとだ。
 数歩歩いただけで隣に並んだ遊木は、フープピアスを揺らしながら、辺りを見回している。
「珍しいものでもあった?」
「あんまこの辺来ないからさ」
「そうだっけ」
「んー、微妙にアクセス悪いんだよね」
「それはごめん」
「いいよ別に」
 アクセス悪いのも知ってる。遊木の最寄り駅は定期券を買ってもいいくらい通ったし、目をつぶっても彼の部屋に着ける気さえする。
 乗り換えのアプリで検索して、どうやってここに来るかも調べた。面倒だと思ってくれたらいいな、と、思った。面倒な人間だ。真空パックに詰め込みたくないくせに、その代わりみたいに、小さな傷を増やそうとしている。数日経てば消えちゃうような傷じゃ、何にもならないのに。どうしても残したいなら、もっと大きな傷にして、傷痕にしなくちゃいけないのに。

 すこし歩くと人気がなくなって、こぢんまりとした住宅街になった。学校帰りの小学生とたまにすれ違うくらいだ。小学生たちは、小さな身体に大きな未来を背負いこんで、誰もが眩しい。
 男の子ふたりと女の子ひとりが、側を駆け抜けていった。性別がどうとかくだらない区別、彼らがわたしたちのようになる頃にはどっか行ってしまえ。誰と一緒にいたって自由なんだから、周りの目なんか気にしないで、そのままでいてほしい。
「いいなぁ、戻りたい」
 遊木がぼそっと呟く。
「小学生?」
「うん。無邪気でいいよな」
「小学生なりに、悩みとかもあるでしょ」
「あーまあね。俺もあったかな」
 隣を歩く遊木の顔は、夕日のせいで輪郭がよく見えない。
 また消えちゃう、と思う。触れることが許されないから、遊木をここに繋ぎとめるには、言葉しかないのだと思う。言葉を渡し続けていたら、お返しみたいにここにいてくれるような気がする。だからわたしは必死になって、言葉を届けようとしていたし、今もしている。色んなことを知っているのは、こうして言葉を交わしてきたからだ。
「わたしは悩んでばっかだったよ」
「へぇ」
「話したことあると思うけど」
 わたしのことをまだまだ知っていてほしくて、可愛げのない言い方しかできなかった。わたしが遊木を知っているのと同じように、わたしのことも知っていてほしい。あわよくば覚えていてほしくて、それが傷痕になってしまえばいい。ずっと残るような傷痕であればもっといい。
「そうだね、聞いたことある。今思えば小さな悩みだよな」
「大学生にそんなこと言われても、当時のわたしは信じないけど」
「それもそうだ」
「小さな世界で、頑張ってるんだよ」
 マンションの影で、遊木の顔が暗くなる。すぐ隣に、輪郭線を保ったままの遊木がいる。まだ消えないで、ここにいる。せめて今日が終わるまでは消えたらだめだから、また言葉を探してわたしは歩き続ける。

「あ」
 自販機がいくつか並ぶ横に、見慣れたアイスの自販機があった。
 セブンティーンアイス。ファミレスとセットになった、甘ったるい記憶。
 総会の後、いつものファミレスの駐車場に、それはあったのだ。見つけてから、季節を問わず最後に食べるのが決まりになった。飽きるほど食べたのに、溶けるまでの短い時間を惜しむように、一口ひとくち大事に食べていた。
 わたしはカスタードプリン味。遊木は抹茶だったり、チョコレートだったり、色々。でも二年になる頃に、カスタードプリン味はなくなって、ティラミス味になってしまった。ティラミス味じゃ満足できなくて、その後はわたしも色んな味を行ったり来たりしていた。
「待って、プリンある!」
「やったじゃん」
 思わず駆け寄って、愛されて復活、の文字列を見つめる。一期一会に胸がときめく感覚。このタイミングだなんて、今日のわたしを応援しているみたいだ。これなら最後にふさわしいでしょ、ってお膳立てされている。
「食べる?」
「もち」
 鞄から財布を取り出す間に、先に小銭を準備していた遊木が手を伸ばした。ごとん、と鳴って出てきたのは、
「プリン?」
「たまにはね」
「わたしと同じなんて珍しい」
「そんなことないでしょ」
「いつも違うの買ってなかった?」
「俺そんな逆張りしてた?」
 眉をハの字にして笑う遊木は、ついでみたいにカスタードプリン味のボタンをもう一度押して、ごとん。
「はい」
 わたしの分まで買ってしまった。慣れた手つきでお釣りをポケットに仕舞って、どこで食べよっか、なんて言って先を歩いていってしまう。
「え、奢り!?」
「たまにはね」
「それさっきも聞いた」
「昨日給料日だったからさ」
「いやいや」
「今度ジュースでも買ってよ」
「えぇ……」
 ただの友だちなんだから奢りなんてやめてほしいのに、遊木は気前よく奢ってくれる。今までは何となく同じくらいの額を返してきたけど、今度なんてないから、これは一生の借りになっちゃうな。わたしに付いた傷のことは、今は見ないふりをした。数日経てば忘れるような、小さな傷だったらいいんだけど。
 先を行く遊木に置いていかれないように、小走りで横に並ぶ。
「あの辺よくない?」
 遊木が指したのは、小さな公園だった。すっからかんの木々と、寂しげなベンチが佇んでいる。たき火ができそうなほど枯れ葉がこんもり積もっていて、すっかり冬なんだなぁと、こんなところで思った。今日はあまり風が吹いていなくて、せっかくの潮風も遠い。
 いくつもベンチは空いていたのに、選んだベンチは同じだった。遊木が右側で、わたしが左側に座るのもいつものこと。流れるように決まっている動作だった。それだけ隣にいたってこと。でも、ただそれだけ。
 早速ぺりぺりと包装を剥がす。見るからに美味しそうな黄色のアイスと、絡まる茶色のカラメルソース。黄金比、の使い方は間違っているけれど、この色の組み合わせは黄金比で、最強なのだ。
「いただきます」
 がぶり、と噛みついて、口の中に染み渡る甘さを抱きしめる。
「んまーーー!」
「よかったね」
「遊木も食べな」
 アイスを食べている間は上手く話せないけれど、美味しいという気持ちだけは空中に浮かんでいて、それを共有できるから満足なんだ。同じものを食べると、そうやって言葉以外のコミュニケーションが増えるんだよ。いつか部屋で聞いた言葉が反芻された。明らかに声は違うのに、どっちが言ったのかは思い出せなかった。
 いつかのわたしたちは、溶け合ってひとつになっていたのかもしれない。指一本も触れないで、心だけでも溶け合うことができたのに、うすい壁は破れないままで、完全なひとつにはなれない。わたしは完全なひとつになりたかったのかな。溶け合うだけじゃ、満足できなかったのだろうか。そのままでも十分なくらいの幸せがあったのに、もっと上を目指してしまった。

 あの日の幸せを取り戻すように、甘ったるい日々を飲み込むように、無言で食べ進めた。ゆっくり大事にしたいけど、寒いのに溶けていくアイスを、取りこぼさないように素早く。一滴でも垂れたら、わたしの気持ちまで流れていきそうだった。
 同じくらいの時間をかけて、安全地帯までたどり着き、お互いの話す余裕を確認する。先に口火を切ったのは遊木だった。
「そういえば、こないだ斉藤とご飯行った」
 遊木に片想いしている後輩の女の子のことだ。小動物みたいに小さくて可愛く、みんなから好かれるタイプ。なぜか遊木を気に入って、ずっと慕っているけれど、彼女の想いが届くことはない。これは絶対。わたしがいることとは関係なく、過ごしてきた年月とも関係なく、遊木には絶対に届かない。
 ただ遊木を気に入るセンスの良さは、こっそり評価している。
「斉藤ちゃん、健気だねぇ」
「また告白された」
「あらま。何回目?」
「んー、七回くらい?」
「すごいなぁ」
「同じなのにね」
 可哀想なのはたぶん彼女のほうなのに、もっと痛ましい顔で遊木は微笑む。誰が悪いとかじゃなくて、どうにもならないことなのに、遊木は俺がいけないんだって顔をする。未熟だとか欠陥品だとか、そんなのひとつも遊木には当てはまらないのに。
「情が湧いたりしないの?」
「うーん。後輩としては可愛いと思うけど。それで付き合っても、失礼じゃん」
「それはそうだけど」
「斉藤には悪いけど、しょうがないよ」
 またこうやって、寂しそうに笑って。
 遊木は誰とも付き合う気がないらしい。好きという感情がわからないと言う。本物の好きがわからないと言う。
 それを聞いた日から、わたしのごちゃまぜな気持ちはお蔵入りさせた。頑丈な鍵をかけたから出てくることはないけれど、たまにすすり泣く音や、悲鳴みたいな声が聞こえる。わたしにしか聞こえないから、無かったことにして、恋愛なんて知らない、みたいな顔で遊木に向き合うのだ。わたしは今日もここにいて、君のことをわかってるよって顔で、寂しそうな遊木をどうにか埋められないかと、わたしの形を捻じ曲げて、遊木の穴に収まろうとしている。ぴったりにはなれなくても、似た形なら目指せると思うのだ。
「そろそろちゃんと言わないとだめかな」
「斉藤ちゃんに?」
「うん。言ったつもりなんだけど、イマイチ伝わってないっぽいから」
「伝わらないふりしてるのかもよ」
「え?」
「わかっちゃったら、もうどうにもできないじゃん。知らないふりしてたら、まだ進めそうな気がするっていうか」
 知らないふりで恋心を延命するか、わかったうえで閉じ込めるか、これはそういう二択だから。可哀想な斉藤ちゃんは、わたしの裏返しで、わたしが選ばなかったほうだ。選ばなかった、じゃなくて、選べなかった、かも。わたしには、延命する勇気はなかった。けれどわたしも同じくらい可哀想に、閉じ込めた声に悩まされている。延命とどちらがきついのかはわからないけれど、どっちもどうにもならないことだけは確からしい。
「そういうもん?」
「なにが」
「恋とか愛とか。俺がわかんないやつ」
「人それぞれだよ」
「そっか」
コーンだけになったアイスを見つめる遊木を横目に捉えながら、自分の言葉を反復した。人それぞれだから、遊木にも遊木なりの愛があっていいんだよ、は、喉元で留まってしまった。こんなチープな許しの言葉じゃ、誰も救えない。わたしだって救えない。遊木なりの愛を認めた途端、わたしの愛は入れ物を無くして、ほんとうに行き場を失ってしまう。元から行き場なんかないのに、まだその先が怖い。
「でもやっぱ、はっきりしとかないとかな」
 背筋を伸ばした遊木は、前を見据えているようだった。何もない公園のその先の、海のまたその向こう側。わたしが怖くて見られないところ。
「俺に構ってても、時間無駄にしちゃうでしょ」
「無駄は違うと思う」
 わたしの四年間まで、無駄にしないでよ。
「何を無駄だと思うかは、遊木が決めることじゃないよ」
 俯かないと、あの日閉じ込めた心の鍵が勝手に開いてしまいそうだった。無駄なんて言われたら、どんな叫び声をあげるかわからない。押し込めた心が今どんな形をしているのかも、わからない。すくなくとも、遊木の穴に収まることはできない、醜い形をしている。
「そっか、言いすぎか」
「うん」
「ごめん」
「ううん」
「でも、斉藤にはもっといいひとに出会ってほしいし、いいことがあってほしいんだ」
「そうだね、いい子だからね」
 行儀よく遊木の隣にいるわたしの幸せは、誰が願ってくれるんだろう。
 可哀想な斉藤ちゃんが、羨ましく思えた。延命した結末がこれなのだとしたら、こっちのほうが遊木の傷になれただろうか。どうにもならない二択だけど、一生残る傷がつくのはどちらか、それだけは知りたかった。

 俯いたまま、手元を見つめる。大切に食べていたはずのセブンティーンアイスは、いつの間にかほとんどなくなっていた。最後まで味わい尽くそうと、小さな一口でコーンをかじる。遊木はファミレス帰りかのように、大口を開けて残りを消化していた。
 コーンを口いっぱいに頬張ろうと上を向いた遊木から、ふわりと流れてきた、シトラスの香り。一気に彼の部屋の様子が脳裏に浮かんだ。見慣れたワンルームと落ち着いたインテリア。通い慣れた家。そこかしこに香る爽やかなシトラスは、遊木の匂いだった。
 柔軟剤のせいでどの洋服からも香っていたシトラスは案外強く、わたしにまで染み付いてしまいそうだった。一日一緒にいただけで、帰りの電車で座るとき、自室で部屋着に着替えるとき、ふとした瞬間に香って主張するのだ。過ぎた時間を思い起こさせるように、香る度に血液の温度が上がって、わたしだけの時間を侵食する。ひとりにさせてくれないのは、香りのせいでもあった。今も、わたしはシトラスで包まれている。どの記憶にもまとわりついて、これから先も香る度によみがえり、離してはくれない。こんなところに大きな傷跡があるなんて、思いもよらなかった。一生ものの傷だ。
「変わってほしくなかったんだよね」
「え?」
 香りに阻まれた思考が、現実に戻ってくる。
 遊木を窺うけれど、綺麗なはずの横顔は、重たい前髪に隠れてよく見えない。フープピアスだけが変わらずに、きらりと光っている。
「ずっとこのままだったらいいのに、とか、永遠がどうとか、そんなのばっかで」
「永遠?」
「うん」
「すくなくともこの四年間はさ、比較的変わらなかったんじゃない」
「そうかもね。増川はずっとそこにいてくれたしね」
「急になんなの」
 センチメンタルな感じで来ないでほしい。何も察さないで、また明日のテンションで、変わらない日常を祈っていてほしい。変わることを恐れるあまりに立ち止まるのはわたしも同じだったから、この決意を鈍らせないでほしい。
 強く風が吹いた。遠かった潮の香りが、アイスの残り香と混ざって通り過ぎる。もちろんシトラスも一緒に。
「サブスク解約しようと思っててさ」
「また急に」
「社会人になったら、どれだけ観れるかわかんないし」
「確かにね」
「それで視聴履歴見てたんだけど」
 ほら、と遊木は携帯を見せてきた。覗き込むと、スクロールしても終わらない、映画オタクと言っても過言ではないくらいの、映画の履歴。そのほとんどが、
「一緒に観たやつ……」
「ね」
 学年が上がって授業が減ると、ファミレスに行く回数も減って、その代わりに遊木の部屋に行く回数が増えた。お互い黙々と課題をこなすこともあったけど、やることがないから、大抵は映画を観ていたのだ。テキトーに画面を開いて、おすすめを観たり、ランダムに選んだ一文字で検索をかけて、下のほうの作品を観たり。観れるものはなんだって観た。一緒に過ごせればそれでよかった。感想なんて言わなくても、笑うところが一緒で、それなのに泣くところは全然違っていて、ただ黙ってティッシュを差し出して、それでよかった。
 家に帰らなきゃいけないことが面倒で仕方なかったけれど、健全なわたしたちにはそうするしかなかった。泊まることはほとんどなくて、また明日、ってほんとうに言い続けていた。すぐ明日が来て、また同じ道をたどって遊木の部屋に行って、また一緒に映画を観た。その全てが、この履歴に詰まっていた。
「解約しづらいよこんなん」
 ざっとスクロールしても、まだまだ先がありそうだった。画面を滑る遊木の指を見つめる。それは、わたしが号泣したやつ。遊木は全然泣かなかった。そっちは、お腹がよじれるほど笑って、笑いすぎて泣いちゃったやつ。これは、遊木のお気に入りで、三回は観たよね。もっとだったかな。
「しなきゃいいじゃん」
「じゃあ、また一緒に観る?」
 さっきまで前髪が邪魔していたはずの瞳が、まっすぐわたしを捉えていた。
「え」
「一緒に観るんだったら、そのままにしとく」
 思わず頷きそうになって、必死にストッパーをかけた。こんなの狡い。決意もなにもなくなって、また今までみたいになってしまう。緩やかな死を迎えてしまう。
「……ひとりで観たらいいのに」
「なんていうか、空白があんのよ」
 するりと視線を外して、遊木はまた画面に向き直った。
 空白って何、なんて聞かなくてもわかることを、遊木は聞いてほしがっている。ずっと言ってくれなかったのに、今更なのに、聞きたいわたしがいる。
 あれほど言い聞かせた最後という言葉は、聞いたら揺らぐどころか、一気に霧散してしまうだろう。今日までの決心を全部なかったことにして、元に戻ってしまう。戻りたい気持ちは心の同じところに閉じ込めて鍵をかけて、進まなきゃいけないのに。
 携帯をポケットに仕舞った遊木は、アイスのゴミを握った。わたしのゴミも、ありがとうを挟めないくらい自然にまとめてしまった。ファミレスの帰りはいつも、先に食べ終わった遊木がまとめて捨ててくれたことを思い出す。でも、ゴミをまとめるのは、解散の合図でもあった。どんなに名残惜しくても、また明日があったけど、今日は。
「あんまサークルとか好きじゃなかったけど、良かったな、なんか」
「今日は何モードなわけ」
「振り返りモード? 海の匂いするし」
「海関係なくない」
「なんか始まりと終わりの場所って感じじゃん」
 そうだった。あの日意を決して追加した、LINEの背景。まっさらな海だった。生命が始まった、出会いと別れの象徴みたいな、青く深い海。ストレス発散の場所とか言われる前から、海が好きだった。
 物事の始まりは海なのだと言う。そして始まりの場所には、いつだって終わりが潜んでいる。待ち構えていたみたいに、始まったらすぐに終わりがきて、終わったらすぐに始まりがくる。
 終わらせて始まるそれは全く違うものなのに、どうして受け入れられるんだろう。わたしは受け入れたくなんかなかった。
 ずっとこのままでいたかったのは、わたしのほうだった。
「このままが良くても、変わってっちゃうんだよ。引退して、卒業して、みたいな」
「卒業するの?」
「当たり前じゃん」
「そうだよな」
「遊木も卒業するでしょ」
「まぁね」
「卒論出したの知ってるからね」
「そっか言ったわ」
 糸みたいに目を細くして、また寂しそうな顔。今日はこんな笑顔しか見ていないけれど、出会ったころの遊木は、もっとげらげらと笑うひとだった。夜のテンションだったからって、ドリンクバーで見たあの笑顔は、すこし手を伸ばせば届くところに、確かにあった。フープピアスが揺れない笑顔は、知らない顔みたいだ。
 遊木だって、変わってるじゃん。
 変わらないでいたいと願うひとほど、悲しいくらいに美しく、ゆっくりと変わっていくのだ。自覚もないままに変わって、後でそれに気付く。戻ろうとしてももう手遅れで、どうにもできなくて、受け入れるしかない。遊木はそうして、何度も受け入れてきたのだろう。これからも抗って、それでも受け入れていくのだろう。
「変わらないのがいちばん難しいよ」
 ぽつりと零した言葉は、遊木にちゃんと届いている。あの日の遊木にも、今の遊木にも。

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