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幸せがどうのとかなんとか

 綺麗な夕焼けがみえるというのに、窓の外から子どもの声は聞こえてこない。この辺りって子ども少なかったっけなぁ。あまりご近所付き合いをしないから、よく思い出せない。彼女と暮らす部屋をここに決めたのは、家賃と間取りがちょうどいいというそれだけの理由だった。駅から近いわけでも交通の便が特別いいわけでもないが、ふたりとも引きこもり体質だから、居心地の良い家にしようと話したことを思い出す。

 今日は晴れたうえに気温まで高くて蒸し暑い。確か昨晩の天気予報では今年最初の真夏日だとか言っていた。そろそろ冷房なり除湿なりしないといけないかなぁと頭上のエアコンに思いを馳せる。
「あたし、幸せだな」
「なに急に」
 彼女が隣で呟いた言葉はなんの前触れもなくて、突然なにを言い出すのかと戸惑いがあふれる。さっきまでふたりして無言でスマホをいじっていたはずなのに。
「たっちゃんは」
「え俺」
「うん」
「どっちかって言ったら幸せだけど」
「そう」
「えなんなのほんとに」
 スマホに向けられたままの視線と興味なさげな返事。急になんだ。幸せかどうかにかかわらず、なにかしたのだろうかと不安になる。別段やましいことをした記憶もないけれど、こういった状況でそわそわしてしまうのは俺だけではないはずだ。

 彼女はスマホの画面に指を置いたまま、大きな欠伸をした。余裕そうな横顔に更に疑惑と不安が高まる。
「ねぇなんだったのさっきの」
「ん?」
「ん? じゃなくて」
 つい三十秒ほど前の話を忘れたとは言わせない。
「幸せがどうのって言ってたじゃん」
「あー。そんな気になる?」
「気になるよ」
「あ、そう」
「おい」
 やけに淡泊な反応。からりとしすぎていて、謎は深まるばかりだ。俺のスマホはとっくに真っ暗になっていて、画面にははてなマークを浮かべた俺の顔が映る。

 彼女はそんな俺のことをちらりと見て、軽く笑った。小ぶりのソファーにふたり、微かな笑みさえ届くような、これからの季節には暑苦しいくらいの距離。笑うな、と言うとごめんごめんと返す、もうすぐ半年を迎える日常だ。
「なんかさ、今は外に出れないわけじゃん」
「まぁそうね」
「ツイッターとか見てても苦しい、っていうか、どっか重い感じがするっていうか」
「うん」
「だけどあたしは幸せだなっていう、それだけ」
「そっか」
 彼女は綺麗に微笑んだ。強がりじゃないよ、と囁いてまたスマホを見る。指の動きから察するに、リズムゲームをプレイしていたようだ。

 さっきから蒸し暑いのも、子どもの声が聞こえないのも、窓を閉めきっているからだと気付く。毎晩見ているニュースによれば、外気に触れるのはあまりよくないらしい。有害な物質だかウイルスだかよくわからないけれど、必要最低限の外出以外は避けるようにと繰り返されるアナウンス。食料などはロボットが届けてくれるし、人間が担う仕事は家でできることばかりで、すっかり便利な世の中だ。
 息が詰まると言うひともたくさんいるけれど。
「俺も幸せだわ」
「なに急にキモ」
「お前が言わせたんだろ」
「もう一回言って」
「やだよ」
 非日常はどんどん日常とすり替わって、それでも毎日を不自由なく暮らしている俺たちがいる。家賃十万の1LDKにたったふたり、小さな世界だけれど、この幸せさえ守れればいいや、と思うのは消極的すぎるだろうか。

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