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主を待つ猫

 彼のアパートには猫が棲みついている。全身真っ黒の、痩せた猫だ。餌をやっているわけではないけれど、彼がみえると喉を鳴らしながら擦り寄っていくさまは、まるで飼い主を待つ犬のよう。気まぐれな猫のくせに、と笑うと、貴女もじゃない、と言われた気がした。浮き草のように生きてきたのに、気付けば一年半も彼の周りを彷徨っている。
 惚れたもん勝ちなんて嘘だ。ずっとずっと、負い目に感じるのはわたしの方。好きだと自覚してしまって、彼にまとわりついて、側にいる権利を得て。この権利がいつ無くなるのかなんて考えても仕方ないのに、わたしから返却することはないとわかっているからこそ、不安でたまらない。いつはく奪されてもおかしくないそれを日々持て余している。

 土曜日だからと早めに仕事を終え、彼は小一時間もソファに寝そべり携帯をいじっていた。表情は真剣そのものだが、やっているのは最近はまっているゲームアプリ。そんな彼の横顔をみつめながら、そろそろ夕飯の支度をしなきゃと立ち上がると、視線は画面に固定したまま、たった今思いついたかのように彼は呟いた。
「夕飯なに」
「なにがいい?」
「えー。じゃあハヤシライス」
「かわいいね」
 思わず漏れた言葉も、彼にとっては何気ないことのようだった。たいした反応もなくなめらかに発するたった三文字。
「どこが」
「なんでもない」
 彼の家でつくるハヤシライスは何度目だろうか。必要最低限しかない調理器具はわたしの手にすっかり馴染んだし、ものの配置だって戸惑うことはない。たまには隠し味を変えてみようかな。彼は気付かないだろうけど、わたしだって少しずつ変わっていくのよ、と少しの当てつけを込めて。

 ソースを煮込みながら、前に誰かが言っていた「誰の隣にいる自分が好きか」という話を思い出す。
 独りでいるわたしのことが好きだったはずなのに、いつからか寂しくてたまらなくなった。とにかく人肌恋しくて、誰でもいいから隣にいてくれ、とさえ願っていた。そんなときに出会ったのが彼だ。彼は誰にでも振りまいているような笑顔で、でも吸い寄せられてしまう魅力を口元にたたえて、こっちにおいで、と言ってくれた。その誘いを断れるほど、わたしは強くない。
 その時のわたしはそれに縋るしかなかったけれど、今はどうなんだろう。彼の隣にいるわたしを愛せたらこんな苦悩はいらないのに、寄りかかったわたしはわたしじゃないみたいで。今までのわたしを取り戻すためには、隣という位置を手放さないといけないのかもしれない。
 彼から離れることを考えるのは初めてのことではなかった。何度も考え、同じような結論にたどり着き、しかし縋ることをやめられず今に至る。彼の側にいたくて、なによりも彼の側にわたし以外のひとが居座ることが許せなくて。
 わたしがいなくたって彼はやっていけるし、わたし以外の誰かをあっさりとみつけてしまうのだろう。今度はこんな面倒くさい女じゃなく、さっぱりとした小綺麗なひとだろうな。気に障ることがあっても笑って受け流して、喧嘩のときもそれを持ち出さないようなひと。わたしがそのひとになれたらいいのだけれど、生憎この性格は直りそうにない。

 気付くと彼が側にきて、鍋を覗き込んでいた。
「どうしたの、珍しいじゃん」
「そう?」
「普段キッチン入んないのに」
「なんか暗いから」
「暗い?」
「うん。雰囲気っていうか」
 緩く口角をあげながら彼は核心を突くのだ。狡いんだから。
「あー。考え事してた」
「どんな?」
「なんでもないよ」
 素直に言えたら楽なのに、その後が怖くて誤魔化してしまうわたしは、気ままに生きることをとっくの昔に諦めているのだろう。どんなに苦しくても、それを抱え込んだまま、このひとの側にいることを選び続けているのだ。
「そればっかりだな」
「え?」
「なんでもないってすぐ言う。もっと言えばいいのに」
 このひとは本当に狡い。女顔負けの聡さでもって話しかけてくるくせに、肝心なことはそっちのけだ。きっかけばかり与えてその先は言ってくれない。少しばかりの優しさが逃げないように、そっと閉じ込めて蓋をした。
「大丈夫。なんかあったら話すから」
「ほんとに?」
「うん」
「ちゃんと言えよ」
 軽く頷く。いまはそれが精一杯だ。

 彼は空気を切り裂くみたいに大きく伸びをして、お腹すいたと言った。
「待ってて。もうすぐだから」
 彼はまたソファに戻っていった。後ろ姿がぼんやり滲む。
 どこにでもあるような優しさひとつでほだされてしまうなんてどうかしている。すっかり飼いならされてしまって、手のひらの上で転がされているのだろう。それすらもわかっているのにやめられないのは、弱さ故か。
 悔しさやら恥ずかしさやら少しの嬉しさやら、様々な感情が渦巻いて溢れそうになる。今にも零れ落ちそうなそれは彼にみせられるほど純粋なものではないから、覆い隠すように明るいトーンで後ろ姿に声をかけた。
「座ってないでスプーンとか出してよ」
「はいはい」
 のろのろと動きだす彼に苦笑しながら、皿にご飯を盛り付ける。ご飯の分量だって手慣れたものだ。きっと目隠しをしたって同じ量を盛り付けられる。そうして染み付いたものは、簡単には消えてくれない。
 ふと窓の外をみると、黒い尻尾がよぎった。わたしはもう少し、ここにいるよ。

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