”I don't understand”を笑うことができない
つい先日、とあるツイートが燃えていた。
当該ツイートは既に削除されてしまっているけれど、内容としては日本のレストランに行った日本人女性と外国人男性のカップルにウェイターが対応したものの、英語で話しかける男性には目もくれず女性にばかり日本語で話しかけるもんだから、女性の方がシビレを切らして”I don't understand”と答えたというもの。
英語だとかなりバカにしたニュアンスだそうで、「本当に英語がわかっているのか?」とか「日本語が話せるのになんでわざわざ英語で言うの?」といったような意見を目にした。
私も細かいことはよくわからないけれど、なんか嫌らしい感じだなとは思った。その一方で、彼女の気持ちもなんとなくわかったような気がしたというか、そのツイートをきっかけに昔のもどかしい経験が蘇ってきたので、昔話をしつつそのことについて自分なりに書いてみようと思う。
初めて英語に出会った頃の話
私は地方の田舎で育った。小学生の頃の習い事は水泳と進研ゼミ。そして忘れもしない小学4年生の時、自宅から歩いて30秒の距離にECCの先生が越してきた。これからは英語を勉強しておいた方が良い、そう親に勧められて私はほどなくそこへ通い始めた。
その先生は留学もしたことがあって、ECCの教材の外国人が話す英語そっくりのとても綺麗な発音だったし、純粋にカッコ良かった。「先生みたいになって、世界中に友達を作りたい!」と真面目に思った。
今でも印象に残っているのだけど、英語が楽しいと思ったきっかけの1つに、その先生がある英文とそれに対応する日本語訳を見せてくれたことがある。
My dog ate my hamburger yesterday.
「昨日ワンコが私のバーガーを食べました。」
「昨日ワンコが食べたの。私のバーガーをよ!」
2つ目の方がイキイキしてて楽しいでしょ?と言われて、無機質だった英語がわからないなりにとても楽しいものに思えたし、それこそまだdogとかflowerといった英単語を習っているようなレベルなのに、その頃発売されたばかりの「ハリーポッターと賢者の石」のペーパーバックの1~2文をECCの宿題とは別に課題として出してもらって、何度も紙の辞書を引いて、何時間もかかって翻訳してみて、日本語訳は原文とは違うという発見をしたり、先生にはとてもいい経験をさせていただいた。また、年に1度のECC独自の試験では、面接で外国人の先生と話ができるのだけど、自分の英語が通じたことや"Your English is very good."と褒めてもらったのがとても嬉しくて、英語かぶれの今の私の原型は出来上がった。
それから時は経ち、「習うより慣れろだ!」マインドの私は大学時代、貯めたバイト代と奨学金を原資にタイのインターナショナルカレッジへ留学した。タイを選んだのは単純に生活費が安く済むので親に金を出させないで済むことと、英語を勉強したい人は欧米を希望するだろうから、あまり希望者がいなさそうというという後ろ向きの理由からだった。
目論見通り、私は学内の留学枠を勝ち取った。ちなみに当時のTOEICスコアは500点程度だったので、我ながら無謀というか無鉄砲と言うか…笑
何を喋っているのかわからない
ドがつく田舎で日本の中でも昭和の価値観を引きずっている生まれ故郷から、ゲイでも何でもマイペンライ(問題ない)のタイに向かう飛行機の中、私は緊張でドキドキしていた。空港に留学先の学生が迎えに来てくれているという話だったけれど、そもそもちゃんと会えるのか…
これから始まるタイでの新生活への期待と不安、日本語が通じない恐怖、そうした色々なものと戦いながら、スワンナプーム国際空港に着いた。
入国審査を終え、無事先方と落ち合うことができたが、当然ながら相手のタイ人は英語ペラペラだった。何となく嫌な予感がしつつも他の国から来る学生をしばらく待って、全員が揃ってから乗り合いのバンは留学生寮に向かったが、ここからがタイに来て最初の地獄だった。わからないことがあったら何でも聞いてね、といったようなことを話しているのは何となくわかったけれど、会話のスピードがとてつもなく早い上に知らない単語も大量で、何を喋っているのかさっぱりわからなかった。わかったと思っても、いちいち日本語訳が頭に浮かんで、それに対応する日本語の返しを考えて、英語に翻訳するという作業を頭の中でしてしまっている間に、もう話題は次に移っているのだ。
日本にいる時、親に「口から生まれた」と悪口を言われるほどおしゃべりだった私は、大して意味のある言葉を発することができないまま意気消沈した状態で寮に着き、ドッと押し寄せる疲れの中、死んだように眠りに落ちたのは言うまでもない。
その後も戦いは続く…
その後もとにかく色々あった。まず、留学生寮は住宅街の中にあったのだけれど、スマホを持っていなかった私はどこに行けば食べ物が買えるかわからず、パソコンで調べても地図が覚えられず…といった残念な感じだったので、留学生が出かける時に一緒についていく中でコンビニや住宅街の中にあるレストランの存在を知ったし、授業は全部英語なので最初は当然わかったようなわからないような中で英語のシャワーを浴びていた。
英語で「どこに行けば食べ物を買えるか知ってる?」と聞く勇気があれば、2日ほど飲まず食わずという状態にはならなかっただろうし、下手くそでもいいからどんどん話しさえすれば良かったと今にしてみれば思うのだけど、間違った英語を話すとバカにされる日本での経験や、自分のしょうもないプライドが邪魔したりして、全然思うようにいかなかった。
「英語が話せない=死」だったし、海外では「わからなければ身振り手振りを交えてでも自分から伝えようとする姿勢」が無ければ生きる資格はないと留学を通して学んだ。
それとは別にもう1つ、留学を通して貴重な経験をすることができた。それは、「マイノリティとして社会で生きる」という経験だ。
今はまた状況が違うのかも知れないけれど、少なくとも私が子供の頃は、身近に外国人はほとんどいない環境で育った。日本人として、日本人のコミュニティの中で、年齢もよほどの事がない限り横並びで生きていくのが当たり前だと思っていた。
私はタイで初めて、タイ人と外国からの留学生の中の一部というポジションで生きることになった。年齢も国籍も異なる人たちが、同じ教室で学ぶ。社会人をした後で、また勉強したいからと学び直している人も少なくなかった。飛び級で大学に来ている子もいた。自分はなんて狭い世界で生きてきたんだろうと思った。
日本にいる時は、高校を卒業したら大学に行って、大学3年生になったら就活をして、あとは定年まで同じ会社でずっと働く、それが普通だと思っていた。けれど、それだけが人生じゃないんだな、こんな生き方もあるんだという実感を持つことができたのも、留学して良かったことの1つだ。
日本に帰ってきてからの違和感
さて、やっと本題に入るのだけど、一生忘れることがないであろう思い出をトランクいっぱいに詰めて、私は1年後に帰国した。
日本の領空に入って、久しぶりに眼下に見える日本の山々と柔らかな朝焼けを窓越しに見た時は、万感の思いだった。やはり、1度外に出てみて初めて気付く自国の良さもあると思った。
けれど、空港に着いて家路へと向かう電車の中はとても静かで、人の目は虚ろに見えた。エネルギーに溢れたタイでは考えられないような、生きながら死んでいるような人たちばかりが目に付いて、こんなだったっけ?と首を傾げた。
大学に戻ってからも、授業ではそもそも発言を求められない。発言を求められたとしても、黙ってじっとしていれば、教授か誰かが助け船を出してくれる。なんなんだこの国はと思ったし、留学前には何とも思わなかったそうした日常に、自分でも驚くほどイライラした。今にして思えば、私は自ら望んで不便な環境へ身を置くという選択をした癖に、日本でぬくぬくとしている同級生たちが許せなかったのだ。
恐らく、当時の私が感じたそれと、冒頭で紹介したツイートをした女性のイライラは、同じものだったのでないかというような気がする。久しぶりに日本へ帰国して、親鳥からの餌をただ口を開けて待っている雛のように、ただ黙って最低限のことをしていれば生きることができてしまう日本への違和感が、ふとしたきっかけで爆発してしまったのではないか、そんな気がするのである。
英語ができるとかできないとかそういう話ではなくて、目の前の相手にしっかりと向き合って欲しい、私の勝手な想像でしかないけれど彼女が言わんとしたかったことは何となくそんなことのような気がして、私は”I don't understand”を笑うことができない。