亡くなった祖父の夢
先日、祖父が亡くなった。88歳だった。
亡くなる1週間前の金曜日、もう危ないかもしれないと親から連絡を受けて、仕事終わりに1度家へ帰り、慌ただしく荷物をまとめ、終電ギリギリで帰省した。
祖父の元へ向かう新幹線の中、昨今のコロナの影響で、院内感染のリスクがあるため県外者は面会できないと聞かされた。やむなく宿泊先のホテルから病室にいる親のスマホにLINEで繋いで、いつものように画面越しに「おじいちゃん、元気出して」と声をかけた。
「かほちゃん、元気か?体に気をつけて、元気で頑張ってな」
いつも通りの変わらないやり取りに、少し安心した。
それから1週間、2日前まで話せていた祖父は、帰らぬ人となった。
祖父は、去年のクリスマスの頃から胃瘻もできなくなり、点滴だけになっていた。昔のことや家族のことは忘れていないけれど、その日にあったことや話したことは覚えられなくなっていた。それでも、その瞬間だけでも楽しめたらと、親がお見舞いに行った時には連絡をもらい、画面越しでも顔を見ながら、できるだけ話をするようにした。
仕事帰りに東京駅やKITTEの屋上へ立ち寄って、夜景を見せたりもした。
「綺麗じゃなぁ。結局行けれなかったなぁ…」とぽつりとこぼす祖父に、
「元気になったら、また一緒に行こう」と、叶うはずのない約束をした。
祖父は長年、地元の小学校の国語の教員として勤めた。戦後、物資が不足していたため服もなく、当初は学生服を着て教壇に立っていたようである。私が幼稚園に入る前、全校生徒の前で校長として挨拶している様子をローカルニュースで見た記憶がうっすらとある程度で、どんな先生だったのか知らないことがほとんど。それでも、学校に迷い込んだ犬を放っとけず家に連れて帰り、最期その犬が老衰で歩けなくなってからは自分の腕に抱きかかえて散歩に連れて行ってやるような、本当に心の優しい人だった。また、亡くなってから、もう70代になる元教え子の方から「昔不登校で学校に行けなかった時、先生が自転車で家まで迎えに来てくれた。何十年経っても、あの時の事はずっと忘れられない。本当に嬉しかった。」と聞いて、そんなことがあったのかと、こちらが驚いたりもした。
遺影の写真も、5年前に家の前で撮った、最初の赴任校の生徒さんが企画してくれた会の帰りのもの。少しはにかんだようにニコッと笑うそれは、元気だった日の姿そのものだった。60年以上経っても愛される、戒名の一部となった「訓育」に違わない、職業人生を全うした人だったようである。
小学生の頃は夏休みの宿題の作文・読書感想文を見てもらったり、大きくなってからも忘れてしまったことも含め、随分と我儘を聞いてもらったように思う。生まれてから就職するまでずっと同居していたので、親と同じかそれ以上の時間を一緒に過ごした。毎日学校から帰ると、母と祖父母がおかえりと、温かく迎えてくれる家だった。楽しかった日も、いじめられて辛かった日も、ずっと傍にいてくれる、どっしりと根を張った大樹のような存在だった。
お葬式の読経の間、忘れていた思い出が不意に蘇って、時々声が詰まった。棺の中には手書きのメッセージと祖父の大好きだったお餅、飴を一緒に納めた。小さい頃、よくドライブに行く車の中でもらったっけ。いつも会う時はこれが最後かも知れないと覚悟はしていたけれど、やっぱり最期に手を握り、浮腫んでしまって痛む足をさすってあげたかったと、すっかり冷たくなってしまった顔に触れながら思った。在りし日の思い出が浮かんでは消えた。
それでも、安らかな最期だったこと、遺骨がしっかり残ったのだけは良かった。十数年前、末期ガンとの闘病の末苦しみながら亡くなった祖母は、抗ガン剤の影響で骨がスカスカになってしまっていて、ほとんど遺骨が残らなかったから。何とか残った骨を箸で拾い上げた先からホロホロと崩れてしまって、命だけではなく遺骨すら奪っていくのかと恨めしく思ったが、今度は無事に祖母の元に届けることができそうだ。祖母は最後まで弱音を吐かない、我慢強い人だった。今一つ気持ちの整理がつききらない私とは裏腹に、今頃「随分と待ったが、ようやくまた一緒になれる」と喜んでいるかも知れない。
今朝、祖父が亡くなってから初めて祖父の夢を見た。実家の仏壇のある、かつて祖父がいた部屋で、いつもの服を着てそこに座り、書類の片づけをしていた。祖母の写真の前に供えられた水に目をやり「おかあさん(祖母)の水だけ換えておいてあげてくれるか?」と言われ、私は「わかった」と答えた。またいつものように「元気で頑張ってな」と言われ、「ありがとう、おじいちゃんも」と言って、夢の中の私は泣きながらなぜか部屋の襖を閉めた。その瞬間目が覚めて、私はやっぱり泣いていた。あぁ、この人は亡くなっても、家族のことばかり考えているんだと思った。
起きてから何となく祖父の名前をインターネットで検索したら、かつて作詞したであろう小学校の校歌が出てきた。初めて目にした歌詞の日本語があまりにも美しくて、言葉を通して優しく語りかけてくれているようで、それを何度も読んでまた泣いた。
人は生まれた瞬間から死に向かって歩き始める。死はいつか、誰にも平等に訪れる。誰か亡くなる度に、自分は最期に一体何を遺したいのかと考えるが、祖父が遺した教員としての教えや人としての在り方、家族との思い出は、誰にも奪われない、残された人の中でずっと生き続けるものだった。
自分も同じように、いつか消えない何かを遺したいと思いつつ、それに囚われ過ぎず、まずは自分の人生を精一杯生きようと思う。親や家族との時間を、これまで以上に大切にしようとも。
今日を終わりではなく、いつか来るその日までの、新たな始まりの日に。