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【Vtuber】「引退」と「努力」

Vtuberの引退というものは確かに悲しい出来事である。
自分自身、登録しているチャンネルを一覧で見ることがたまにあるが、
「このVtuberも引退…このVtuberは休止…」と知らぬ間に引退していることが多々ある。
しかし、それらについて私は「もったいない」だとか「寂しい」だとかという言葉を吐き出すことができない、正確には「吐き出してはいけない」と感じる。いつの間にか引退しているということは、私自身がそのVtuberのことをしっかり見ていたわけではないということに尽きるからだ。

引退・休止の理由は数あれど普段からそのVtuberや応援しているファンからすれば「普段応援していなかったくせにどの口が」と言われても、仕方ないと思うし、私だったらそう思うこともあるだろう。

しっかり見ていたり、ファンからの教えられたりで「もったいない」「それは界隈にとって損失だ」と感じることはあるし、声に出すこともある。
だが、私自身が見ていなかったということは、すなわち「送り出すこと」すらできなくなってしまうのではないか。

悲しく思うのはそのVtuberがいなくなったからではなく、そのVtuberが活動しているその様子が頭の中に、記憶に残っているからだ。
時間も作れば見ることができたかもしれないし、応援もできたかもしれない。それでどうこうなるものではないのかもしれないが、それでも「送り出す」ことはできるはずだ。
引退を「知っている」から、頑張りを「知っている」から。
故にこそ「寂しい」「もったいない」という言葉にも説得力が生まれる。

あとから引退していたことを知った私には「諦める」ことをその場で受け入れるしかない。その場限りの、自分の身勝手な「もったいない」「寂しい」という言葉は軽すぎる。
応援しているのであれば週に1回でも思い出すべきだったはずだ。
去る者に対し語る言葉がない「自分自身が寂しい」のだと思う。

それと共に引退について思うことも多少はある。
引退は「自然淘汰」だ。
趣味でVtuberをしているなら続けやすい、飽きたらやめやすくもある。
趣味のVtuberは、所謂「引退問題」には含まれないと考えている。
仕事としてのVtuberはどうだろうか?
「上手くいかなかったという理由で1年続かなくて引退」というのは良くある話だ。

しかし、自分が望んだVtuberという「仕事」の場で、死に物狂いで努力したのだろうか?
エンターテイメントの場になんの経験もレッスンや勉強もなしに乗り込んで、たった1年で「うまくいかない」というのは当たり前ではないのだろうか。芸の道はそう甘くはない。

普通の会社で言えば「新入社員から1年でそれなりの地位につきたい」
企業であれば「1年で業界で有数の企業に成長させたい」ということに近いだろうか。
猛勉強をして、経験をフル活用して、様々なアプローチして、それでもダメなら、あらゆる方法を尽くして「最善」である。

例えば、実力はあるが拡散力がないというVtuberは、なにをすればいいだろうか?パッと思いつく限りのメジャーな方法は、例えば
・企業のVtuberオーディション受ける
・動画広告を出す
・拡散力ある有識者などに宣伝お願いする
・有力なVtuber、Vtuber関係者とコラボやその他活動のための関係づくり
etc.
と、これ以外にも動画や配信以外での活動においてアピールすることもできる。最低でもこのくらい、しかし恐らくこれでは足りないのだろう。
だが、できる限り最大限の努力をしたうえであれば「うまくいかなかった」と言えるかもしれない。だが、それ以外は「諦め」だと思う。
やるべきことを全てやってから「うまくいかなかった」という言葉に意味ができるのだと感じる。

偶然影響力のある人物に好かれるだとか、運も確かにある。
だが1年で人気Vtuberになるというのは相当なものだ。
同じように1年続けて同じようになっていないVtuber自身、自分となにが違うのかを考えているのだろうか。
Vtuberが頑張ってるのは知っている。
ただ同じ引退にしても、勝ち負けはないにしろ「勝つために戦ってきたVtuber」とそうではないVtuberでは重みが違うし、辞める覚悟も違う。

結果は別として、最大限の努力をしてその結果を気持ちよく受け止めることができるか否かというのは、その後Vtuberを気持ちよく見れるのか、それともトラウマになるのかにも関わるし、別の生き方を見つけたときに経験として活かすことができるかにも関わってくる。

どちらにしろ最大限の努力をしたものにこそ、光ある道が見つかるのではないだろうか。

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