当たり前が出来ないということ
「結婚しなくても幸せになれる時代」といわれて久しくない時代、
それでも恋をしたり結婚したりが、人生の予定表に当たり前に置かれているような気がする。
好きな男性のタイプは、デートに行くならどこ、などは定番の話題としてよく挙げられる。
それが定番になるのは、大多数が自分なりの意見を持っていて共感したり興味があるから。
それでも私はこのような話題を振られると、喉が締め付けられるように苦しくなる。
異性からの好意が気持ち悪い。自分が人を好きになるのも気持ち悪い。
かれこれ10年ほどこの性質と付き合っている。
人生で一度も人を好きになったことがないわけではないが、
小学校とか中学校とかそのレベルで昔の話だ。
じゃあ同姓なら問題ないかと言われると、
女友達と手を繋いだり腕を組んだりすることも苦手なのでそんなこともない。
そんな性分なので、好きなタイプやデートの場所なんて聞かれても困ってしまうのだ。
自分に気があるとかないとかは関係なく、向こうが世間話の延長で話しただけなのにも関わらず、
「恋愛感情が気持ち悪くて…」などと切り出した暁には相手も困惑してしまうだろう。
だからなんとなく無難な答えを用意しているのだが、元々嘘をつくのがべらぼうに苦手なので、
この手の話になると毎度喉を詰まらせながら喋っている。
インターネットで調べたところ、私のように恋愛感情を抱かない人間は一定数いるらしい。
他人からの恋愛感情を望まない人間をリスロマンティック、恋愛感情を抱かない人間をアセクシュアルと呼ぶとのこと(諸説あり)。まだ性的マイノリティの界隈も組分けが細かく、言葉の意味のぶれも大きいため、
自分自身本当にその言葉に自分を当てはめていいのかわからない。
誰かの言葉で「自分の立場に名前があることで安心できる人がいる」と聞いたことがある。
確かに私も、自分と同じ性分の人間に名前があって、
なんとなく居場所のようなものを感じて少し安心できた節がある。
ただ、今のところ特に同じ性分の人たちのコミュニティに入りたいとか、記事を通して広めたいというような目標は特にない。
そういう普段周りに言えないような感情を、インターネットの海になら放り投げてても怒られないかなと思ったのでnoteを始めるに至った。
ゆるめの生きづらさを細々と綴っていけたらと思う。