「頑張れ」「期待している」を心から喜べないあなたへ。
こんばんは。
先日23歳になり、たくさんのお祝いメッセージをいただきここ1年でどれだけ繋がりが広がったのかを実感している、かぐやです。
サプライズで燻製セットをmulti-Regionメンバーがくれたり、ふらっとさん、なっちゃんがメッセージ集を考えてくれたり…本当に嬉しい限りです。ありがとうございました。
心から喜ぶことができない言葉がある
頂いたメッセージはどれももちろん嬉しいです。ですが、僕には引っかかる言葉があります。「頑張れ」とか「期待しているよ」とかいう言葉です。
「がんばれ」と言われたら「頑張ります!」とお返事して、「期待しているよ」と言われたら「期待されているんだ」と感じます。でもどこか心の中でそれを嬉しく思っていない自分がいます。心から喜ぶことができない自分がいます。
自分ごとに変換してみると、実は僕もこれらの言葉は時々使っています。彼がそれに対してプラスに感じるような人であれば、伝えます。「成長したい」という欲求は大切だからです。そして成長することで感じる喜びを知っているからです。
でも、僕は心から「頑張れ」と思うことはほとんどありません。僕自身が、「頑張る」と本気で思うこともありません。「頑張らなくてもいいんだよ」とはよく言います。「楽しみましょう」ともよく言います。
誰かに期待することはその人を苦しめることになりかねないからです。自分に対してもそれが言えます。僕に期待してしまっては、そこに達せなかった自分を嘆くことになります。その絶妙なバランスの狭間に僕らは葛藤を抱きながら生きています。
「頑張らなくてもいいんだよ」
これは無責任な発言になるでしょうか。優しくないでしょうか。もちろん見方によってはそうだと言えるでしょう。ちょっと考えてみました。そして。起業家育成プログラム初日を終えて、帰りの電車で考えて出てきたのがこのツイートに表現できました。
周りから見たら僕の活動は「頑張っているように見える」のかもしれません。しかし、僕自身はそれほど頑張っているつもりはありません。自分に負けてばかりですし、そんな自分でも認めています。少しずつ成長していけたら良いと思っています。
頑張っていると僕があまり感じないのは、1番の理由としては日常の全ての出来事を楽しんでいるからです。頑張っているという感覚よりは、ワクワクしながら活動して、そして振り返りをすると、学びが得られるという感覚です。それが僕らの考える成長につながっているのでしょう。
「ワクワクすることをやる」といってなんでもワクワクに手を伸ばしたら良いかといえばそうではないなというのが最近感じるところです。
ワクワクするもの、例えば空飛ぶ車とか、ドローンとか、かっこいいものとか新築マンションとか、挙げたらキリがありませんが、ワクワクするものって、あまり地球環境によくないものが少なくないからです。もちろん、その矛盾点は自分も抱えながら発信をしています。
今朝は、社会という枠組み、国という枠組みを設けていること自体、本当に必要なのかという疑問が生まれました。枠組みとか仕組みとか、制度とか、管理とか、こういったものが豊かさを盲目にしてしまう根源なのではないかと、そう思いました。
そしてもう一つ豊かさかを盲目にしてしまう要因として、原始的な豊かさを超える刺激的なものが溢れすぎた結果、求める基準値が高まり、目の前の豊かさを実感できず苦しんだり、誰かと比較して心が病んでしまったりするということが考えられます。
人間の本能的には誰かにマウントを取ることを必要としているのかもしれません。「誰かに勝ちたい」という思いが生まれることはあります。成長したいなという喜びもあります。
一方で、頑張りたいけど頑張れないこともあります。成長したいけど心から目指せない自分もいます。
僕のこの違和感を、この葛藤を受け止める器でありたいなと思います。そして、推進力にも、受容体にもなりうる存在でありたいなと思います。
この記事を書いてみて、僕が「頑張れ」とか「期待している」という言葉に違和感を覚えたのは、それが強いられていると感じてしまうからだと気づきました。そうではないとしても、そういう圧力を秘めている可能性があります。
それは純粋な期待が時には残酷であるということを示しています。教育心理学では子供たちに期待をすることによるプラスの効果を学びました。それが白であると錯覚してしまう自分もいました。
でも白か黒かを明確に区別することはできないのです。僕は、「頑張らなくてもいいんだよ」と言える安心感があってこそ言えるのが期待の言葉だと思います。
この成長や頑張ることが“強いられるものではない”ということを前提に、自分の可能なペースで(ここ重要)、今できることをやっていきたいものです。
これが社会に対して無責任な態度なのだと言われてしまうとしても、理解できます。自分のペースで、と言いながらそのペースで社会に確かな価値をもたらすことができると考えているのが浅はかなのかもしれません。
でもそのペースだからこそ助手席に、後部座席にに乗せていくことができる人がいると考えています(免許持っていない人が言うセリフではないか)。一緒に歩める仲間がいるのだと思います。
だから、「楽しみましょう」っていうのに加えて伝えたいのは、「一緒に歩もう」です。
辿り着くのは身の回りの人への感謝
ちょっとおまけです。このなっちゃんの記事の最後に書いている言葉たちを書いてみます。
感謝の気持ちを忘れないこと
感謝を言葉に出すこと
周りにいる人を大切にすること
時間を大切にすること
(一部省略)
どこを目指すにしても、どんなに成長を求めるにせよ、自分の中にある「本当の豊かさ」というのはこういった感謝の気持ちや、身の回りの人との時間に辿り着くのではないかと考えています。
もちろん絶対そうなのだと押し付けるつもりはありません。無理やり実感するものでもありません。
身の回りの人、というのは家族だとは限りません。友人、恋人、チームメイト、パートナー、いろんな意味で自分にとっての身近な人は存在するでしょう。
一旦疲れたらそこに立ち戻ってみるのも良いと思います。逆にいうと、がむしゃらに何かに立ち向かう際にも、成長をしようと直向きに取り組んでいるときにも、自分の中にある「本当の豊かさ」を認識できたら良いのではないでしょうか。
「頑張れ」「期待している」を心から喜べないあなた(僕)へ。
あなたにとっての「本当の豊かさ」とはなんですか?