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パンデミック・ウォーズ(第7話)まさかお前が…!裏切られた駆はどうする?

第7章 怒りと裏切り、そして絶望


 
第3波を引き起こしたのは、新たな変異株だということが明らかになった。そしてこの変異株は、海外から日本に持ち込まれたものではなく、日本が変異の発祥だと確認された。この変異株はWHOによって「イデンドル株」と命名された。
そのせいで、ツイッタラーたちは色めき立った。
 
《位田ンドル株だってよ!ウケる!
やっぱりアイツが原因か》
 
《ナイスネーミング》
 
《変異株をまき散らすイデンドル会長、
日本から消え去れ》
 
《WHOの元アジア事務局長が、
WHOによってウイルスだと
命名された歴史的瞬間!》
 
しかし僕はもはやそんなヤツらにかまっている余裕はなかった。この変異株のゲノム配列をこの目で確認しないことには、夜も寝られなかった。
日々、明らかになる変異株の情報を、僕は毎日食い入るように調べた。変異株の情報を調べている中で、父に関するニュース記事に目が留まる。
 
《位田分科会長 変異株による第3波発生について責任を問われる》
 
夕方、政府の会見が開かれ、官房長官がコメントを出した。僕はリビングのテレビ画面を見つめる。
「誠に残念ですが、第3波の到来により、GOGOトラベルは中止せざるを得なくなりました。しかし、コロナ禍により地域経済は冷え込んでおり、このような経済対策が必要であることは変わりません。感染状況が収まれば、再開を検討します」
グレイのカーテンの前に立った官房長官が述べていく。
長官の発言が終わるや否や、リポーターたちが次々に質問する。
「分科会が、夏の第2波の後、感染が収まりつつあると判断したのを受けてGOGOトラベルが始まりましたが、分科会の判断は正しかったのでしょうか?」
「位田会長には責任はないのでしょうか?」
「GOGOトラベルが第3波を招いたんじゃないでしょうか?」
官房長官に視線が集まる。
「旅行が感染を拡大させるというエビデンスはないと聞いている」
「分科会の判断が感染拡大に影響したかについては、現在、総理と話し合っているところです」
リポーターの質問に対し、官房長官はあらかじめ準備されていたかのような回答を述べた。口調はやわらかだが、目元に湛えられているのは反論は許さないといった雰囲気だ。
「これで会見は終わります」という司会の挨拶を受けて、官房長官はカーテンの奥に足早に立ち去っていった。
 
18時30分。夕食の時間だ。食卓から焼き魚の匂いがする。夕飯はサンマだった。大根おろしが添えられている。他にはレンコンなどの根菜の煮物に、ワカメときゅうりの酢の物だ。サンマは大好物だったが、料理に集中できない。僕はご飯をかきこみ、ごちそう様でした、と手を合わせてサッと部屋に引き上げた。
すぐにパソコンの前に座り、検索しては情報を片っ端から読んだ。早くゲノム配列を知りたい。気が焦る。
よほど自分で解析する方法はないかと考えたが、方法はわかっても、さすがに設備がない。自分でゲノム情報を解読するのは不可能だった。
ジリジリと苛立つ日が数日続いた。
ついに国立感染症遺伝学研究所から、第3波を起こした変異株のゲノム情報が発表されたとのニュースが入ってきた。
すぐに国立感染症遺伝学研究所のサイトに飛ぶ。ゲノム配列はサイトのPDFファイルに収められていた。
どうか、違いますように。
僕には特定の信仰はなかったが、神に祈るしかなかった。
一か所でも、一塩基でもいいから、僕の設計図とは違いますように……。
カチッ。震える手でファイルをクリックする。
画面に現れるおよそ3万の遺伝子記号。
僕はアルファベットの羅列に目を走らせた。最後の記号を確認し終えた瞬間、鈍器で頭を殴られたような気がした。
僕の書いた設計図そのままの配列が、そこに並んでいる……。
気づくと、目を開けているのに視界には何も見えなくなった。僕は膝から崩れ落ちた。カーペットのやわらかい毛の感触が膝小僧に触れた。その触覚情報とともに、カーペット独特の少し埃っぽい匂いが鼻腔から脳へ伝わる。
僕は爪を立て、カーぺーットをガーーーーーーッと引っ搔いた。5本の白い筋が浮かび上がった。拳を握る。強く力を入れたため爪が手の平に食い込む。
ドン!
僕はそこに拳を振り落とした。ドンドンドンドン!何度も床を叩く。引っ掻いた跡が消え、叩いた部分の繊維がぺしゃんこに潰されていく。
「駆!どうしたの?何があったの?」
階段を上がってくる足音とともに母さんの声が近づいてくる。
「うるさい!今、母さんとは話せない!」
僕はドアも開けずに部屋の中から怒鳴った。
「駆、いったいどうしたの?この間からちょっとヘンよ」
ドアの向こうで母さんが息を飲む気配を感じた。
「それどころじゃないんだ。放っておいて!」
僕は再び怒鳴った。母さんに大声を出したのは、自分にはその頃の記憶はないけれど、赤ちゃんの頃の啼泣を除けば、生まれて初めてだった。
「あっちへ行って!」
母さんが下へ降りていくのが足音でわかった。母さんは僕が発達障害の二次障がいを起こしたと思ったかもしれない。でももうそんなことには構っていられなかった。
僕はiPhoneと財布をつかみ、マスクをつけ、勢いよくドアを開けた。階段を駆け下りる。僕は母さんが止める声を無視して家を飛び出した。そしてニューバランスの踵を踏みつけたまま、地下鉄の駅に走った。
 
慶王大学は、小江戸線の信野町駅のそばにあり、僕のうちからは25分で着く。
僕は慶王大学の医系キャンパスに入り、医学研究室の職員通用口に向かった。警備員からは見えないよう、暗がりに立つ。
時刻は20時21分。琉斗はどこだろう。琉斗はふだん《帰宅はいつも深夜だ》と言っていたから、まだ研究室にいるだろう。しかし、具体的に何時頃出てくるのかわからなかった。僕はiPhoneを取り出し、琉斗にLINEした。
《研究室の下にいる。話があるからちょっと降りて来て》
すぐに既読がついた。まるで僕が来るのがわかっていたかのようだ。琉斗から短い返信が来る。
《わかった。すぐ行く》
白衣姿の琉斗が、ポケットに手を突っこんだまま通用口から出てきた。
僕と琉斗は暗がりの中、向かい合った。通用口のわずかな電灯の光に照らされた琉斗の顔には、目の下にうっすらとクマがあった。
「一体なんだよ。こんな時間に、こんなところまで来て。俺、今、実験の途中で手が離せないんだけど」
「LINEで済ませられることじゃなかったから来た」
僕は琉斗を見据えて言った。
琉斗が大きなため息をついた。今日の琉斗はいつもと違い、人を寄せ付けない雰囲気がする。
「いつ緊急事態宣言が出てキャンパスに出入りできなくなるかわからないから、いろいろ急ピッチでやらないといけないんだよ。それに変異株が流行ってるんだから、大人しく家にいろよ。しかも小学生が夜遅くに出歩くのはマズイんじゃないか」
「屋外で2m以上離れているし、マスクをしている。これくらいの会話なら問題ない」
僕は足元の二人の間の距離を確認しながら言った。
「それよりも、琉斗に聞きたいことがある。これはお前がやったんだろ」
「何のことだよ」
琉斗がさも無関心といわんばかりに言葉を放った。
「今流行ってる変異株のことだよ!お前がやったんだろ!」
僕は怒鳴った。
「僕はお前にしかあの設計図を見せてないよ!お前以外に誰がいるんだ!」
 さざめき声が聞こえてきた。植え込みの向こうの歩道に誰かが歩いて来る気配がする。僕は間を置き、人影が消えるのを待った。
「慶王の研究室はP2だろ!そこで変異ウイルスを扱ったら、どうなるかわかってるだろ!」
生物学的安全性レベルの低いP2の実験室で危険な病原体を扱えば、市中に漏れ出る可能性は否めない。そんなことくらい琉斗は知っていただろう。一体なぜなんだ。
 ぐわんぐわん。頭痛がひどくなる。僕は昔から、理解不能な出来事に遭遇すると、頭痛がする体質なのだ。
琉斗が腕組みして通用口の方を睨んでいる。
腕組みは、心理学的には「相手を拒絶する」ジェスチャーだということを、僕は思い出した。
「笑わせんなよ、お坊ちゃん」
えっ。一瞬、誰の声かわからないほどの低い声だった。
「そうだよ、俺だよ。俺が変異株をつくった。お前の書いた設計図をもとにしてな」
その声は、まるで地の底から聞こえてきたかのようだった。
やっぱり琉斗だったのか!
僕は膝から崩れ落ちそうな思いだったが、足底筋に力を入れて地面を踏みしめ、体幹を支えた。
「なぜそんなことをした?そんなこと間違ってる。お前は科学者失格だ」
僕は叫ぶように琉斗に問うた。
なぜなんだ。なぜこんなことを、よりによってお前がするんだよ……!
琉斗は僕をキッと睨みつけた。
「よく言うぜ。その設計図を書いたのはお前だろ?俺は作製しただけだぞ」
「僕はただ設計図を書いただけだ!本当にウイルスを作製しようと思ったわけじゃない!」
「だったらなんで俺に見せたんだよ」
琉斗が問う。
なぜって。スッと背筋が冷える。僕は言葉を絞り出した。
「琉斗のこと、親友だと思ってるからだ」
「ハッ。親友だって。笑わせんな」
琉斗が唇の片方をぐっと上げて笑った。
「俺には友達なんていないって言っただろ」
琉斗とのLINEのやり取りを思い出す。琉斗は確かに「自分には友達と呼べるような人間はいない」と書き送ってきた。
でも、だからって、僕も友達じゃなかったっていうのか。
ふいに目頭が熱くなる。
「引きこもりのチビのくせに、いとも簡単にウイルスの設計図を書きやがって。俺たちは何年研究してもできなかったんだ。マジでムカつくんだよ」
「だから、作製したっていうのか?こんなこと間違ってる!」
うるさい!と琉斗の怒鳴り声が響いた。
「科学はな、自分が手を下さなくても発案した人間が一番の悪人なんだよ。原子力だってそうだろう。後先考えず好奇心のまま突っ走って、そのあとどうなるのかとか想像もしないようなヤツらが人類に災いをもたらすんだ。つまりな、お前みたいな人間が一番悪いんだよ!」
 琉斗の放ったことに、僕は言葉を失った。 
「そもそも俺はお前が嫌いだったんだ!」
 琉斗の言葉が次々に心に突き刺さる。
「お前みたいになあ、生まれた時から家柄に恵まれて、お金もあって、頭脳にも恵まれて……。そのくせ不登校?引きこもり?はあ?なめてんじゃねえよ。お前みたいな甘ちゃん見てるとムカムカして虫唾が走るんだよ!」
琉斗の目は吊り上がり、もはや別人のようだ。
なんで……、なんで僕がそこまで言われないといけないんだよ……。
僕は自分の顔から血の気が引くのを感じていた。
ドクン、ドクン……。
心拍数はふだんの2倍近くに上がっている。
「教えてやろうか」
琉斗がまた口を開くのを見て、僕は殴られる前のボクサーのように心を固くした。
「俺の家は居酒屋だったんだ。両親二人でで飲み屋街で営んでた小さな店だったよ。俺は子どもの頃、ずっと店の2階で一人で過ごしてたよ。小学校の頃、母さんが病気になったけど、店を休めなかった。母さんは通院できずに病状が悪化して、俺が小6の時母は死んだんだ。父一人では店を切り盛りできず、5年後に父も脳卒中で死んだんだ」
 シティボーイ風のスマートな雰囲気だった琉斗に、そんな過去があったとは知らなかった。
「その後、俺がどれだけ苦労したと思うか?高校からバイトして生活費を稼ぎ、一人暮らしして、奨学金を得るために寝る間も惜しんで勉強し、やっとこの場に立てたんだ」
ボタボタボタ……。僕の足元にいくつもの水滴が染みをつくったのが、電灯の灯りの下でもはっきりと見えた。涙だ。
ははははははは!!笑い声が響く。
「泣いてるのかよ、おい、お前泣いてるのかよ!笑わせるよな。やっぱりお前は偽善者だったんだなあ」
琉斗はお腹を抱えてのけぞり、高らかな笑い声を上げている。
まるでお笑いコントを見ておかしくてたまらないといった様相だが、今はそんな場面ではない。笑うべきところではない場面で笑う人間を、僕は初めて見た。僕はえもいわれぬ恐怖を感じた。
するといきなり笑い声が止まった。
「泣いたところで、お前に俺の気持ちがわかるかよ!お前みたいな……お前みたいな……」
琉斗の変心に、僕は身を固くした。
「経済より人命が大事だと?それで仕事を失って、結果、命を落とす人間もいるんだぞ」
 僕は先月見たヤホーーニュースを思い出した。
確かこんな見出しだったはずだ。
 
《女性の自殺急増 コロナ禍で生活が困窮か 非正規やシングルマザーの女性を襲う貧困》
 
琉斗の言葉が、報道の中の、見たこともない女性たちの声に重なる。
「お前らの言っていることは高見の見物だ。人命が大事?ハッ、笑わせるなよ。その「人命」の持ち主たちには『生活』があることを、お前らは想像したことがあるのか?お前らの言ってることは綺麗ごとだ!」
言葉がナイフのように心をえぐる。
もうやめてくれ。お願いだ、もう何も聞きたくない!
また、頭の中がぐわんぐわんと鳴り始める。
間があった後、琉斗が言葉を発する。
「本当は、母には仕事を休んでちゃんと治療してほしかった。あの時仕事なんかせずに、病院に行ってくれていたら……。お金なんて……、お金なんてなくてもよかったんだ」。
これまでと違う声色に、僕は、今度は戸惑った。
「琉斗……?」
「俺は……、ただ父と母に生きていてもらいかった。家族みんなで幸せになりたかった……。今、この瞬間もコロナでも無理を押して働いている人たちのことを思うと俺は悔しい。このウイルスに感染すれば、働くのをやめてちゃんと療養するかもしれないじゃないか……」
琉斗の声が詰まった。
「そうすれば、これからもみんな、ずっと家族と一緒にいられるだろ……」
最後の方は、琉斗の声が消え入りそうだった。
「ううう、うっ、」
琉斗が頭を抱えてうずくまったかと思うと、嗚咽が聞こえてきた。
止まることのない琉斗の鳴き声が、暗闇に吸い込まれていく。僕は言葉を出すこともできず、琉斗を見下ろしたまま、その場に立ち尽くした。
その時僕には、僕と琉斗の距離、たった2mが、20mにも200mにも感じられていた。
 
帰宅したのは、0時近かった。
僕はどこをどうやって帰宅したのか、よくわからなかったが、とにかく僕は自宅に戻っていた。帰巣本能というものだろうか。
玄関を開けると母さんが立っていた。
「駆!どこ行ってたの?大丈夫?」
母さんが僕に駆け寄り、肩から腕を撫で、背中をさすってくれた。
「心配かけてごめん。その……、鹿嶋堂に、ちょっと新刊を見に行ってただけだよ」
咄嗟に考えた僕のウソに、母さんは釈然としない顔をした。
それでも何も聞かず、「さあ、冷えたでしょう。お風呂に入って」と促してくれた。
湯気で自分の顔が見えない。僕は浴室の鏡を手でひと撫でした。鏡は驚くほど冷たい。撫でた部分にだけぽっかりと穴が開いたようだ。
そこに僕の顔が映る。生気がないというべきか、そこに映った顔が自分だとは思えなかった。
手に痛みを感じる。顔に近づけて見ると手根部が青くなっていた。昼間、床をしこたま叩いたせいでうっ血したようだ。
痛む右手をできるだけ使わないようにして、髪と体を手早く洗い、風呂おけに湯を汲んで床を流し、排水溝に髪の毛を流した。そして排水溝の蓋を取り、中の毛をつまむと、浴室の隅に置かれたダストボックスに捨てた。
そして、静かに湯の中に身を沈めた。
はあーーーーー。
温かい湯に心身がほぐれ、肺の換気量をすべて出すようなため息が出た。
今日起こったことが、ぐるぐると頭の中で回っている。軽い頭痛がするようだ。今日の琉斗の発言を、僕はどのように解釈し、脳内で処理したらよいのか全くわからなかった。
頭が、フリーズしたハードウェアみたいだ。僕はかぶりを振った。頭痛は消え去らない。
何から処理すればいいのだろう。何からやるべきだろう。
もう一度、今日の出来事を順番に想起する。
ああ、そうだ。僕は、あの変異株をなんとかしなくちゃいけないんだ!更新されたアプリのように、脳が再起動した。
しかし、どうやって。
僕は夜更けまでパソコンの前に座り、データベースを検索し、論文を読み、自分が考えた変異株をどうしたらいいのか考えた。
 市中に広まってしまったウイルスを、もはや回収することなどできない。だとしたら、変異株に対する治療薬を開発するしかない。
 僕はパソコン画面のゲノム設計図を凝視する。
コロナウイルスは、RNAウイルスだ。mRNAは安定化が難しい。
 僕は資料がないか、父さんの書斎に入った。
 本棚を眺め、ウイルス学の専門書を何冊か抱えて床に広げた。山のような本の真ん中で、僕はMacを抱えてあぐら座りした。専門書をしばらく読んでは、ネットを検索し、腕を組んで考えた。案を思いつくたびに持ち込んだ自分のMacに打ち込んだ。
 ワクチンの設計図を書いてみる。もともとのゲノム設計図を考えたのは自分だ。ワクチンの設計図を書くのもそう難しくはないはずだ。
夢中でキーボードを叩いていると、背後でキイっとドアが開く音がした。
 しまった、母さんかなと振り向いて僕は驚いた。
 父さんが立っていたのだ。
「駆、そこで何をしているんだ」
「いや、その……。父さんこそ、今日は帰宅したんだね」
「ああ、いろいろ大変だがな。今日はやけに疲れて頭痛がしたんだ。こんな時ではあるが、今日くらい家で休みたいと思ってな」
 父さんがネクタイの結び目をほどき、上着を脱いだ。
「『ウイルス学実験ノート』?なぜこんな本を見ているんだ」
 父さんが床に散らばっている本を取り上げて首を傾げた。
 次に父さんは僕の膝の上のMacに視線を移した。
「何をやっている、見せなさい」
 隠すこと間もなく、父さんがMacの画面をのぞき込んだ。
「なんだこれは。ゲノム設計図じゃないか」
 父さんが目を丸くした。
「そうなんだ、実は、変異株のこと、僕も気になってて。ゲノムについて調べていたんだ」
 父さんが素早く配列に目を通して言った。
「これはmRNAを安定化する配列だな。お前が思いついたのか」
「大胆な方法だが、これはいいアイデアかもしれないな……。父さんも一緒に考えよう」
 僕と父さんは頭を突き合わせてMacのキーボードを打った。
「父さん!この部分の塩基配列が変わっている。つまりAとGのゲノムが入れ替わっ
てるんだ。だからスパイクをキャッチするトラップ受容体をつくればいいいはずだ」
 僕は身を乗り出して画面を指さして言う。
「父さん、このスパイク部分がポイントなんだ。ここがこの変異株の特徴だよ。だから、この部分のゲノムをこう変えたらいいはずなんだ。だけど、ちょっとここが上手くいかなくて……。父さん、どうしたらいいと思う?」
 僕は、自分の声が弾んでいるのに気づいた。こんな時に不謹慎だが、僕は父さんと話せているのが嬉しかったのだ。
 喜びのあまり、父さんがさっきから僕をじっと見つめているのにさえ、僕は気が付かなかった。
「駆」
 父さんがふいに僕の名前を呼んだ。
「何?」
「駆、もしかして、お前の仕業なんじゃないのか?」
 僕は凍り付いた。 
「な、何のこと?」
「この変異株は、お前の仕業なのか?」
 父さんがさっきと同じ問いを繰り返した。
「な、なんで僕がそんなことを?」
 僕は思わずしらばっくれた。
 父さんが眉を寄せている。
「変異株の配列について、お前はあまりにも詳しすぎる。お前はギフテッドだ。ウイルス学もお前の知能なら理解できるだろう。しかし、この部分のAとGのゲノムが入れ替わっていることは、このウイルスに関わった研究者じゃないとまず分からないはずだ。ましてや、この変異で安定化の技術を設計図に組み込むなど、単に賢いだけで思いつくはずがない」
 僕は言葉を失った。
「駆、お前、この変異株に関わったのか」
「違うよ父さん!」
 僕は叫んだ。
「僕は設計図を書いただけなんだ。本当にウイルスをつくろうなんて、夢にも思ってなかった。これを見た人間が勝手に作製しちゃったんだ。僕のせいじゃないよ!」
 僕はなぜか琉斗の名前は伏せた。
 わざとじゃないと弁明すれば、父さんならわかってくれるはずだ。
「駆!」
 初めて聞く父さんの怒鳴り声。
「人の命より尊いものはこの世にない。科学の目的は人の命を守ることが第一義だ。人の安全を脅かす可能性のある科学技術は絶対に開発してはいけない。どんな理由があってもだ。お前はそんなこともわからないのか」
 父さんはわなわなと唇を震わせていた。
 父さんが怒鳴ったことに僕は驚いた。父さんが僕に怒りを向けたことなどこれまで一度もなかったからだ。しかし同時に怒りが湧いてきた。
なんで僕が怒鳴られないといけないんだ。
父さんは、僕だけを責められるわけ?
父さんこそ、科学者としてどうなんだ。
 僕は、心の中に湧く怒りを抑えきれず、父さんの目を真正面から見て言葉を発した。
「じゃあ、どうしてあんなこと言ったの?」
「あんなこと?」
 父さんが眉根を寄せて聞き返した。
「感染者数のことだよ!父さんは、見かけ上の感染者数を出して、ウソの実効再生産数を公表したろ?それでも父さんは科学者なの?!父さんが僕を責められるわけ?」
 僕は思わず大声を出した。
 次の瞬間だ。
「わかったような口を聞くな!」
 父さんにいきなり怒鳴られ、僕は身をすくめた。
「あれはウソの数値ではない。検査対象の範囲は我々科学者が決められることじゃない。保健所の体制や検査キッドの供給量など、他にもいろいろな制約があるのだ」
「それが政治への忖度っていうんじゃないの? 父さんこそ科学者でしょ?父さんは何のために分科会の会長をやってるの? 父さんの正義っていったい何?」
「お前に何が分かる!」
 父さんの顔を見上げる。父さんのこめかみに力が入っているのがわかった。握りしめられた父さんの手が小刻みに震えている。
「どうしたの?あなた、大きな声が聞こえたわ。駆もそこにいるの?」
 ドアをノックする音ともに、母さんの声がした。
 僕はその時思った。僕はただ、父さんを信じたかったんだと。父さんは何も悪くないのに、世間から責められている。科学者としての資質まで疑われ、人格まで否定されている父さんを、救いたかったのだ。
 そして、ウイルスを作製した琉斗も、きっと僕と同じ気持ちだったのだと、この時思った。
 その晩だった。父さんが39℃の高熱を出したのだ。

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