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パンデミック・ウォーズ(第2話)エビデンスをめぐる父と息子の複雑な関係
第2章 エビデンス
それにしても、今年はとんでもない猛暑だった。8月の終わりの夕陽は、まだじりじりと窓に照り付けていたが、ほんのわずかに秋の和らぎを感じさせた。
今日も19時のニュースの時間になった。
ニュース画面がどこかの街頭を映し出している。日比谷公園の緑の中にリポーターが立っている。園内には日差しが降り注ぎ、蝉は賑やかに鳴いているが、人通りがなく閑散としていた。
「コロナで市民の生活にどのような影響があるのか、街の人に聞いてみます」
リポーターが住民にインタビューしようとするが、なかなか人が見つからない。リポーターがようやく発見したのは、抱っこ紐で乳児を抱えて歩く母親だった。
リポーターは、親子に「すみません」と声をかけてマイクを向けた。コロナ禍で不便や不安はないか尋ねる。
インタビューされた母親の顔がアップで映り、母親は質問に答えた。
「ほんとにいつどこで感染するかわからないから怖いですよ。うちは小さな子どもがいるからなおさらですよ。もし私と夫が感染して隔離になって、この子だけ陰性とかだったら、実家の親を呼ぶわけにもいかないし、どうしたらいいのかなって思っているんですけど…」
と、眉根を寄せて口ごもった。
今、どの人もみな「明日は我が身かも知れない」という不安を抱えて生きていた。
リポーターはインタビューを続けようと他の通行人を探したが、足早に立ち去った母子以外に人はいなかった。
「コロナ疲れ」という言葉ももう聞き飽きたくらい、コロナパンデミックが起こってから長い時間がたった。医療がこれほど発達した現代で、感染拡大がこれほど長く続くなんて、誰も思っていなかったと思う。もちろん、この僕もだ。
コロナパンデミックについて、これまでを振り返り、僕なりの意見を述べたいと思う。お説教じみていると不快に思ったら、どうか読み飛ばしてほしい。
中国で新型コロナウイルスが発生したのは2020年初春。日本は東京オリンピックの開幕を控え、オリンピックバブルともいえる状況に浮足立っていた。その矢先に発生した得体の知れない新型ウイルスが発生した。
中国政府は即座に発生源とされた武漢市を封鎖したが、その効果のほどよりも、その対処法が世界に与えたインパクトは強大だった。封鎖された武漢市はゴーストタウンと化した。都市封鎖の様子はメディアを通じて世界中に発信された。
人っ子一人存在しない街は、ハリウッド映画の舞台装置のようでもあり、現実のものと思えなかった。いったいこれからどうなるのか、この対応で本当にウイルスを封じ込めるのか、世界は固唾を飲んで見守った。
しかし、狡猾なウイルスは都市封鎖の甲斐なく国境を軽々と飛び越え、世界中に広がった。日本も例外でなく、未知のウイルスに翻弄されていくことになる。
中国で新型コロナウイルスが発生したとき、日本は対岸の火事だと受け止めていた。
在中日本人が武漢から着の身着のまま空港へ向かい、国外へ脱出する様子がVTRに再現され、繰り返し放送されたのを覚えている人も少なくないだろう。武漢の都市封鎖がセンセーショナルに報道されたことで日本人にもコロナに対する恐怖が広がった。
ただ、僕に言わせれば、このころのメディア放送は新興感染症の恐怖を啓発するというよりも、単に視聴率を狙った過剰演出のように感じられた。
そしてこの時はまだ、多くの人がコロナは日本には入って来ないか、入ってきても日本の医療水準ですぐにやっつけられるだろうと楽観していた。
そう、これはドラマなんだ。多くの国民がそんな心持でテレビを見ていた。
武漢で新型ウイルスが発生したとき、隣国の台湾をはじめ、欧米諸国はいち早く防疫に動いたが、のちに日本は初動遅れが指摘された。それはもしかすると、政府も国民も「パンデミックが日本で起こるはずがない」と思い込んでいたのが原因だったかもしれない。
のちにこの楽観が命取りになったのだが、国民の多くが「日本は大丈夫だろう」と考えたのには、それなりの根拠があった。
日本は防疫において、大陸の国々と地理的に異なる特徴がある。島国のため海外から人の出入りのルートが限られており、陸続きの国々よりウイルスの侵入が遅い。空港検疫さえしっかり講じれば問題ないだろうと政府も国民も考えていた。
また、日本は医療機関や下水道設備が世界でも際立って整っているのと、衛生観念が高く几帳面な国民性が相まって、感染症が蔓延しにくい国だと考えられてきたのも大きな理由だった。
ともかく、日本は世界でも類を見ない「衛生的な国」だという認識があまりにも過剰だったのは否めなかった。
しかし実際には、感染症はアフリカや東アジアなどの遠い発展途上国だけの問題ではないのである。日本では、明治や大正、もっと過去にも、チフスや赤痢、結核などの感染症でたくさんの日本人が命を落としている。古書で記録の残る平安時代などでも天然痘などの「疫病」が流行った。
つい最近、昭和の初め頃までは、結核が命を脅かす大病として人々に恐れられていた。当時は日本各地の病院の敷地内や人里離れた山奥などに結核病棟が建てられており、そこに患者が隔離されていたのだ。
だが、世界中の数多の研究者たちの努力の末、ストレプトマイシンが発見され、多くの結核患者の命が助かるようになった。いつしか社会における結核への恐怖は薄らいでいった。
現在、多くの日本人は、結核といえば咳き込んで血を吐くシーンや人里離れた高原のサナトリウムを思い浮かべるなど、映画やドラマの中の悲劇的な病気だと思っているふしがある。しかし、実際に毎年一定数の新規感染者が発生しており、命を脅かすことは少なくなったと言えども、決して過去の疾患とは言えないのだ。
2000年代に入ってからも、日本も新型インフルエンザやSARSやMARSなどいくつもの新興感染症の脅威にさらされた。
ちなみにこのSARSやMARSはどちらも呼吸器障害を引き起こすもので、ウイルス学的な分類に照らすとすべて新型コロナウイルスと同じ仲間なのだ。いってみれば「悪三兄弟」だ。
SARSの発生は2003年だったが、幸い日本で流行することはなかった。しかしそのことが、パンデミックは起こらないと僕たち日本人を油断させたのかもしれない。
現代のように、数々の感染症に襲われつつも、われわれ日本人が清潔で健康的な生活を享受できるようになったのは、公衆衛生の発展があったからに他ならない。
新興感染症が発生するたび、厚生労働省と国立感染症研究所や各種大学研究機関、医療現場が一丸となって対策を講じ、感染は封じられ、事なきを得てきた。行政や研究機関、現場の医者や看護師をはじめとした医療従事者の貢献は非常に大きい。
また、感染症を引き起こす病原体について研究する世界中の研究者たちの存在を忘れてはならない。
天然痘という、致死率が高く、助かっても失明や痘跡と呼ばれるあばたが残るとして恐れられた感染症は、WHO主導による世界的なワクチン接種により地球上から完全に撲滅されている。
毎年流行しているインフルエンザは、ワクチンや抗ウイルス薬のおかげで重症化や死亡率を抑えられている。
これらはすべて、これらのウイルスを検出し、解析し、ワクチンや特効薬の開発を行った研究者たちの努力の賜物なのだ。
そう、例えば僕の父、位田守のようなウイルス遺伝学者が研究に没頭し、感染症の撲滅に向けて日々奮闘していることを、パンデミック以前の日本人は誰一人として想像しなかったのだ。
世間ではAIを活用した診療や、ガンや難病治療などの最先端の研究ばかりが注目されるけど、それらの医療も、人々が清潔な生活を送り、感染症がないことが前提で成り立つものだ。発展途上国のように疫病が蔓延していたら高度医療どころじゃないはずだ。
だから、僕に言わせれば、父さんこそ人々の健康を土台から支えている英雄だ。でも、誰もそれを知ろうともしないし認めもしない。それが僕にはものすごく悔しい。
★
父さんのことを語りたい。しかし、僕には父と遊んだ記憶がほとんどないから、父がどんな人なのか正直よくわからない。父の業績はインターネットでいくらでも検索できる。しかしそこからは、研究内容はよくわかっても父さんの息遣いは感じられない。
父さんは週末もお盆も正月もろくに家にいない。ウイルス学の権威と言われている父さんは、いつも研究に明け暮れているからだ。
僕の父さんは、現在、日本の最高学府である東中大学の教授を務めている。
僕が生まれてからすぐ、父さんは世界最先端の遺伝子工学を学ぶため、単身アメリカのスタンモード大学に留学した。その後、そのままジュネーブに飛び、WHO(世界保健機関)でアジア地域事務局長を務めた。このとき父さんはSARS対策に当たっている。
その間、僕と母さんは2年ほど母子家庭のような生活を送った。
僕がもうすぐ卒園するという頃、ようやく父さんがWHOの任期を終えて帰国することになった。父さんが帰ってくると聞き、僕は父さんに遊んでもらおうと有頂天になった。
ところが、帰国するやいなや、父さんは家でゆっくりする間もなく大学に向かった。たまに父さんが家にいると思って書斎をのぞくと、いつも夜遅くまでカタカタとパソコンを叩いていた。この頃父さんは、WHOでの研究成果をまとめていたんだ。
僕は幼かったけど、父さんの気迫をひしひしと感じ取っていた。そんな父さんに、遊んでほしいとは言えなかった。
こんなふうに、僕は生まれてから幼少期のほとんどの期間、そして小学校も終わりが近づいている現在に至るまで、父さんと接したことがない。父との希薄な関係性は、僕の心に大きな穴を空けた。
僕は父さんが恋しかった。
僕は父さんが留守の間、よくこっそり書斎に忍び込んだ。父さんが使っている革製の椅子に座り、そっと肘掛けに頬をのせ、父さんの気配を感じて過ごした。
ふと僕は、父さんが何をしているのか知りたくて、書斎にあった専門書を手に取った。
ずっしりとした重み。ハードカバーの上質な手触り。未知の言葉が詰め込まれた紙面。少し埃っぽい乾燥した香りを胸いっぱいに吸い込んでみた。
その時、「この部屋の本を全部読んだら、お父さんが僕とよろこんで話してくれるんじゃないか」と思いついた。
ページをめくってみると、そこで繰り広げられているのは、感染症の歴史や人類とウイルスとの戦いだった。
感染症学とは、まさしく人類にとっての正義だった。僕は子どもながらに感動し、その世界に夢中になった。
小学校に上がる頃、書斎の本をすべて読破した。僕は独学で、感染症についてその辺の研修医よりはるかに知識を身に付けてしまったんだ。
ある日曜日、僕が書斎を覗くと、研究室に出かけたはずの父さんがいた。僕は勝手に書斎に入ったことを咎められると思い、ドアの前に立ちすくんだ。
すると、父さんが意外なことを語り始めた。
「ここにあるのはウイルス学の専門書だ。お父さんはウイルスの研究をしているが、ウイルス学は本当に面白いんだよ」
僕は弾かれたように目を上げた。
父さんが僕に仕事の話をするのは初めてだったのだ。
父さんは机の上から『医療ウイルス学入門』と題された本を無造作に取り上げてこう言った。
「この本はお父さんが書いたんだ。今月医療書院から発売される予定だ。もうちょっとカラーページを増やしてほしかったんだが仕方がない。今まで初学者向けのテキストがなかったから、まあ、院生たちに重宝してもらえるだろう」
表紙には父さんの名前が編著者として記されていた。父さんは出版の経緯を説明したが、それは父親が幼稚園児の息子に話す内容でなく、仕事の延長といった感じだった。
そこで父さんがふいに、
「よし、ちょっと遺伝子を見せてやろう」
と言い、書斎の皮椅子に腰かけた。
書斎は広くはなかったが、研究室に劣らぬほどの設備があり、遺伝子解析するための電子顕微鏡や電気泳動装置が備えられていた。
父さんの手元にはすでにPCR法を行った後のDNAがあった。
昨夜実験していたのだろう。父さんが慣れた手つきで電気泳動装置にかけると、ゲルの中をDNAが移動するのが見えた。
「この帯状のものがバンドっていうんだよ」
電気泳動の方法も本では読んで知ってはいたが、本物のDNAを見たのは初めてだった。
「この遺伝子の中に、生命情報のすべてが詰まっているんだ。すごいだろう」
僕には、実物の遺伝子は案外そっけない姿に思えた。
しかし、父さんは嬉しそうに話を続けた。
「ウイルスは遺伝子とタンパク質だけで構成されているんだ。実に単純な構造だ。人間や動物のような細胞を持っていないから、誰か自分とは別の生き物に寄生しないと生きていくことができない。でも一度宿主の細胞に食い込んだら、なかなか取り除くことができない。か弱いくせにものすごく厄介な奴なんだよ」
そんなことはもう知ってるよ、お父さん――と僕は言いかけたが、父さんが僕が何も知らない前提で話しているのを察して言葉を飲みこんだ。
「遺伝子配列がウイルスのすべてなんだ。DNAには有史以来の生命のあらゆる現象が凝縮されているんだ。遺伝子を解析していけば、生命現象のすべてが解明できるかもしれないんだ。こんなにすごいことはないよ」
「ゲノムを解読することで、ウイルスを撲滅できるかもしれないんだね」
僕は目を輝かせた。
「ほう、よく知ってるね」
父さんはまるで出来のいい学生をほめるように言った。
「みんなウイルスのことを毛嫌いしているけど、お父さんはこの地球上からすべてのウイルスを完全に排除することはできないと思ってるんだ」
意外な言葉に、僕は父さんの顔をじっと見つめた。父さんは、ウイルスは撲滅すべき悪者ではない、というのだろうか。
「今、地球は年々温暖化しているだろう? このまま地球の気温が上がったら、氷河に封じ込められていた古代のウイルスが甦る可能性があると言われている。南半球の熱帯地方からは毎年のように新たなウイルスが生まれているし、動物由来の感染症も、これからもっと増えると言われている。人間とウイルスとの戦いは永遠にいたちごっこだよ」
「ウイルスとの戦いに終わりはないの? 人間は永遠にウイルスに勝てないってこと?」
僕は絶望的な気持ちで父さんに尋ねた。
「そうだな……、終わりがないと言えばそうかもしれない。でもお父さんはね、もちろん病気を引き起こすウイルスは叩かないといけないけど、ウイルスそのものをこの世から完全に消してはいけないような気がしてるんだ。ウイルスが世界から消えるときは、人類も滅びるときだと思えてならないんだよ」
「僕にはお父さんの言っていることがわからない。ウイルスは絶対にやっつけなくちゃいけない。ウイルスのせいで大勢の人が苦しんでる。ウイルスは悪さばかりしてるんだ」
僕は猛然と反論した。人類はずっと感染症に苦しめられてきたのだ。父は、これほど多くの人々の命を奪ってきたウイルスを許すべきだというのだろうか。
父さんはふと口元に穏やかな笑みをたたえたまま言った。
「そうだね、駆がそう思うのはもっともだ。世の中のほとんどの人はそう思ってるだろうなあ。もっとも、ウイルスの研究者として、こんなこと言っちゃいけないのかもしれないな」
僕には父さんが何を言っているのかわからなくなった。
「でもお父さんはね、長年ウイルスのことを研究しているけど、ウイルスが我々人類に何かを教えてくれているような気がしてならないんだよ。うまく言えないんだが、本当はウイルスをやっつけるんじゃなくて、地球全体ですべての生物との調和を図り、ウイルスと共存する方法を考えていかないといけないと思うんだよ……」
そこまで語ると、父さんの視線は空をさまよった。
その姿を見て、父さんの意識はもう研究の世界へ舞い戻ったんだと感じた。
すぐそばにいるのに、何も共有していない。そんな父さんとの関係性に、幼い僕はすでに慣れてしまっていた。
僕はただ何度も「共存」という言葉を口腔で反芻した。
★
今日もいつものようにターゲット7を見て、Macにデータを打ち込んだ。新規感染者数は先週の同じ曜日より倍増し、実効再生産数を見ても第3波がすぐそこまで近づいているのがわかった。
「これはまずいな」と思った瞬間、テレビ画面に父さんの顔が映し出された。
父さんは政府の新型コロナ対策分科会会長を担っており、今日は国会で答弁する日だった。
今年に入ってからテレビで父さんの姿を見ない日はない。「ステイホーム」や「3密回避」のスローガンが掲げられ、どの業界も業務を縮小している現在の日本にあって、父さんほど多忙を極めている人物はいないはずだ。
父さんが研究の合間に国会で答弁したり、国民に向けて感染対策を呼びかけたりしているのを、僕は毎日視聴していた。
茶系の重厚な絨毯が引き詰められた国会議事堂の中央に父さんが立っている。
「ですから、このまま感染者が増えれば、緊急事態宣言の発出は免れません。第3波が迫っていると言っていいでしょう。東京都の病床はすでに逼迫しているのです。地方でもまもなく同様の状況になるでしょう。県をまたぐ移動は慎むべきです」
父さんは政治家を相手に感染状況を説明していたが、政治家たちはそう真剣に話を聞いているようには見えなかった。居眠りしている者、睨むように父さんを見つめる者、こそこそとおしゃべりしている者など、態度はさまざまだった。
するとスーツを着た群れの前列から、一人の男が挙手をしてマイクの前に進み出た。
「位田先生、第3波が迫っているとの根拠はどこにあるんですか?国民を不安に陥れる発言は慎んで頂きたい」
僕は毎日感染状況を分析しているため、第3波が近づいているのはわかっていた。父さんの発言に間違いはない。
先日、ある政治家が「宣言の発出は我々が決めることだ。専門家が口出しすべきではない」と発言していたのをネットニュースで読んだ。どうやらこの発言者は、口では根拠と言いながら、「発言を撤回せよ」と迫っているように僕は感じた。
画面超しに、わずかだが父さんが顎に力を入れたのが見えた。父さんはウイルス学において、WHOで要職にもついた押しも押されもせぬ世界的権威だ。国際学会に行けば海外の研究者から質問攻めにあい、握手を求められる。
それなのに国会においてこの孤立無援ぶりはどうだろう。なんだか父さんは、たった一人で別世界に迷い込んだ遭難者のように見えた。
プツン、といきなり父さんの姿が消えた。
いや、テレビが消されたのだ。僕が驚いて振り向くと、母さんがテレビのリモコンをテーブルに置いたところだった。その傍らには、サタール中学・高等学校と書かれたパンフレットがあった。
「中学のこと、ちゃんと話そうか。前に通学で電車で何本も乗り換えるのが怠いって言ってたけど、南成中学ならうちから東西線で乗り換えなしで行けるし、いいんじゃないかなと思って」
母さんは、公立小学校で浮きこぼれて不登校になっている僕を案じ、私立中学の受験を強く勧めていた。引きこもり同然の僕に代わって、私立中学校のオープンキャンパスや学校説明会にあちこち参加していた。といっても、現在はオンラインで開催されているので、パソコン画面にかじりついて見ている。
「オンラインなので駆もちょっと見てみない?」と勧めるが、僕は気が乗らず一度も見たことがない。学校なんて、結局どこも教師が管理する空間なのだ。どこに行っても同じじゃないの? と僕は思っていた。
そう母さんにもらすと、母さんはそれは大きな誤解だと言わんばかりにかぶりを振った。
「駆、私立と公立は教育体制が全く違うのよ。開高中学は名門だし、一人一人の個性を尊重するって、校長先生が説明してたよ。インタビュー動画見たけど、学生さんも先生も活き活きしてたし活気があってすごく雰囲気がよかった。お母さん、すごい感動したんだ。駆もきっと気に入るよ」
母さんは、一度これと決めたらとことん入れ込む性格だ。思い込んだものに対して盲目的になる性格は、効果的に作用することもあれば、落とし穴になることもあると僕は思うけど、本人には口が裂けても言えっこない。
「物事は絶対に自分の努力で改善できる」なんて考えは、僕から言わせれば短絡的すぎる。そんなうらやましいくらいシンプルな思考回路を持つ母さんは、人間関係においてはその性格がアダになる可能性に気づいていないようだった。僕の方がそんな母親の性格を見抜いていた。
進路についてお母さんと話したって堂々巡りだ。世間的に小6と言えば思春期の入り口で、親に口答えして反抗する子どもも多いと思うけど、僕はすでにもう、母さんに反抗するモチベーションを放棄していた。
実は母さんは、分子生物学の博士号を持っている。母さんは普段はむちゃくちゃな理屈を言うけど、本気を出したらかなりロジカルに攻めてくる。そのくせ最後は泣き落とししてきたりするから面倒だ。母さんの話は論理と感情がごちゃまぜだから、僕はいつもわけがわからなくなる。まともに母さんの相手をするのは本当に疲れるんだ。
今でも母さんは、独身時代に理化学研究所に勤務していたことを自慢している。当時は「リケジョ」ともてはやされ、メディアの取材を受けたこともあるそうだ。
しかし、父さんとの結婚で研究所を辞めると、最先端の科学からあっという間に置いてきぼりになったそうだ。結婚しただけで、位田栄子でなく、「奥さん」という役割を求められることになり、母さんの自尊心は打ちのめされた。今は「家庭に入っちゃたら学位なんて何の役にも立たないわね」と自嘲している。
あの頃、わが家は父さんが留学して不在だったから、僕と母さんの2人きりの生活が続いていた。そんな中、母さんは社会から隔絶されたように感じ、自分の存在価値を見失いそうになっていたんだと思う。
自分は家庭のために研究者の道を放棄したのに、父さんだけが留学のチャンスを得ている。研究者として着々とキャリアを積んでいることに、焦燥感や妬ましさも感じていたのかもしれない。
母さんは僕が幼稚園に入園すると、とうとう我慢できなくなって、空虚感を仕事で埋めようとしたんだと思う。そこで研究を再開しようと大学教員としての就職を試みたけど、母さんにとって予想外の出来事が起こる。
博士号の学歴を以ってしても、いや、高学歴がゆえに、なかなか採用に至らなかったのだ。
ある日母さんは思い立ち、大学院時代の同期に連絡したんだ。
大学院を卒業した母さんは、友達とともに日本理化学研究所に就職した。すると『リケジョ界の双璧』と呼ばれて何かと比べられるようになったそうだ。若かった二人は互いを意識してしまい、妙なライバル心が芽生え、二人の関係はギクシャクしてしまう。母さんが研究所を辞めたのは、ずっと比べ続けられるのが嫌だったのかもしれない。
一方の母さんの同期はそのまま日本理科学研究所に残り、現在は主任研究員という所内ナンバー2の座についていた。50歳を越えてなお独身のまま、アカデミアに身を捧げていた。
母さんは「今は主婦とはいえ、私は理化学研究所に勤めたこともあるのよ。彼女なら私のことをよくわかっている。何かいい知恵を貸してくれるんじゃないかしら」と期待した。あるいは彼女のツテでポストを紹介してもらえるとか……。
しかし、彼女の口から出たのは意外な言葉だった。
「今は新卒の若いコだって研究者のポストを得るのは大変なのよ。口があっても非常勤とか任期付きとかで待遇も良くなくて、みんな苦労してる。収入が低くて生活が安定しないから、結婚をためらってるコもいるわ。端から見ていてほんと可哀そうなくらい。厳しいこと言うかもしれないけど、栄子みたいに一回現場を離れた人を戻す理由を私思いつかないわ。後進のためと思って、悪く思わないでね。それで、駆くんは元気?何歳になったんだっけ。守さん、ジュネーブどうだったって?いいわねえWHO。私も一度働いてみたいものだわ」
同期の口ぶりから、母さんは、昔一緒に研究した仲間すら、自分のことを「お気楽に暮らしている専業主婦」と思ってるんだなと感じ取った。もう自分は、アカデミアから相手にすらされてないんだと悟ったんだ。
そこで科学の道を諦め、民間企業にも間口を広げて就職口を探したらしい。果ては契約社員やパートにまで求人を探したものの、理科学研究所に勤務歴のある博士号所持者ということで、何人もの人事担当者に「これだけの学歴がおありなら、うちじゃなくてもいいんじゃないですか。うちでは位田さんに満足していただけないと思いますよ」と敬遠されたらしい。
母さんとしては百歩も二百歩も譲ったつもりだったけど、学位が役に立たないばかりか、邪魔になってしまったのだ。いっそ履歴書に学歴を書くのはやめようかと思ったくらいだ。ともかく、努力家の母さんにとって、こんなに何もかもうまくいかないのは初めてのことだった。
あの頃、母さんは毎晩千葉のおばあちゃんに電話を掛けて、泣きついていた。
「お母さん、私、なんのために博士号まで取ったのかしら。あんなに苦労したのに……」
そのたびにおばあちゃんはこう言って母さんを諭した。
「まあまあ、あなたは守さんっていう立派な方と結婚したんだもの。それで十分じゃない。それに駆はまだ幼稚園に入ったばかりでしょう。まだまだお母さんが必要よ。しばらくは家庭に専念しなさいな」
母さんは心の中で唇を噛んだ。
「しばらくっていつまでなの。一生このままなんじゃないの……?」
母さんはおばあちゃんの言葉で、社会も家庭も昭和のまま回っていているんだと思い知らされて、それ以来キャリアを取り戻すのを諦めている。
それでも、人並以上の教養と向上心を備えた僕の母は、プライドを捨て去ることはできなかった。どのように気持ちを切り替えたのか僕には知る由もないが、母さんは生きがいを取り戻したかのように僕に早期教育を施し始めたのだ。
僕はモンテッソーリ教育で有名な幼稚園に入れられて、英会話や公文、ピアノ、スイミング、リトミックダンスなど、いろんな習い事に連れ回された。
母のように、常に人生の目標を掲げ、それに向かって邁進していないと気が済まない『意識高い系』の人間は、こうやって家族や周囲の人を巻き込んでいく。
僕は母さんの期待に答えたくて、すべての習い事に一生懸命取り組んだ。あの頃の僕には、たしかにまだ「母さんの喜ぶ顔が見たい」という気持ちがあった。
しかし、やがてその教育に陰りが見え始めるようになる。小学校に入学してすぐに、僕は登校をしぶるようになったのだ。
僕がまさか学校に行かなくなるなど、母さんにとって寝耳に水だった。
むしろ、これだけの早期教育を施しているのだから、息子は小学校に入ったら、成績優秀なのはもちろん、クラス内でリーダーシップを取るものと信じていたのだ。
でも僕自身は、自分が周りの子どもたちと、ちょっと、いやだいぶん違うことにすでに気づいていた。僕はひどく口数が少ない子どもだった。友達と関わるより、一人本を読み、空想にふけるほうが楽しかった。遊びのルールや、おもちゃの並べ方に自分なりのやり方があって、思い通りにならないときは癇癪を起こした。幼児の頃から、周りから浮いてしまう兆候は確かにあったのだ。
発達障害と診断され、すっかり不登校になった僕のために、学校での合理的配慮を得ようと母さんは孤軍奮闘した。
母さんはオンラインでの授業参加を希望した。しかし「オンライン授業の前例はなく、設備もないし、そもそも一人の生徒のためにそんな労力は割けない」とあっけなく拒否された。
「この現代社会でオンライン授業すらできないなんてどういうことなの!」
と母さんは憤慨していたが、僕はどうでもよかった。
聞かなくてもわかる簡単な授業をわざわざオンラインで聞くのもかったるかったからだ。
そもそも学校というところは、前例がないものはまず実施されない組織なのだ。抵抗しても無駄骨でしかないということを僕はわかっていた。
それよりも、「学校に来ないのはわがままだろう。その上、オンライン授業をして欲しいなどと、自分勝手にもほどがある」と言われた気がした。僕は存在を否定されたようで、地味に傷ついた。
母さんはそれでも諦めず粘り強く学校と交渉し、別室でテストを受けることを願い出た。それには学校からOKが出て、僕は保健室で一人でテストを受けた。
結果はすべてのテストで満点だった。毎年春に行われる文科省の全国学力テストでは1位だった。僕にとっては、眠っていてもできそうなくらい簡単なものだった。
しかしそれが、教師やクラスメイトの反感を買ってしまうことになるとは思いもよらなかった。
「位田君はいつもテストで1位を取っているでしょう。それだけの知能があるのになぜ教室でテストを受けないんですか?」と、ある保護者が学級懇談会で疑問を呈したのを皮切りに、多くの保護者が「ズルなんじゃないの?」とか「頭がいいことをひけらかす演出なんじゃないの?」などと噂し始めた。
それは遠回りに先生たちにも伝わった。
ある日、担任の先生が「私たちは別室でのテストに異論はないんですけど、ただ、このように駆君を特別扱いすることに、クラスの保護者から疑問の声が上がっているんですよね」と母に伝えた。
「合理的配慮」と「特別扱い」は全く別物なのに、先生はそんなことに気づこうともしない。いや、わざと気づかないふりをしているようにも見えた。今となってはもうどっちでもいいけど、僕には学校側は保身を考えているようにしか思えなかった。
要するに、「私たち教員は駆君のせいで保護者から文句言われて、迷惑しています」というメッセージだったのだ。母さんが何かするほど、僕の置かれた状況はどんどん悪くなっていくように思えた。
それから小学6年の現在に至るまで、僕は教室に一歩も入っていない。あれほど母さんが学校に訴えたオンライン授業は、コロナ禍で学級閉鎖になったのを機に導入されたんだけどね。
★
ある晩、21時の就寝時間に寝室に押し込められたものの、眠れなかった僕がドアの隙間からリビングをのぞいてみると、母さんがおばあちゃんに電話しているのが聞こえた。
「駆を公立に入れたのが失敗だったのよ」
母さんは憔悴した声で言った。
「私、甘かったわ。公立がどんなものか、よくわかってなかった。小学校から附属に行くと、周りにはある程度恵まれた家庭の似通った子どもばかりになって、視野が狭くなっちゃうんじゃないかと感じたの。それで駆には校区の小学校に通わせて、世の中がどんなところか知ってほしいって思ったのよね。でも、まさか教員自体に多様性に対する理解がないなんて夢にも思わなかった。公立に行かせたのはほんと大間違いだったわ」
幾度とない教員とのやり取りの末、母さんは公立小学校のことを目の敵と言わんばかりに毛嫌いしてしまった。
「不登校になったのは駆のせいじゃないわ。学校が駆に合わなかっただけ。私立中学校に入学さえすれば、すべての問題は解決するはずよ。私、全力で駆を私立に入れるから」
僕は冷たくて硬いフローリングの床の感触を足の裏に感じながら、母さんは僕のことを全然わかってないと思った。
僕は黙ってベッドに戻りながら、もう母さんの期待に応えるのはやめよう、と思った。
第3章に続く
※この物語はフィクションです。