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パンデミック・ウォーズ(第8話)コロナで父倒れる!その時、駆は…

第8章 コロナ治療薬の開発


「ええ……、はい。そちらでは予約は難しいんですね。わかりました。ごめん下さいませ」
プツッ。母さんがため息をつきながらスマホの通話を終了させた。
「困ったわね。発熱外来、どこもいっぱいで予約が取れないわ」
母さんがスマホでコロナ発熱外来を検索している。
「東大病院で受けさせてもらえないの?」
「父さん、そういう特別扱いみたいなこと、嫌だっていうのよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないんじゃないの?」
 でもねえ、とつぶやきながら、なおもスマホを検索する母さんを横目に、僕は自分の部屋に上がった。
「あ、お父さんの部屋、入っちゃだめだからね」
 階段の最後の段に足をかけたとき、母さんの声が追いかけてきた。
結局父さんは、母さんが見つけた隣町の発熱外来を一人で受診し、その晩遅く、病院から電話がかかり、コロナ陽性との診断を受けた。
 ついにわが家の中で感染者が出た。父さんが発熱した晩から「コロナかもしれない」と認識し、念のため隔離を開始していたが、「黒だった」と診断されたのはショックだった。
 これまで、僕も母さんも「スタンダードプリコーションを取っていればそう恐れるウイルスではないよね」と言い合っていたが、実際に家庭の中に感染者が出ると、感染するのではないかという恐怖に襲われた。
ウイルスがドアノブに付着しているのではないか。消毒し残した部分にウイルスが存在し、新たな宿主を狙ってこちらの様子を伺っているのではないか。家の中のどこに付着しているのか、どこを浮遊しているのか、目に見えない分、神経は消耗し、恐怖感が増した。
 父さんへの感情も揺れた。
 父さんの体調を心配する気持ちと同時に「なんで感染したの? 専門家のくせに、ちゃんと感染対策できてたの?」という怒りや不満の気持ちも湧いてきた。そして「自分もコロナに感染するんじゃないか」という恐怖が自分の中でせめぎ合った。
しかしそう思うたびに、社会学者パーソンズが「病気になったことは、病人に責任はない」と病人役割理論を提唱していたことを思い出した。感染したことで本人を責めるのは間違っている。
 なぜなら、誰がどこで感染するかわからないからだ。もちろんこの僕だって、いつ感染するかわからないのだ。不満が心に湧き上がりそうになるたび、父さんを責めるのは間違いだと自分を戒めた。
 
 父さんのコロナが確定すると、僕と母さんも何となく接触を控えた。家の中は以前にも増して静かになった。僕は頃合いを見計らってリビングに下りていく。
母さんがダイニングに立っている。
「いるかなと思ったけど、やっぱりディスポの手袋買っといてよかったわ」
母さんが使い捨て手袋やビニル袋、アルコールティッシュなどをテーブルに並べていた。もしもに備えて買っていた物品だ。
「お父さんの隔離期間は10日だと思うわ」
母さんが言った。「思う」というのは、まだ保健所から連絡がないからだ。隔離の指示は保健所が出すのだ。もっと言えば、感染症法に定められているものだ。
「駆も基本的には家の中でもマスクをしてね。父さんの食事は私が書斎に運ぶわ。父さんの使った食器や脱いだ服は私が片づけるから、駆は触らないこと。分かってると思うけど、父さんと接触してはいけないわよ。お父さんに用件があればスマホでお願いね。お父さんには2階のトイレを使ってもらいましょう。私たちは下のトイレね」
 母さんがテキパキと指示を出していく。そこまで一気に喋った母さんは時計を見上げて言った。
「それにしても、保健所からからの電話、遅いわねえ」
「今日はもうかかってこないんじゃない?保健所業務、めちゃくちゃ逼迫してるって聞くし」
僕は、昨日のニュースを思い浮かべながら答えた。
「そうね。保健所から連絡来るのは、コロナって診断されてから2~3日はかかってるみたいね」
コロナ禍で、保健所は一気に忙殺されるようになっていた。保健所が逼迫し、感染者への対応が遅れているのに対し、ツイッターでも不平不満や非難の声があふれ返っている。
 
《こっちは高熱出して苦しんでんのに、
保健所かまだ電話かかってこない!》 
《うちは年取ってて心臓病の親がいるから、
 旦那に療養ホテルに入ってもらいたいのに、
電話が全然つながらない!一体どういうこと?
じいちゃんたちにうつったらどうしてくれるの?》
《私と夫がコロナ感染しました。
 0歳の娘はマイナスでした。
隔離して、接触は控えてくださいって
保健所の人に言われた。でも、そしたら
赤ちゃんの世話は誰がするの?
うちらも高熱でしんどくてお世話どころじゃない。
誰か助けてください》
 
あまり報道されていないけれど、保健所が逼迫しているのには理由がある。保健所を統廃合し、保健所の数を減らしたせいだ。保健所数は1997年以降、それまでの約半分まで減らされていた。そのせいで、一つの保健所が担当する地域が広範囲に渡ってしまった。
そもそも保健所には1名か2名の医師と数名の保健師しか配置されていない状態で、平常時でもマンパワーが十分とは言えなかった。それでも、何もないときは何とか業務を回していたが、今のようなパンデミックが起こったら到底対応できるわけがないのが目に見えていた。
平常時の保健所は、確かにゆっくりしているように見えるかもしれない。「公務員は給料泥棒だ」と心無い発言をする者も多かった。
しかし、コロナになってわかったように、公衆衛生は決してコスパでとらえてはいけない分野だ。人々のあらゆる健康リスクを視野に入れ、緊急時に対応できるような余力を持ってお本来は手書き書類ではなく、ハーシーというネットシステムで医療機関と保健所、国を結んで届け出や患者の追跡が行われる予定だったが、使い勝手が悪かったり、医療機関によってはシステムを導入できないなどの理由で、結局ほとんど使われなかった。くのが大切だ。
感染症法の定めにより、コロナを診断した医療施設は、保健所に発生届を提出する義務がある。これはコロナの新規患者数や患者の状態を把握するための重要な届けである。ところが、この発生届を出すのにも、このテクノロジーの時代になんと手書きしてFAXで送っているというから驚きだ。
その結果、このテクノロジーの時代に、職員が患者に電話をかけまくり、手書きの保健所内の各部署に書類を回すなど、なんともアナログな手段でコロナ業務が遂行されたのである。これらもろもろのシステム上の問題で、肝心の患者対応が後手に回ってしまっていたのだ。
これは保健所に限ったことではなく日本の役所全体に言えることだが、とにかくすべてがアナログなのだ。ふだんIT化していなかったから、この非常時に間に合わなかったのだ。ともかく、こういった保健所のITシステムのお粗末さも業務の逼迫に拍車をかけていた。
 
僕はこういったツイッターの投稿に、保健所の事情と整備面での穴を指摘して、保健所職員を責めるのはお門違いだと反論のコメントしようと思ったが、しかしアプリを閉じた。 
琉斗との一件があって以降、今の僕は果たしてこんなことを言える立場にあるだろうか、と思うようになっていた。
決してわざとじゃなかったが、今流行しているおかしな変異株は、僕がゲノム設計図を考えたのだ。嫌なことを感じた時のいつも癖で、僕にとっては空想ごっこの延長だったし、ストレス解消だった。
そもそも琉斗にも、他の誰に見せるつもりさえなかったのだ。琉斗に見せたのはノリというか、うっかりと言うか、ごく軽い気持ちだった。その先にまさかこんなことが起こるなんて全く考えていなかった。そうだ、事故みたいなものだ。しかし、そんなつもりはなかったというエクスキューズが、果たして通用するのだろうか。
僕は最近、ツイッターに投稿する気力がなくなっていた。琉斗と決別してから、ツイッターはぼんやり眺めているだけだ。
僕はこれまで、自分の罪というものを考えたことはなかった。変異株についても悪いのは琉斗だ。僕は100%正しい人間なのだ。僕は絶対に間違っていない。
しかし、一度頭に浮かんだ「罪」の意識は、僕の心に鍋の底の焦げのようにこびりついて離れなくなった。
 
 保健所から電話が来たのは、3日目の夕方だった。
「駆。わかってると思うけど、お父さんの発熱したのが12日で、診断を受けたのは14日だけど、父さんには熱が出た日から書斎に隔離してもらってたから、12日を最終接触日にしてもらったわ。だから、私たちの自粛期間は、だからえーと、21日までね」
母さんがマジックペンで、カレンダーの21日の数字を丸で囲んだ。
「どうしよっかな。多少の食材はあるけど宅配も頼んだ方がいいかしら」
母さんは独り言をいいながら、キッチンの冷蔵庫や戸棚を開け閉めしては中を覗き込んでいた。
「食料とか日用品が足りなかったらアマゾンで頼めばいいじゃん。都の宅配サービスなんて申し込んでも、それこそ殺到して、隔離期間に間に合うかわかんないよ」
「それもそうね……」
母さんがため息をついた。
 
それよりも、父さんの体調が悪化していく中、治療薬の開発はどうしたらいいのだろう。父さんと直に接触はできなくても、LANEでもZOONでも、オンラインでつながれば、別々の部屋で作業をすすめるのは可能だ。
しかし、それよりも、父さんの体調が問題だった。
 発熱した日はそれほど体調が悪く見えなかったが、今は40℃まで発熱し、咳もひどく、みるみる具合が悪くなっていた。頭痛や倦怠感もひどいらしい。ベッドから起き上がるのもままならないようだった。
「駆。父さんがここで治療薬の設計図を考える。お前は心配するな」
LINEで通話すると、父さんはそう言った。
「でも」
「いいから。大丈夫だ。ゲノム編集の技術が必要になってくる。これは父さんがスタンモードに留学していた時に研究していたテーマでもあるんだ。知識も経験もある。心配するな」
ゴホゴホッ。父さんが咳込んだ。
「父さん!!」
 画面越しの父さんの顔が、あまりにも暗くゲッソリとして見えた。もともと疲労もたまっていたはずだ。
「具合悪いのに無理だよ」
 僕は震える声を絞りだした。
父さんはここ何カ月も家に帰宅できないほど多忙だったのだ。しかも若くはない。体力が低下しているのは間違いなく、免疫力が低下していたのは否めない。重症化しないとはいいきれない。
単に照明の当たり具合なのかわからないが、父さんの顔色がまるで死人のように見えた。もしかしたら呼吸機能に影響が出ていて血中酸素濃度が低下しているのかも知れない。僕の背中にヒヤッとしたものが流れた。
「大丈夫だ。じゃあ、着るよ」
僕の不安を立ち切るかのようにLINEの通話画面が消えた。見慣れた待ち受け画面に切り替わる。
僕はその画面を呆然と見つめて立ち尽くした。
 
治療薬の設計に、僕はもうこれ以上タッチできないっていうのか。
 僕は窓際に立ち、ガラス越しの空を見た。遠くに見えるビル群は、雪を含むようなグレーの冬空にかすんでいる。僕はその先にあるはずのスカイツリーを想像した。
 ふと記憶が蘇る。涙で顔をぐちゃぐちゃにし、地団太を踏む小さな自分。
『いやだーいやだー! 僕は父さんと母さんと明日スカイツリーに行くんだー! 3人一緒じゃないなら、僕は絶対に、スカイツリーになんて行かないんだー!!』
あの時、僕は3歳だった。父さんがアメリカのスタンモードに留学する直前の日曜日だ。これからしばらく会えなくなるからと、あの時、僕と父さんと母さんの3人で、開業したばかりのスカイツリーに遊びに行く約束をしていた。でもその前日の夜、急に父さんに仕事が入って、行けなくなって、僕は夜中まで泣きじゃくったんだ……。
ああ、どうしてこんなことを今頃思い出したんだろう。
 僕は自分に苛立ち、強制的に意識を治療薬に戻した。
 僕にはゲノム編集の技術はない。それに濃厚接触者となり、自宅からは出られない。僕に何ができるだろう。父さんが設計図を完成させるのをただ待つだけなのか。
それにもし……。父さんが感染したのが変異株だったら。父さんにも、働く意欲のなくなる後遺症が現れるのだろうか。
 コロナの診断のために父さんが受けたのはPCR検査だった。コロナの診断にはPCRの他、抗原定性検査や定量検査がある。しかしそのどれも、コロナウイルスの存在を調べるもので、ウイルスの株まではわからない。株を調べるにはゲノム解析が必要だが、ゲノム解析は国立遺伝子研究所や大学機関など、大きな設備のある施設でしかできない。
胸のあたりに錐を突き立てられるような痛みを感じ、僕はギュッと目をつむった。
 窓の手前20㎝は、そこだけひんやりした空気の幕があるように寒々しい。僕は冷気を締め出すようにカーテンを閉めた。
 
ピロン。iphoneに、Eメールの受信の通知が入る。
《明日はサピロフロース開催日です。ついに第3波が発生し、みなさまもそれぞれ業務にも制限を受けご多忙かと存じますが、明日もまた、白熱した議論で決起したいと思います。招待リンクよりご入室ください》
 メールの差出人は三木谷教授本人だった。これまでサロンからのメールは事務局として琉斗が送っていたのだが、三木谷教授本人が案内メールを送ってくるということは、琉斗は研究室に来ていないのだろうか。
 だが、琉斗にLINEをする気にはなれない。琉斗とのやり取りを僕はどう処理していいかわからないのだ。当然、琉斗への怒りはあった。あれは裏切り以外の何物でもなかったし、琉斗は科学者なのに倫理的な間違いを犯した。
 僕を裏切ったばかりではなく、当然、三木谷教授のことも、サロンメンバーも、すべての研究者を、そして日本国民を、全世界の人々を裏切ったことになる。
 到底許せないし、正直二度と顔も見たくない。もしサピロフロースに琉斗が戻るなら退会しよう、という思いが頭をよぎった。
 しかしだ。認めたくないが、琉斗の発言には当たっている部分もあった。
何よりあの設計図は僕が書いたのだ。本当に誰かがウイルスを作るとは思わず、ただ気晴らしに設計図を書いた僕と、本当に作製してしまった琉斗。どちらに罪があるのか……。
 ぶるっ。
 それ以上思考するのが怖くて、僕はかぶりを振って考えを打ち切った。
 琉斗のことは存在ごと自分の記憶から消したい。いやもう、僕を裏切った琉斗は、僕とはもう何の関係もない人間だ。
 それが今の僕に出せるすべての答えだった。
 
「お父さん、大丈夫?熱、どのくらい?」
母さんが書斎のドアに密着するほど顔を寄せ、中に向かって話しかけた。LINEのやり取りならリビングからできるのに、母さんは書斎のドアの前で扉越しに父さんに話しかけている。少しでも父さんのそばに居たいかのようだ。
「今熱を測った。40℃越えている。ちょっと……、意識がもうろうとしているようだ……」
「えっ、そんなに?」
ゴホゴホ……、ゴホッ。激しい咳込みが聞こえてくる。しばらく会話が続かない。
「もしかしたら病院……、救急要請してもらうことになるかも知れない」
やっと息が整い、父さんが言った。
「苦しいの?呼吸」
「ああ、ちょっとまずいかな。息苦しいし、めまいもする……。こんなことになるとはな……。家にパルスオキシメーター置いとくんだったな。もしかするとSpO2 95%切っているかもしれない……」
「そんな……」
母さんがイヤイヤするように頭を振った。
「もし意識がなくなるとか容体が急変したら、大学総務と厚労省の事務次官に連絡してくれないか。連絡先、わかるな」
 父さんとまともに会話したのはそれが最後だった。父さんはそのまま意識を失ったのだ。
 コロナ患者は救急車を呼べない。急変時は119番でなく、保健所に連絡し、保健所が救急車や入院先を手配する決まりになっていた。母さんが何度も保健所に電話をしたがつながらない。保健所が逼迫している事情は承知しているが、僕も苛立った。
「緊急の際は優先的に連絡を取る手段くらい考えたらどうなんだよ!頭使えよ!」
僕は苛立ちを抑えられず、つい口に出してしまった。
昨夜見たツイッターのコメントが脳裏をかすめる。
 
《決められた通りのことしか
できないマニュアルお役所》
 
《保健所に連絡するけど、確認します、
お待ちください、それは規定にありません
の繰り返し。少しは自分の頭使って仕事
しろよ、公務員》
 
 《役人はどうせ他人事だからそんな
悠長にしていられるんだろ》
 
今の僕は、このツイートと同じ思いだった。
僕の剣幕に母さんが驚いたように振り向いたがが、いつものように「そんな汚い言葉を使ってはいけません」とか、「冷静になりなさい」とたしなめることはしなかった。悲しい目だった。
僕は、この時、当事者にならなければわからないことがあると知った。
 
 やきもきした気分のまま夜が明けた。母さんは夜中に何度も父さんの様子を伺っていたようだ。あまり寝ていないのではないだろうか。
「父さんは?」
「まだ高熱が続いてる。40℃近くをうろうろしてて、よく眠れないみたい。カロナールと咳止めしかないし、対症療法じゃ天に任すだけっていうか、ほんと手の打ちようがないわね。肺炎、起こさなきゃいいけど……」
 母さんが視線を落としてつぶやいた。
コロナは呼吸器感染症の一種だ。上気道からウイルスが入り込み、感染が成立する。このステージで症状を抑えられたらいいのだが、感染が肺にまで広がると肺炎を起こし、容体は悪化する。さらに進めば、全身の血管に炎症を起こし、心臓や腎臓も機能しなくなる。
 今流行している変異株は、さらに鼻腔の受容体から脳に侵入し、大脳基底核のドパミン受容体にウイルスが付着することにより、ドパミン作用が阻害され、意欲の低下を引き起こす。
さらに、脳にウイルスが侵入することでシナプスが破壊される可能性もあった。万が一、脳神経が阻害されれば、視覚や記憶に障害が出たり、認知機能が低下したりしかねない。記憶や認知機能の障がいは、業務の支障になる。
ただでさえ、コロナの感染後は、「会社に迷惑をかけた」と周囲の目が冷たくなり、針の筵だと聞いている。その上、実際にニュースにもなっていたが、後遺症で業務に支障を来している社員は職場を追われかねなかった。
 肺炎を免れて感染が治まっても、今の変異株の感染後はやる気が奪われ、無気力になってしまう。以前ニュースで見たどこかの企業の社員のように、出社を拒否してしまうのだ。
つまり、体と心の両方に後遺症が残り、意欲面でも身体機能の面でも障がいが出るのがコロナの特徴だった。こうなると後遺症は一過性のものではなく、不可逆性だ。これがコロナ感染重症化による悪夢のシナリオだった。
 
僕はこのシナリオを頭の中で想像して、ぶるっと震えを感じた。父さんが、こうなったら……。膝ががくがく震えていた。マスクを付けているせいで母さんに感づかれにくいのが幸いだった。
10時近くなって、ようやく保健所から手配された救急車が到着した。
 防護服を着た数人の救急隊員が階段を上がっていく。静かだったわが家が一気に騒がしくなった。
 僕は救急隊が二階に上がって来る様子を感じると、接触しないようすぐさま自分の部屋に入った。
 ドアに顔を寄せ、中から聞き耳を立てる。
「位田先生、わかりますか?救急隊員です」
救急隊員が父さんに質問する声がかすかに聞こえる。いくつもの衣擦れの音や足音がせわしなく聞こえてくる。
「主人はどこに搬送されるんですか?」
母さんの声。
「今朝やっとICUに空きが出て、聖母マリア医科大学が受けてくれるそうです」
救急隊員が手短に説明した。
「気をつけろ」
 足音が階段を下りていく音が聞こえる。
 バタン!救急車の扉が閉まる音。けたたましいサイレンが遠ざかり、また静かになった。
 
僕はそっとドアを開けた。踊り場から下を見ると、玄関が開いたままだ。僕も外に出てみる。自粛期間になってから、初めて庭先に出た。
12月の空気はシンと冷えていた。門扉の前に母さんの後ろ姿が見えた。母さんはコートも羽織らず、薄手のカーディガンのままだった。
「母さん」
声をかけたが、母さんは救急車の走り去った方向を見つめたままだ。
「母さん」
僕はもう一度呼んだ。
「駆」
母さんが振り向いた。その目には涙が浮かんでいる。
「父さんなら大丈夫だよ。まだ高齢って年じゃない。血圧とコレステロールは高めだったけど、基礎疾患はなかったろ? 重症化リスクはないはずだよ。病院でちょっと酸素吸入でもすれば元気になるはずだよ」
 僕はポジティブな情報をありったけ挙げてみた。
「……そうね。そうだよね」
 母さんが頷きながら目元を拭った。いつも気の強い母さんが、こんなに弱々しく見えたのは初めてだった。
僕らは無言で家の中に入った。
僕は静かにリビングのソファに座るとい、iPhoneをポケットから取り出した。
LINEを開く。そこには一昨日、父さんから「もしものときには」という前書きとともにもらったメッセージがあった。
 
《呼吸困難の症状が出ている。肺炎の徴候だ。今のステージは中等症Ⅱなのは間違いないだろう。症状は時間を追うごとに悪化している。父さんは数日以内に入院になる可能性が高い。もしも父さんが倒れた時には、このパスワードを使って父さんのパソコンに入りなさい。ファイルにやりかけの設計図を入れている。すまないが、母さんのことも頼んだぞ》
 
カチッ。父さんから引き継いだファイルを開く。
画面に元素記号の列が現れる。最初から最後まで記号を追う。僕が見る限り、設計図はほぼ完成していた。次はこの設計図をもとに治療薬をつくらなくてはならない。
しかし、ここから一体どうすればいいのだろう。
治療薬を作製するには相応の設備がある施設でなくてはならない。治療薬を開発する手順ならわかるが、設備は僕にはどうにもできない。家の中では、これ以上開発はこれ以上、進まない。そうすればいいのか。僕は途方に暮れた。逃げてもどうしようもないことはわかっていたが、目を空けて起きているのが辛かった。
僕はベッドにもぐり込み、頭から布団をかぶって、固く目をつむった。怖くて怖くてたまらなくて、自分をギュッと抱きしめた。

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