見出し画像

パンデミック・ウォーズ(第4話)駆、秘密の科学サロンに入会!そこで出会ったのは…

第4章 科学者たち


「駆~……、ごめん。アイスノン、新しいのに取り替えてくれない?」

リビングでNatureの最新号を読んでいると、背後から声がした。母さんが寝室からリビングに下りてきたようだ。家の中にいる時も化粧をしているほどの母さんが、珍しくパジャマのままだ。

「大丈夫? 熱は下がったの?」

僕は立ち上がってアイスノンを受け取った。
母さんは昨日から副反応の発熱でダウンしていた。ほかにも筋肉痛や倦怠感がひどいらしく、今朝からずっと寝室で横になっていた。

「うーん、パブリンの効果が切れてきたみたい。また熱、上がってきたわ」

母さんはどさりとソファに横たわり、弱々しい声を出した。
僕はキッチンに入り、ぬるくなったアイスノンを平らにならして冷凍庫に入れ、新しいものを取り出した。すでにアイスノンは家にあったのに、接種前に母さんがもうひとつ買ってきた時は、そんなに必要ないのではないかと思ったが、役に立ったわけだ。

戸棚からコップを取り出して水を汲み、パブリンとともに差し出した。

「ありがと。助かるわ」
「駆は変わりないの?」

母さんはパブリンを受け取りながら僕に聞いた。

「何ともないよ。そもそも子どもはあんまり副反応出ないらしいしね」

「ふ~ん、いいわねえ。この洗礼を受けずにコロナの免疫が獲得できるなんて」
母さんが錠剤を口に入れると同時にコップを差し出した。
薬を飲むのが苦手な母さんは、失敗した福笑いのような顔をして、ごっくん、と音を立ててパブリンを飲み下すと、胸のあたりを撫で下ろしてため息をついた。
「副反応は病気じゃないとわっていてもしんどいわ。こんな思いしたんだもの、ヘルパーT細胞にはしっかり免疫つくってもらわなくちゃね」
母さんはソファにだらりと寝そべってテレビをつけた。ふだん母さんはこんなだらしのないことはしない。よほど辛いのだろう。
母さんが見るのも、やはりNHKだ。
画面の中で、中年の男性が腕を組み、険しい表情でリポーターに話している。
「俺ら飲食店は本当に厳しいですよ。コロナで飲み会の予約がゼロになったでしょ、だからもう夜の営業が全くダメ。今はもう、ギリギリで踏ん張っている状態ですよね。第3波が来て、また緊急事態宣言なんてことになったら、廃業も考えないとって思いますよ。うちだけじゃなくてみんなそうです。感染対策も大事だと思うけど、政府には経営のことも考えてもらいたいですね」
 「ターゲット7」でインタビューを受けているのは、都内のどこかの飲食店の経営者だろう。夕方の営業前のはずなのに、男の奥の厨房はがらんとしている、スタッフが立ち働いている様子はない。
経営者の回答に僕はうんざりする。
なぜみんな自分のことしか考えないのだろう。

僕は今日の感染状況の分析を終え、惰性でニュースの続きを見ていたが、自己中な人間の声を聴かされるのはうんざりだ。僕はため息をつきながら、そっとその場を離れ、自分の部屋に引き上げた。
僕が部屋に入って5分もしないうちに、パタンと静かにドアが閉まる音がした。母さんも寝室に戻ったのだろう。

昨日から母さんがダウンしたため、ご飯は僕が準備している。とはいえ、レトルトカレーや冷凍うどんを温めるだけだ。5分もあればできる。
そうだ。なぜ子どもはワクチンの副反応が少ないのか、論文がないか調べてみよう。
僕はいつものようにMacを開いた。
 
母さんの副反応は接種から3日目に改善した。

「まったく、もうこりごりだわ」

母さんは苦笑いする。
それからまた、1カ月が経過した。その間も、実効再生産数は1.0を上回る状況が続き、予断を許さなかった。僕はツイッターをパトロールしては、コロナ感染に異議を唱えるコメントに反論し続けた。

僕がコロナ感染予防のためのエビデンスを提示しても、ほとんど相手に伝わらなかった。
それどころか、相手は論文を読めないようだった。統計資料の読み方も理解できていないようだ。日本人の知識レベルってこんなに低かったったけ?
僕はほとほと愛想が尽きていた。

壁に掛けられたカレンダーを見上げる。アイボリーの地にゴシック体の数字と文字だけのシンプルなカレンダーだ。これは無印のものだったはずだ。
9月21日の欄に「駆 診察」とマジックペンで書かれている。書き込んだのは母さんだ。母さんは、どんな時も丁寧に楷書で文字を書く。

僕の予定は1カ月に1度の受診くらいしかない。1か月ごとというのは、案外あっという間にやってくるものだ。
ソファにもたれて天井を仰ぐ。シーリングライトの光がにわかに目を刺した。

そうだな、明日は診察の帰りにちょっと鹿嶋堂に寄ろうかな、と思い至る。引きこもりの僕が外出するのは、ほぼ、本屋、病院受診、それと美容室くらいだ。
本はアマソンで買えばいいって? そう、確かに本もアマゾンで買うことはできる品物だ。しかし、僕が思うに、本はリアル店舗を訪れるべきスポットだ。

本という商品は他の品物と性質が異なる。ネットでは、自分の欲しい本しか目に入らないことが多い。あるいは、アルゴリズムでおススメされる商品は、自分がお気に入り登録したものと似たり寄ったりだろう。
しかし書店はそうじゃない。思いもかけない本との出会いがある。だから、僕はリアルの本屋を訪れることに価値を感じているのだ。

外出すれば感染のリスクは上がるが、そもそも書店ではマスクを外してしゃべることはほとんどない。よって飛沫が飛ぶ心配はなく、感染リスクは低い場所だと僕は判断している。客が本に触ることによる接触感染のリスクについては、入退店時にしっかり消毒すれば問題ないだろう。

鹿嶋堂とは、帝浜総合医療センターの最寄り駅にある大型書店だ。出版不況で書店がどんどん縮小したり閉店したりしている昨今、この書店は広大な売り場面積を保っている希少な本屋なのだ。
鹿嶋堂は他の書店より飛びぬけて蔵書数が多く、「ない本はない」のが売りだ。そのキャッチコピーにたがわず、品ぞろえは僕の飽くなき好奇心を満たしてくれる。
さらには、この書店の理工学コーナーの担当者、佐藤さんは、京大理学部の大学院を卒業後、書店員になったという異色の経歴を持つスタッフだ。以前、書店の壁に張られた《理工学書コーナー 担当者のご紹介》というポスターに書いてあったのだ。

彼のセレクトは舌を巻く渋さで、まさに職人技だった。
書店員に職人技という表現はおかしいと思うだろうか?

しかし、多くの人は書店における本の陳列には「技」が必要なのを知らないだろう。平積みや面出し、そして棚差し。つまり、本を平らに積み上げて置くか、表紙が見えるように立てかけて目立出せるか、棚に差し込んで陳列するか、並べ方にも技があるのだ。

当然、どの本が売れそうか、読者の好みや流行といった市場調査に基づいている。本の陳列には、書店員のデータ分析や先見の明、感性などに支えられた技が凝らされているのだ。

さらに書店のことを語りたい。ウザかったら遠慮なく読み飛ばしてほしい。
僕がひそかに《科学書の守部》として尊敬している佐藤さんは、科学のアカデミアの主流をきっちりと押さえつつも、王道からちょっと離れた話題、あるいはやや挑戦的なテーマを取り扱った本を、ほんの少し、棚に忍ばせている。一見関連のないように見える2冊の本が面陳されていたので不思議に思って手に取ってみると、逆説が成り立つように並べられているとわかったこともあった。

どうして彼がこの本を入荷したのか、なぜこの並びなのか。本棚を眺めつつフロアをゆっくり歩き、彼の思考を読み解くのが密かな楽しみだ。そうすると新たなアイディアが浮かぶことすらあるのだ。

書店員のプロフェッショナリズム。僕があの書店を訪れ、触れたいと思うのはそれかも知れない。

兎にも角にも、引きこもりのこの僕が「リアルに足を運んだ方がいい」と勧めるくらいなのだから、騙されたと思って行ってみて欲しい。
また、ついでに言っておくが、僕は「外に行くことができない」わけではない。間違えないで欲しいが、僕は「自分の意思で」引きこもっているだけなのだ。出かけていく行く価値を感じれば、僕だってたまには外に出かける。たいていは定期受診のついでにだけれど。
 
「駆くん、科学サロンのこと覚えてる?もしかして気が変わったりしてない?」
「あー……」
 帝浜総合病院、2階のCブロック。僕は佐伯先生から目をそらすと、間抜けな声を出しながら、何の変哲もない、白い診察室の壁に視線を移した。
今、佐伯先生が「覚えてる?」と聞いたサロンとは、前回の診察の際、佐伯先生が僕に勧めた科学者のサロンだ。
 僕の発達を促すため「仲間を作って帰属意識を育むことが必要」とのことで、僕にすすめてきたのだ。
 しかし僕は、あの日以来きれいさっぱり忘れていた。心理学的には防衛機制というヤツかも知れない。それに思いを巡らすと、苦い感情がわくからだ。
 
「前も言いましたけど、入会は結構です。せっかく紹介してもらったのに申し訳ないんですけど」

「まあ、そこまで興味がないんだったら仕方ないわね。それじゃあ、最近気になることは?コロナについて、いろいろ思うところがあったみたいだけど、今はどう考えているの?」

「そうですね。相変わらずコロナ対策より経済活動を優先しろって輩が多いのはめちゃくちゃ腹立たしいです」

サロンの入会をもっと強く推されるかと思ったが、先生がすぐに話題を変えたので、僕は拍子抜けして思わず饒舌になってしまった。

「なんていうか。経済活動を止めるなと言うくせにワクチンは打ちたくないだの、みんな矛盾したことを、毎日好き勝手のたまいてて、僕はイライラしてます。それで僕、毎日ツイッターでバカげたコメントする奴らを叩いてるんです」

「でも放ってはおけないんでしょう?」

先生は探るように僕を見た。
僕は少し天井を眺めて考え込んだ。

「そうですね。イライラするくらいなら放っておけばいいんでしょうけど、まあ、なんというか、人がコロナにかかって苦しむのを見るのはやっぱり忍びないでしょ。僕は別にいじわるしたいわけじゃない。ただ引きこもっているだけで、どちらかと言えば、自分は良心的な人間だと思ってますし」

「じゃあなんで叩くのかな?」

ほら来た。
僕は心の中でつぶやいた。問いを投げかけ、僕が即答できなかったり考え込んだり、あるいは言葉を濁したり否定的な意思を見せると、先生はぐいぐいと掘り下げてくる。

 きっと先生は、僕が答えにくい話題にこそアプローチすべき認知の問題点が潜んでいると考えているのだろう。
しかし僕はこうして佐伯先生に深堀されることに悪い気はしない。むしろ、自分のスキーマに気づくことができるので、僕自身も割と楽しんで回答している。

 だから、的外れな質問をしてくる精神科医だったらこの辺で貧乏揺すりをして嫌面全開にするなど、思いっきり拒否の態度を取って質問を撤回させてやるところだが、佐伯先生の質問にはできる限りつき合いたいと考えている。

「僕がふつうの人より知能が高いのは事実です。自分の読んだ論文や知識を世のため人のために役立てるのは、ある意味、ノブレス・オブリージュだとも思ってるんで」

僕は自分の頭の中を探りながら答えた。

「なるほど。ノブレス・オブリージュ」

先生が単語を噛みしめるように復唱した。

「ところで、駆君の言ってる、“叩く”ってそもそもどういうことなのかな」

ふいに質問され、僕は一瞬止まった。

「私には『裁く』って聞こえるの。私はね、そんなに簡単に人を裁けるのかなって思うのよね」

「裁くなんて大袈裟ですよ」

僕は目を見開いて否定した。
先生は僕の言葉が聞こえなかったかのように続けた。

「今これだけコロナのことでみんないろんなこと言って、時には疑心暗鬼になったり対立したり、差別まで起こってる。でも得体の知れないウイルスが発生しただけで、誰かが悪いことしたわけじゃない。ただみんな自分の思う“正義”に基づいて行動してるだけなのよね。私思うの。正義って何なんだろうなって……。駆くんはどう思う?」

「決まってるでしょう。この世の絶対的な正義はエビデンスです。科学的に証明されたものは、この世の真理です。とういか、先生もドクターならそう思うでしょ?」

「うーん、そっか。医者も科学者といえばそうなんだけど、まあ私は何ていうか、根拠が大事なのは当然だけど、そんなゴリゴリに科学的じゃないかも知れないなあ。基礎医学と臨床はまたちょっと違うしねえ」

医者が科学的じゃないなんてありえないだろう。しかし先生自身がそう言うのだから、とりあえず同意することにした。

「そうですね。医療には経験的な要素も必要でしょうからね。いつでも科学的な選択ばかりはできないでしょうね」

「あら、わかったようなこと言って」

佐伯先生がマスクの下で鼻の頭に皺を寄せたのがわかった。

「エビデンスも大事よ。でも、科学的な事実が明らかでも、社会的には白か黒か答えが出ない問題がたくさんあるわ。医者だってそう。エビデンスがある治療法だからって、すべての患者に絶対効果が出るとは言えないし、患者さんに治療法をおすすめしても受け入れてもらえないこともあるわ。私は、そんなときは必ずカンファレンスで他の先生たちに相談するようにしているし、最近は、哲学的とか倫理学、社会学も何か答えをくれるんじゃないかと思うの。駆くんが感じているコロナの問題だって、いくら訴えてもフォロワーに全然響かないのは、なぜなのかって、サロンに出てみて、それから考えてみるのも一案じゃないかしら」

 先生の話に僕はちょっと心を動かされていた。

「このサロンは単に科学的な議論をするだけじゃないの。哲学の研究者もメンバーに入ってて、学問分野を越えて議論しているって聞いたわ。駆くんの好奇心も刺激されると思うのよ。」

「哲学か……」

先生がそこまで言うのなら、という気持ちが沸き起こる。
入会するのに料金が必要でもないようだし、いざとなったら辞めればいい。僕はそう判断して白旗を挙げた。

「わかりましたよ。ちょっと覗いてみます。面白くなかったらすぐ辞めますからね」

佐伯先生がパアッと笑顔になる。
そして、間髪入れずに白衣のポケットからスマホを取り出し、画面を素早く操作してQRコードを表示した。

「これがサロンの入会サイトのURLよ。さっ、早く読み込んで」

僕もしぶしぶズボンのポケットからスiPhoneを取り出し、カメラを起動させて先生のスマホの上にかざした。
ふいに、僕たちの距離が近くなる。
微かだが、シトラスの香りがした。ボタニカルのシャンプーかも知れない。
目を上げる。すぐそこに、僕のスマホ画面にQRコードが映っているか確認する先生の顔があった。

まいったな。
僕は案外、先生の笑顔が見たかったりするのかもしれない、とチラッと思ったが、次の瞬間にはその考えを打ち消すようにシャッターボタンを押した。
先生はその場で手続きするよう促したが、入力事項もいくつかあるようだし、貴重な診察時間を食ってしまうので、続きは自宅でやることにした。
その遠慮を先生は怪しみ、診察終了時には、

「帰宅したらできるだけはやく入会手続きしてね。確か次の会は来週火曜日だったはずよ。それじゃあ、また」

と念を押された。
診察が終わり、会計と次回の予約を済ませて病院を後にすると、予定通り鹿嶋堂に向かった。

左手首のGショックに目を走らせると、電車の時刻まで37分。鹿嶋堂は駅に直結していて、ゆっくり歩いても改札までは5分。したがって、滞在できるのは32分だ。
僕はまず、いつものように理工学書のコーナーに向かい、端から順番に棚を眺めた。深いグリーンのエプロンを付けた佐藤さんが、本棚の前にかがみ見込み、在庫確認をしているのが見えた。

しかし、今日はとくに目ぼしい本はなかった。気になる本がなかったというより、目の前の本に集中できなかったという方が正しい。それよりも、どんなサロンなのか、不覚にも無性に気になっていた。
僕は予定の滞在時間を18分早く切り上げて、改札に向かた。
 
《サピオフロース 美しき科学の世界へようこそ》
先生から勧められたサロンのHPを開くと、こんな文言が目に飛び込んできた。パープルの画面に、化学式と蝶が舞う姿がデザインされた美しいトップページ。
名前、住所、年齢、所属、入会の動機。
入会申し込みのフォームに必要事項を入力する。入会の動機は、佐伯先生の顔を立て、模範的でもっともらしい回答を書き込んだ。
カチッ。送信ボタンをクリックする。
僕は約束したらきちんと守る男だ。引きこもりだからって、仁義がないわけじゃない。だから、佐伯先生から勧められたサロンについて、ちゃんとこうして入会フォームしたのだ。
 
翌日の夕方、サロンからEメールで返答が来た。
『佐伯先生より君の話は聞いていました。入会を歓迎します』
回りくどい説明や自己紹介はなく、短く要点をまとめたれたメッセージに、科学者らしさを感じた。

《サロン会は来週火曜日の19時より開催します。以前は私の研究室でリアル開催していたのですが、今はコロナのためオンラインで開催しています。ZOOMのURLは後程お送りしますので、ご確認ください》

オンラインならまあいいか。

《承知しました。ご案内ありがとうございます。よろしくお願い申し上げます》

僕も短く返信した。

「駆――! ご飯よ――!」

リビングから母さんの声が聞こえる。
今日は親子どんぶりって言ってたな。
どうせまた味がしないくらい薄味なんだろうけど。そう思いながら階段を下りる。
ダイニングテーブルに着席すると、豚肉の生姜焼きにすまし汁、ホウレン草のごまあえともずく酢が並べられていた。今日は美濃焼きの器が使われている。いつもながら栄養バランスが考えられた完璧な献立に、小料理屋みたいな盛り付けだ。

「いただきます」

僕は両手を合わせた。
僕が食べ始めるのを見て、母さんも手を合わせ、小さくいただきます、とつぶやいた。
サロンのこと、母さんに話した方がいいだろうか。
母さんの生姜焼きは、塩分を抑えるため醤油を少なくしている。その代わりたっぷりと生姜を聞かせているから、正直僕は苦手だ。僕はちらりと母さんを見た。
母さんはホウレン草のごまあえを箸でつまみ、口に運んでいる。

「母さん」
「うん? どうした?」

家の中でもきちんと口紅をつけている母さんの唇が動いた。
12歳のこの年齢まで、僕は母さんに隠し事をしたことはなかった。情報は何でも共有してきた。小学校高学年にもなると母さんに話したくないと思うこともあったが、やはりきちんと話した。母さんがそれを望んでいて、話すのは子どもである僕の義務だと感じていたからだ。
しかし、今回は話さずにいよう。僕だけの秘密にしたいと感じた。

「ううん、いや、今度の受診日は僕がカレンダーに書いておくよ」

僕がそういうと、

「あらそう。ありがとう。じゃあ忘れないうちに書いておいてね」

と母さんがあっさりと言った。
母さんが知らないことを僕はしようとしている。
その感覚は、僕に不思議な高揚感をもたらしていた。
僕はすまし汁を喉に流し込み、手を合わせ、ごちそうさまでしたと頭を垂れた。
 
あれほど入会を渋っていたのに、僕は自分でも意外なことにサロン会の開催を心待ちにしていた。
開催時間はターゲット7の始まる時間と同じだったので、その点は少しばかり不愉快に感じたが、21時からのNHKニュース『ゲットニュース21時』を代わりに視聴することでモヤモヤした気持ちを収めた。決まった予定を変えるのは苦手だが、自己訓練のたまもので、やろうと思えばできるようになった。

開催の日、僕はソワソワしながらダイニングで夕食をかき込み、「ちょっとネットで見たいのがあって」と母さんに断ると部屋に引き上げた。
自分の机の前に座る。パソコンを立ち上げる。指が少し震え、冷たいのに気づいた。

僕は緊張していた。
長いこと母さんと、佐伯先生くらいしかまともに話をしていない。父とは滅多に顔を合わせていない。もともと引きこもりの上にコロナ禍のため、いよいよ人との交流はなくなっていたのだ。オンラインとはいえ、リアルタイムで人と話すのに緊張しないわけがない。

ふいに佐伯先生の顔が思い浮かぶ。
心臓がばくばくしていた。僕は大きくひと息つき、パソコンのマウスを握った。

18時55分。僕はメッセージボックスを開き、三木谷先生から送られていた招待リンクにカーソルを合わせた。

カチッ。URLをクリックする。
待機室の設定はなく、すぐに入室になった。参加者数は18と表示されている。思ったより少ない。まだ開始時間になっていないので増える可能性もあるが、こぢんまりとした集まりらしい。

ほとんどの参加者が画面オンにしている。画面オンが必須とは聞いていない。オンするかどうか迷ったものの、僕自身は仮入会の気分なので、とりあえず画面オフでいいかな、と判断した。

ホストと表示されている枠に三木谷教授の顔が映っている。当たり前だがネットや書籍、YouTubeで見たあの顔が画面の中で動いてしゃべっているのに僕はちょっと感激した。

サロン会が始まるまでは雑談タイムらしく、教授が参加者にそれぞれ近況を尋ね、談笑していた。
三木谷教授が僕の入室に気づいた。

「あ、今度入った位田君だね」

三木谷教授の注意が僕に向けられた。どぎまぎしながら「そうです」と答え、ちょっと言いよどんだ。

「あっ、いいんだよ。画面はオフのままで」

三木谷教授がすかさずフォローしてくれた。

「いくらオンラインだからって、初対面の人間と話すのは緊張するよね。しかも君はまだ小学生で、ここには大人ばかり集まってるんだから。まあ、大人ばっかりと言っても、他では誰も話し相手になってくれない管巻きオヤジたちが、こうして寂しく集まって好きにしゃべってるだけっていうか」

他の参加者から失笑が漏れ聞こえた。

「ありがとうございます」

三木谷教授の配慮に僕は安心感を覚え、素直にお礼を言った。
コロナ禍が始まった頃、YouTubeでオーロラ号でコロナが蔓延した理由や厚労省の落ち度を鋭く指摘する教授を見て、てっきり高圧的な人物だと勝手に推測していたが、実際はそうではなかったらしい。むしろ、細やかな気遣いのできるジェントルマンだと感じた。

「僕はまだオヤジって年じゃないですよ」

笑いながら発言した人物の枠には、河瀬琉斗とあった。確かこの人が、佐伯先生の同期だったんじゃなかったっけ。

「河瀬君の同期の、知り合いってことだったね。しかも君はあの位田先生の息子さんなんだよね」

「はい。父がお世話になっています」

「いやこちらこそ。位田先生はますますご多忙そうだね」

三木谷先生が鷹揚に答えた。
僕たちが話をしている5分の間にさらに3名が入室し、開始時刻になった。ギャラリーモードだと参加者21名の顔が小枠にズラリと並び、威圧感があった。それでなくともオンラインでは参加者の表情が対面するよりこわばって見えて、怖く感じる。

僕はZOOMの画面表示をスピーカーモードにして、他の参加者は見えない設定にした。

「ではこれより今月1回目のサロン会を始めます」

河瀬琉斗が挨拶した。どうやら司会を務めているらしい。そういえば、佐伯先生が「同期がサロンの手伝いをやらされてる」と言ってたっけ。

「本日のテーマは、コロナウイルスの全ゲノム配列です」

河瀬琉斗がそういうと、メンバーからどよめきが起こった。
スタンモード大学遺伝学研究所がコロナウイルスのゲノム解読に成功し、今朝、大学のホームページに公開されていたのだ。僕はいち早く情報をチェックし、ゲノム配列に目を通していた。ヤホーニュースにもなっていたのに、まだ知らないメンバーがいたらしい。

「ついにわかったんですね」
「さすが、現代の科学だと早いですね」

メンバーが口々に感嘆の言葉を述べた。

「これが全配列です。コロナは約3万塩基となっています」

河瀬が画面を操作し、スタンフォード大学が公開したゲノム配列の図を共有した。
 
ゲノムとはいわゆる遺伝情報のことだ。もっと詳しく言えば、生物のDNAの全塩基配列のことを言う。

みんなも理科や生物の教科書で見たことがあると思うが、DNAとは、2本の綱のようなものが絡み合った、あの2重らせんだ。DNAとは、すべての遺伝情報が書き込まれた生命の設計図である。

DNAは、A(アデニン)、G(グアニン)、T(チミン)、C(シトシン)のたった4種類の塩基から成る。この4つの塩基がどう並んでいるかが塩基配列で、どんな生物になるのか、どんな特徴を持つのかが決まってしまうわけだ。

当然、コロナウイルスもゲノムを持っている。持っているというか、ウイルスは植物や動物のように、細胞を持っていない。ゲノム情報がウイルスのすべてなのだ。ものすごく単純な存在なのだ。そんなウイルスは、「生き物と言えるのか否か」という議論もあるくらいだ。

僕はウイルスは生き物だとは思っていない。ゲノムだけの存在で、自ら代謝も行わないからだ。しかし、それならウイルスは何なのかと言われると、答えることができないのだが。

そんなウイルスゲノムには、DNAとRNAがある。コロナはRNAウイルス。RNAウイルスには、たとえばHIVウイルスやエボラ出血熱などがある。名前を聞くだけでかなりヤバそうなグループだろう? よく耳にするインフルエンザもRNAウイルスの一種だ。

ちなみに、人間の遺伝情報であるヒトゲノムは32億5400万対から成る。情報量としては膨大だ。ヒトゲノムの全配列の解読に成功したのが2003年。昔はゲノム解読と言えば十数年かがりの大仕事だったが、科学技術の発展で、今やヒトゲノムもたった1日でに解読できるようになった。
僕は父さんの部屋で見せてもらったDNAのことを思い出していた。あの中に詰め込まれた遺伝情報は、TAGCの4つ塩基、アルファベットで表記される。

Macのスピーカーから、三木谷教授の声が一層大きく響く。

「ようやくコロナのゲノム情報が解読されました。コロナウイルスのゲノムは約3万。ウイルスゲノムとしては大きいことがわかりました。」

さっきHIVウイルスはRNAウイルスの仲間だと説明したが、HIVウイルスのゲノムが9,000塩基。コロナウイルスのゲノム情報の多さが分かると思う。

三木谷教授が共有されたスライドの、ゲノム配列の一部分を指し示した。

「この部分がスパイクたんぱくのゲノム情報です。スパイクゲノムは約3千塩基。ここが治療薬開発のキーになってくるのは間違いないでしょう」

参加者の顔がアップになる。みんな画面に向かって身を乗り出さんばかりだ。
コロナウイルスの構造は、ウイルスの核となるRNAの周りに、スパイクたんぱく(S)、エンベローブたんぱく(E)、マトリックスたんぱく(M)、ヌクレオカプシドたんぱく(N)で覆われた球体だ。そのうちスパイクたんぱくは、棘のように球体から飛び出ている突起上の部分だ。

コロナウイルスは、この突起状のスパイクたんぱくがヒトの細胞に結合して感染を起こすことが分かっている。治療薬を考える上で、このスパイクたんぱくがヒントになるのだ。

スパイクたんぱくをつくるゲノムは、コロナウイルスの3万に及ぶ全塩基配列のうち、3,800ほど。ゲノム情報の約12%だ。そう考えれば、敵の攻略はそう難しくもない気がしてくる。

「これで敵の骨格が明らかになりました。コロナウイルスが体内に侵入するのを防ぐ方法を考え、それをもとに治療薬を考えなくてはなりません。これからがスタートです。しかし、我々人類はここまでコロナを追い詰めてました。あと一歩です。世界中の研究者がコロナ治療薬の開発にしのぎを削っています。資金面など、欧米の研究機関に比べれば、日本が不利なのは否めません。しかし遅れを取るわけにはいきません。みなさんもご存知でしょうが、我々日本人の技術力は世界に誇れるレベルです。みなさん、諦めずにがんばりましょう!」

教授の声に、メンバーから拍手が起こった。
オンラインなのに、画面から熱意が伝わってくるのを感じた。参加者が次々に発言し、議論が始まった。

ゲノムの先手を打つ方策を考えれば、コロナを迎え撃つことができる。
画面に共有された小さなアルファベットを見つめながら、僕は感動としか表現し得ない感覚に身を浸していた。


いいなと思ったら応援しよう!