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パンデミック・ウォーズ(第10話)ついに完結!僕らが向かう混沌とした未来

第10章 未来へ


治療薬の投与から三日が過ぎた。父さんは腎機能も低下し始めていた。治療薬の効果は以前はっきりせず、容体は一進一退だと主治医から電話で説明された。
「治療薬の効果が表れるのは、一週間が限度でしょうか。早い人はすぐに効果が現れますが、一週間を越しても呼吸状態が改善しなければ、治療薬の効果はなかったと判断するしかないかも知れません」
主治医は僕と母さんに、iPadを使った動画面会を勧めた。コロナ禍で医療機関は面会謝絶になっているため、患者と家族との面会は、スマホやiPadを使って行われていた。
 僕と母さんはすぐさま面会を希望した。
「では、看護師がカメラ通話しますので、お時間になりましたらカメラをオンにして電話にお出になってください」
医師は説明し、電話を切った。
動画での面会時間は14時からだった。僕は母さんとアイフォンをテーブルに置き、その前で肩を寄せ合って待った。
呼び出し音が鳴る。
「はい、位田です」
母さんが電話を取ると、画面にガウン姿の看護師さんが現れて会釈した。
「位田様のご家族ですね。お世話になっております、わたくし、聖母マリア医科大学附属病院の看護師の佐藤です。位田先生のご容体については阪本先生から説明されていますよね」
「はい」
母さんが頷く。
看護師さんは頭部全体がゴーグルとマスクで覆われていて、どんな表情をしているのかわからなかった。N95マスクのせいで声はくぐもっていたが、労りに満ちているのが伝ってきた。
「位田様は現在人工呼吸器で管理され、意識はありません。そのため反応はないと思いますが、ご家族の声は聞こえるかもしれません。守様のお姿が見えたら、どうぞ話しかけてあげてください」
看護師が手短に説明した。
「それでは、今から位田様のご様子を映しますね」
母さんが祈りを捧げるように両手を握りしめた。
ガサガサという音ともに画面が揺れると、焦点をとらえて静止した。
ⅠCUの一角だ。
機械があちこちに設置されたベッドが画面に映し出された。ピー、ピーッというアラーム音が鳴り響いて辺りは騒々しい。看護師さんがiPadを近づけ、父さんの顔を映し出した。
父さんの顔は土気色で、生気が全くなかった。口には人工呼吸器の管が差し込まれ、テープで頬に固定されていた。何本ものチューブ、何台もの輸液ポンプや心電図。父さんの周りは機械だらけだった。 
「位田さーん、奥様と息子さんですよー、わかりますかー?」
看護師さんが父さんの耳元で声をかける。
人工呼吸器によって換気されている父さんの胸部が、ゆっくりとしたリズムで規則正しく上下しているのが見えた。それ以外は、父さんの体は微動だにしない。今の父さんは、自分の力ではなく機械によって生かされているのがまざまざと伝わってきた。
目頭が熱くなった。父がこうなったのは、この僕のせいだ。会うことも触れることもできない場所に、父さんはいる。僕は取り返しのつかないことをしたんだ。
「父さん……ごめんなさい、ごめんなさい僕……」
言葉が出ない。母さんが隣で泣き崩れた。
画面に向かって、僕は声を絞り出した。
「父さん、お願いだよ。目を……、目を覚まして……、お願いだから……」
それ以上は言葉にならなかった。
もちろん父からの返事はなく、ブシュ―……、プシュー……という人人工呼吸器の換気音だけが聞こえてくるだけだった。
 
いつ、どのように面会が終わったのか、覚えていない。嗚咽する僕を、母さんが抱えるようにして部屋に連れて行ってくれた。キッチンからココアを持ってきた母さんは、僕の手にそっとマグカップを持たせた。
マグカップを通してぬくもりが手のひらに伝わる。一口飲むと、甘い香りにホッとして、ようやく深呼吸ができた。
「駆、駆はお父さんとあんまり遊んだことなかったよね」
母さんがポツリと言った。
「お母さんもそうだよ。ここ数年、ううん結婚してから、まともにお父さんと話したことなかったな」
母さんの言葉は、独り言のようにも聞こえた。僕は涙を拭い、母さんの顔を見つめた。
「お母さんも駆も、我慢しすぎたんだよね……。お父さんが治ったら、2人でうんと甘えようよ」
母さんの頬も涙で濡れていた。
「それに……、お母さんも……、ちゃんと駆と向き合ってこなかった気がするの」
母さんが僕の目をのぞき込む。
「駆、ごめんね……」
僕の目から再び涙があふれた。
僕だけじゃなかった。母さんも、寂しかったんだ。
僕と母さんは、肩を寄せ合い、これまでの孤独をすべて洗い流すかのように、とめどなく涙を流した。
 
父さんとの動画面会から、1週間経った日曜日の早朝だった。
トゥルル、トゥルル、トゥルル……。
母の寝室から電話の呼び出し音が聞こえ、僕はぼんやりと目を覚ました。こんな朝早くに誰だろう?
「はい……、はい……、ええ、本当にありがとうございます。はい……」
 壁越しに母の声が聞こえる。まさか。
僕は飛び上がり、母の寝室のドアをバンッと開いた。
電話を切った母さんが、スマホを握ったまま、脱力したようにベッドの端に座っていた。
「駆……、お父さん、呼吸状態が良くなって、腎機能も改善してきたから、今日、ECUMOから離脱できるんですって」
「本当?本当なの、母さん!」
「今、主治医の先生から連絡があったのよ」
目の前の母さんの姿がぐらりと歪んだ。
ボトッボトッ。
気が付くと大粒の涙が頬を伝い、寝室の床にいくつも染みをつけていた。僕は泣いていたのだ。
「駆」
母さんが僕の名前を呼び、僕の体を抱きしめた。
「駆、よかったね、よかったね……」
 父さんが、助かるんだ。
涙は次から次へととめどなく流れてくる。安堵という言葉では言い表せない感情が押し寄せる。
新型コロナウイルス感染症の重症者の死亡率は約半数というデータがある中、治療薬が効果を発揮し、父さんは生還への一歩を踏み出したのだ。
 
ガウンを羽織った父さんが、書斎で専門書を読んでいる。父さんは昨日退院したばかりだった。隔離期間は過ぎていたが、仕事はさらに1週間の休暇を取っていた。ここ数年、父さんが2日も続けて家にいたことはなかった。
 僕は父さんに話があり、書斎のドアをノックした。
「どうぞ」
返事があったのを確認し、書斎に入った。相変わらず本が高く積み上げられている。
「父さん、僕、父さんに話があります」
僕はドアの前に居住まいを正して言った。
「そこに座りなさい」
僕は示された椅子に腰かけ、父さんと向かい合った。
ひと息吸うと、僕は切り出した。
「父さん、僕、ハーバードに行ってデータ経済学者になりたいんだ」
父さんはびっくりしたように僕を見つめた。
僕は父さんを見つめたまま話を続けた。
「コロナウイルスは僕たちを試したんじゃないか……って、僕にはそう思えてならないんだ。近代以降、日本では大きな争いも対立も起こらなかったけど、パンデミック下では経済が大事だと主張する人、経済が停滞しても命を守る行動を最優先すべきだという人で分断が起こり、人々はいがみ合った。世界の研究結果を見ると、皮肉なことに、民主主義国家より専制国家の方がスムーズに感染対策が講じられたんだ。もちろん、独裁政治がいいと言ってるわけじゃないけどね」
「わかるよ」
 と、父さんは深く頷いた。
「みんな、命は大事だってよくわかってる。でも背に腹は代えられないというか、経済的なことがネックだったんだよね。一連の騒動の中で僕は、資本主義は本当の意味で僕らは幸せにしたわけじゃないかもしれないと思ったんだ」
「ほう、もっと詳しく説明してくれるかい?」
父さんがわずかに身を乗り出した。
僕は息を吸い、話を続ける。
「資本主義で物質的には豊かになったけど、格差は広がり、僕みたいな引きこもりや精神を病む人も増えた。いわゆるエリートと呼ばれる人たちは、一見勝ち組に見えるかもしれないけど、熾烈な競争に晒されて我を失ったり、いつポストを奪われるか恐怖に怯えたりしている。いわばもう、誰がいつ社会的弱者になるかわからない世の中になってしまったんだ」
父さんは僕から視線を外さずに頷いた。
「平常なときはそういった弱者は表面的には見えにくいから、世の中うまく回っているように見えていた。ひょっとすると、自分さえよければいいと、都合の悪いことは見ないふりをしている人もいると思う。でも、パンデミックが起こったせいで社会のほつれ目が露呈したんだ。このままではいけない。人々の幸福や健康と経済活動を両立させるためにはどうしたらいいのか真正面から考えないといけない。僕は、ちゃんとデータに基づいて、みんなが納得できる答えを見つけたいんだ」
ここまで一気に説明すると、僕は大きく息を吐き、もう一度腹に力を込めた。
「だから、僕はハーバードに行こうと思う」
父さんは微笑みながら深く頷いた。
「いいじゃないか。駆はデータが好きだもんな。それに、自分の経験が活かされている。すごくお前らしいテーマだと思うよ。それが、お前自身のエビデンス、だな」
その表情を見て僕はふと、昔、こんな父の笑顔を見たことがあると思った。
あれはいつだったろう。
そうだ、5歳の頃、この部屋で初めてDNAを見せてもらった時だ。
「ウイルスは排除すべきものだ」と憤った僕を、父さんは今のような笑顔で包み込んでくれたんだ。
今の父の顔には、記憶の中の父の顔よりもいくばくかの皺が刻まれている。
 
父に決意を告げると、僕はどうやってハーバードに行くかを真剣に考えた。
僕は日本の教育課程から降りることを決めた。母さんが勧めるようにサタール中学に行ってから留学することも考えたが、このまま悠長に高校まで行っている時間がもったいなかった。それにせっかちな僕に何年も我慢できる自信はなかった。進学しても途中で中退するくらいなら、今すぐ出発した方がいい。
早速僕はアメリカの飛び級試験を受け、ハーバードの入学試験に挑んだ。さすがの僕も、世界最高峰の大学の試験には緊張を隠せなかった。
入試では『コロナパンデミックにおいて感染防止策を講ずるか否かの個人の決定に影響した因子―経済・思想・国家体制による主要七カ国の比較検討』という小論文を提出し、教授陣の高い評価を受けた。
面接では、小論文の内容について、得意のデータをいくつも引き合いに出して詳細に説明した。コロナ禍で大量に読んだ論文の内容をすべて記憶していため、面接官から何を聞かれても流暢に答えられた。
そしてついに僕は入学への切符を手に入れたのだ。
ハーバードへの道が開けると、僕は急ピッチで留学の手続きを進めた。
 
すべての準備が整い、あっという間にアメリカへの出発の日がやってきた。
「駆、やっぱりお母さんも空港まで行こうか?」
出発の日の朝、何度も母さんが聞いてきた。
荷物の最終確認をしている僕のそばをソワソワと行ったり来たりして、落ち着かない様子だ。
僕はその都度、いいっていいって、と笑いながら断った。
「僕はこの家のドアを開けたら、もう、自分ひとりの力でアメリカまで行きたいんだ」
「でも……」
母さんは目も当てられないくらいおろおろしていた。
僕は玄関の叩きに腰かけて、グレーのニューバランスに足を差し込んだ。靴紐を結び直していると、かがんだ肩越しに、やっぱり不安げな母さんの顔が見えた。
僕は顔を上げて振り向くと、母さんの方に向き直り、こう言った。
「母さん、今までありがとう」
母さんが目を丸くして玄関に立ち止まった。
それは母さんにいつか言わないといけないと思っていた言葉だった。
「じゃあ、いってきます!」
僕は勢いよく沿道に出た。
家から1ブロック歩くと急に道路わきに視界が開けた。そこに建っていた古いアパートがいつの間にか取り壊され、更地になっていたのだった。
一歩下がり、物体があったはずの空間を見渡す。するとその先に、澄み切った天を刺す白い塔が見えた。
スカイツリーだ!
そうか。見たいものが今いる場所から見えない時は、見えるところへ移動すればいいんだ。どこへ行くのか、何を見るのか。すべては自分の意思で決められるのだから。
僕は笑みをこぼしながら、視線を再び道の先に戻す。
よいしょっと、バックパックを背負い直し、地下鉄の駅に向かった。東西線に乗り東京駅で乗り換えると、1時間ほどで羽田空港に着いた。事前にターミナルの構造を頭に入れていたので、迷うことなく出国カウンターにたどり着く。
チェックインを終え、あとは搭乗時間を待つばかりになった。すると突然、ぐうう、とお腹が鳴った。
ついこの間まで引きこりだった人間がいきなり早朝から活動し始めたのだ。お腹が空くのもしょうがないよな、と僕は少し自嘲気味に笑った。
ロビーを見渡す。まだ空港利用客は少なく、ロビーはがらんとしている。
カフェテリアが目に入ったので、何か食べようかな、そう思って立ち上がった時、
「駆―!」
父さんの声がした。
 空耳かと思って目を凝らすと、エスカレーターを降り、息せき切らしてこちらに走ってくる父さんの姿が見えた。
「父さん、どうしたの。今日は大学じゃないの?」
「駆に伝えておきたいことがあって抜けて来たんだ」
言い終えるやいなや、父さんはゴホゴホと咳き込んだ。
コロナの後遺症で父は喘息のような咳をするようになった。弾んだ呼吸がなかなか落ち着かない。肺の換気量が少なくなっているのだろう。父さんの弱った姿を見て僕は胸が締め付けられた。
「大丈夫?」
「ああ、もう大丈夫だ」
父さんは肩で大きく息を吸いながら僕を見つめた。
「駆。父さんが言えたことではないかもしれないが」
少し気まずそうな父さんの顔。僕は少し首を振り、その目を見つめた。
父さんが意を決したように口を開いた。
「研究者として一番大事だと思うことを教えておくよ」
僕は目で頷く。
「父さんは、研究者にとって真に大切なのは、一流誌に載るとか賞を取るとかということではないと思っている。そういうことは表面的な成果のひとつにすぎない」
「うん。肝に銘じておく」
父さんは僕の目を見据えたまま話を続けた。
「研究者にとって一番大事なことは、自分自身のエビデンスを見つけ、人生をかけてそれを貫くことだ。信念のない研究など所詮砂上の楼閣だからな。お前はもうそれを見つけたんだ。これからいろんな壁がお前の前に立ちはだかるだろう。しかし、どんなときも絶対に自分のエビデンスを見失うんじゃないぞ」
父さんが僕の肩をしっかりと抱きしめた。こんなふうに父さんに触れたのは、初めてかも知れなかった。そして父さんが力強く右手を差し出した。
僕は頷き、その手を握り、固い握手を交わした。
僕は父さんに手を振って搭乗口に向かい、JAL597便に乗り込んだ。荷物を頭上に押し込んで座席に身を沈める。
ニューヨークまで14時間。僕の座席は窓側で、ちょうど左翼の横だった。小さな窓から外をのぞくと、朝の光を浴びた翼がきらきらと輝いていた。
「まもなく、当機はJ・F・ケネディ空港に向けて離陸致します。みなさま、お手元のシートベルトをお締めください」
 機内アナウンスが流れる。
にわかに心拍数が上がり、気持ちが高ぶってきた。僕は力を込めてシートベルトを引っ張ると、腰に回してロックした。
カチッ。澄んだ音が響く。
エンジン音が耳に迫り、機体が動き出した。
全身に重力がかかる。空港ターミナルが、次に東京の街並みが加速度的に視界から遠ざかっていく。
「さあ、いよいよだ」
僕は体を固定しているベルトを、はやる自らの感情を制御する手綱のように感じていた。
 
                                       了
 
 
2023年5月5日、WHOは新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言を終了した。
日本では5月8日、新型コロナウイルス感染症からコロナウイルス感染症2019へと改称され、感染症法上の分類で2類感染症から5類感染症へと引き下げられた。
2023年6月時点で、全世界のコロナ感染者数は約7億7千万人に上っている。
2019年12月に中国武漢市でコロナウイルスが発生してから3年半。事実上、コロナパンデミックは収束を迎えた。

 
それでも僕は今も、これからも、不確実な世界を生きていく。
 
 


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