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この作品は、10,232文字の短編小説です。
章立てはありませんが、読みやすさを考慮して、ある程度の長さ(文字分量)で分割しております。
お読み頂けるととても嬉しいです。コメントで感想などお寄せ頂けると幸いです。
※ 文中の《 》は、ルビとしてお読みください。

 私は、どうかしている。

 私は、狂っている。

 いつから、こんなことを考えるようになったのか。
 この女のせいだ。
 目の前で、こちらに向かって、表情を変えずに微笑んでいる、この女のせいだ。
 この、あどけなさ。小作りの顔の中で、その三分の一を占領しているかに見える大きな瞳。その色は深く、日本人離れした色合いで、光の加減によって深いグレーに輝く。
 こうして、キャンバス越しに見つめているとその中へ引きずり込まれそうで、いや、蟻地獄だ。藻掻《もが》けば藻掻いた分だけ、その中へずぶずぶと落ちていく。
 私はもう腰のあたりまで潜っているのだろうか。
 少しふっくらとした肉厚の唇。半開きで、声もなく微笑んでいる。
 ああ、どうにかなりそうだ。
 しかし、私の手は憑かれたように色を塗りつけている。描かずにはいられない。
 どこまで本物の彼女をキャンバスに描き尽くせるだろうか。
 何十年、こうして絵を描いてきたことか。この世界でも名前も知られ、私の描いた作品を求めてくれる人たちもいる。そんな私が、この娘《むすめ》の前で、なんて惨めなことか。
 文字どおり、まだ少女だ。女性としてのカラダにもまだなりきれていない。まだ、数年はかかるのだろう。
 そんな娘《むすめ》の前で、なんてちっぽけなものか。
 この女の力に脅《おびや》かされるように震えながら筆を動かしている。

 女が急に立ち上がった。座っていた椅子が不快な音を立てて後ろへずれる。
 「ねぇ、先生。どこまでかけたの?」
 「               」
 女が私に近づいてきて、キャンバスを覗き込む。背中まで届きそうな、艶《つや》やかな黒髪が、ふわりと揺れた拍子に私の鼻先をかすめる。
 くすぐったくて、甘い香り。
 「なんだ、まだ、それだけ?」
 「            」
 「あたし、脱ごうかなぁ?
  ねぇ、どうかなぁ?
  脱いでもいい?」
 この娘《むすめ》は何を言っている?
 あまりにも唐突な言葉だった。突然すぎて、彼女の言っている意味がわからず、一瞬その真意を探ろうと、その表情を覗き見て探ってみたが、無理だった。
 ただ、変わらずに、にこやかにこちらを見ているだけだった。
 「全部描いて。だめ?せ・ん・せ・い」
 甘えるような、いや、この私を試しているような、そんな響きのある言葉だった。
 にこやかに、涼しげな表情は変わらないまま……
 「そうしよう。いちばん素敵な君を描いてあげるよ」
 ばかな。そんな自信がどこにある。この娘の全てを描き尽くすなんて。できるはずがない。この娘の一番素敵なところなど想像もつかない。私の到底理解できないような深いところにあるんだ。きっと、そうに違いない。
 なのに、この娘は私の言葉を信じて喜んでいる。
 口元の両端を少し上げて、『ほんとに?あたし、うれしい』そう言って笑みを浮かべている。それが、さっきまでとはまた違う表情なのだ。同じこの娘から、同じこの顔から生まれてくる表情なのに、なぜこんなに受ける印象が変わってしまうんだろう。
 なぜ、こんな笑顔になれるんだろう。
 なぜ、こんなに喜べるんだろう。
 私はただ……ただこの娘の全てを見てみたいだけなのに。
 私の心の内を今にも悟られないかと、内心不安で不安でしかたなかった。
 けっして見透かされてはいけない。

 「ねぇ、先生、後ろ向いてて。恥ずかしいから」
 「ああ」
 私は、娘の言うままに後ろを向いてアトリエのドアを睨みつけるしかなかった。
 背後で衣ずれの音が聞こえる。
 彼女のために用意した、柔らかな生地の白いワンピースを今脱いでいるのだろう。
 前の部分に少し大きめのかわいらしいボタンが並んだワンピースだ。
 罰を受けてもいい。信じる神もいない私がそんなことを考えている。
 どうかしてしまったのだ。この女のせいだ。
 かすかにその音を変えながら衣ずれの音はまだ続いている。永遠にこの音を聞かされ続けるけるのではないかと不安に思えてくる。
 「ごめんなさい。もういいわよ。先生」
 またしても唐突な娘の声で、どきっと驚かされた。覚醒したような感覚を覚えた。
 恐る恐る私は後ろを振り向く。
 娘は、白くて華奢なその腕で胸元を隠しながら、大切なものをしっかりと抱きかかえるようにして斜めに構えている。
 思わず私は目を逸らして部屋の隅に視線をやると、娘が脱いでたたんだ衣服がそこに丁寧に置いてあった。
 彼女の魅力を引き立てるだろうとイメージして用意した衣装ではあったのだが……
 この娘を包み込んで閉じ込めておくなんて到底無理なことだったのだ。そう、そのすばらしさを覆い隠してしまう邪魔な布きれなど、彼女はいとも簡単にするりと抜け出してしまったのだ。
 娘はゆっくりとカラダをこちらへ向け、元の椅子のところへ戻ってゆく。恥じらいの様子を見せながら、うつむき加減に腰を下ろすと胸のところにあった腕をカラダの上を撫でるようにして下の方へ動かし、両の膝へ持って行った。
 全てがスローモーションで進んでいた。
 このアトリエだけが、ここの空間だけが、まわりの世界から隔絶され、少しずつ少しずつ時の流れがずれていっているのだ。
 娘は顔を上げた。

(続く)

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伽倶夜咲良 / 小説投稿(プロではありません)
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