MODELカバー1280x670

 雲が少し切れたのか、太陽の乳白色の日差しがまた差し込んできて、カーテンの揺れが微妙な陰影を造り、彼女の上へ投げかけている。
 うっすらとした、消え入りそうな光線が逆光となり彼女のカラダを柔らかく浮かび上がらせる。彼女の微かな動きに合わせて揺れる髪の毛の一筋一筋のわずかな隙間から漏れてくる光が、黒髪とコントラストを造ってまばゆくきらめいている。
 彼女のシルエット。
 薄い皮膚の下から透き通るように浮かび上がった血管の一筋、細部まで私のキャンバスに描き写したい。
 そのまばゆさに眩暈がして、私は思わず手にした筆を取り落としてしまった。
 ひどくゆっくりとした動きで筆は床の上に跳ねた。何か、ずれたようなタイミングで筆と床のぶつかる音が反響した。
 私は筆を拾おうとして、腰を曲げてしゃがみ込んだ。
 その時、くすっ、という彼女の笑い声が彼女の唇から漏れた。
 その声に誘われるままに、反射的に、私はしゃがんだ姿勢のまま、身体をねじらせて彼女を見上げる格好になっていた。
 そこに、小首をかしげて、大きなくりっとした目を細め、こちらに向いて微笑んでいる彼女がいた。わずかに唇を開き、口角を上げて、唇の両の端がきゅっと愛らしく上を向いている。
 可愛いとか、綺麗だとかいうそんな言葉では形容しきれない何かがそこには存在した。
 今まで経験したこともない至福感が私の全身を包み込み、その包み込んだものはやがて帯のように形を変えて、身体にまとわりつき、ぐるぐると巻き付き、幾十にも縛り上げ、締め付けていく。体中の血液はこの上ない至福感で沸騰して濁流のように流れ出そうとしている。至福の血流と、至福の縛りとのせめぎ合いが私の中で葛藤を始めた。
 バツッ。
 その瞬間、大きな音を立てて私の頭の中で何かが切れた。

 先ほどからずっと、脳髄の片隅で発芽し成長し続けていた或イメージが今やもう、ピンク色の肉塊いっぱいに広がり根をはり、視神経から網膜に焼きつき、実像となって私の目の前に姿を現した。
 彼女の白い裸体の上に極彩色の強烈な赤を塗りつけたい。
 溶岩のような熱いどろどろとした液体でこの繊細な線を塗りつぶして破壊し、ずたずたに切り裂きたい。
 今まで積み重ねてきた価値観が崩れてゆく。
 乳白色の柔らかな光に包まれた彼女のカラダの上に、だぶるようにして、二重映しの映画のような混沌とした情景が私の前に幻出している。
 ミロのヴィーナスの均整の取れた曲線が、熱に焼かれブヨブヨと垂れ落ちていく。
 モナリザの微笑む表情が、時の流れに浸食され、皺がミミズ腫れのように広がり、剥がれ落ちていく。
 レンブラントの陰影が、更に鮮烈な光に晒《さら》され光暈《こううん》の中に白《しら》んで埋没していく。 
 ラファエロの聖母の慈愛の面持《おもも》ちが好奇の視線に冒涜《ぼうとく》され、
 ゴッホのひまわりが枯れ果て、
 シャガールの色彩が滲み溶け出して、
 ダリの研ぎ澄まされた精密で繊細な線が絡み縺れて、
 ガウディの未完成の寺院が、老朽したマンハッタンの高層ビルのように、爆破され砂塵を巻き上げながら崩壊していく。
 最高に美しいものが破壊され、崩れ落ちていく様のなんて美しいことか。
 誰一人として見ることのできなかった美の本質、美の正体を、今、私だけが目の当たりにして垣間見ることを許されたのだ。
 誰も成し得なかった。美を理解したものは誰もいなかった。この領域に到達できたものはどこにもいなかった。私だけが、この私だけが、今まさに美に触れる瞬間を迎えることができたのだ。
 私の意識はこの空間に溶け出し、宇宙全体に拡散して……傍らにあったペインティングナイフを力一杯に握りしめていた。握りしめた指先の爪が掌の肉に食い込み、濁った深緋色《こきひいろ》の血液と、指先に染みついた絵の具の色が混じり、ペインティングナイフの刃先に得体の知れない液体が滴るように垂れていく。
 赤黒く、鈍く光るものを握りしめて私は一歩、娘の方に踏み出した。

 イーゼルが倒れる。
 キャンバスが床にはじけ飛んだ。
 描きかけの娘の絵が歪んで捻《ねじ》れた。
 不思議なことに音はなかった。
 無音の世界……

 娘は何が起きているのかわからない風で、大きな瞳を一層大きく見開いてぽかんとした表情でこちらを見つめている。
 また、一歩踏み出す。
 娘がはじけるように立ち上がった。
 その拍子で今まで座っていた椅子が後ろに跳ねて倒れた。
 この世のものとも思えないほど大きな音が響き渡った。
 私のいる世界と、娘がいる世界は違う。
 その違いをまざまざと突きつけられたような気がして、胸の奥が鋭利なものを押しつけられたように疼いた。
 椅子の倒れた音がまだ頭の中で反響している。
 もうすぐだ。もうすぐだ。

 娘の顔が歪む。苦痛の表情を見せながら、背にした窓の方へゆっくりと後ずさっていく。
 その表情だ。
 その表情が見たかったんだよ。
 やっと、わかってくれたんだね。
 私のこの身の内にあるものが、君に伝わったんだね。
 私と一体になれるよ。もうすぐ。
 また、一歩踏み出す。

 娘は、倒れた椅子に足を取られ、不自然な形にカラダをねじ曲げてその上に倒れ込んだ。
 彼女の裸体と、椅子と、髪の毛が絡み合って奇妙な形の美しいobjetに見える。
 そして、もぞもぞと動きながら、そのobjetとの絡みはしだいに解《ほど》けて、また、別々の物体に再造形され、娘は四つん這いになって這うようにして横へ逃れた。

 私はどうかしている。私は狂っている。
 私はどうかしている。私は狂っている。
 私はどうかしている。私は狂っている。
 私はどうかしている。私は狂っている。

 自らの行いを正当化するためなのか。自分自身を納得させるためなのか。元の愚直な画家に引き戻すためなのか。その言葉を意味もわからないままに何度も何度も口の中で反芻してつぶやいていた。なぜつぶやいているのか?何をつぶやいているのか?何もわからなままにつぶやいていた。
 また、一歩踏み出して、更に娘の方へ近づいていった。
 もう、逃げられない。
 彼女の上に覆い被さっていく。
 険しい目つきで、最後の抵抗をみせながら、きっ、と私を睨みつけている。
 娘はもう動かない。
 彼女の首筋から赤く熱い液体がどろどろと流れ出している。
 流れ出した液体は、鎖骨から胸の谷間を伝い臍《へそ》のくぼみに向かってゆるやかな弧を描きながら娘のラインをなぞってゆく。
 臍に溜まった液体はすぐに溢れ出し、またカラダの低い部分へ向かって流れ出す。
 後から後から流れ出す液体で、そのうち、娘の白くまぶしいカラダは深紅に染め上げられることだろう。
 両の足が変な格好でだらしなく開いている。
 その間から、うっすらと桜色に色づいた唇が私に向かって微笑んでいる。
 まるで、隠れんぼを楽しんでいる小さな子供が、必死で探し回っている鬼を、隠れた物陰からこっそりと覗き見て微笑んでいるような、そんな風にも見えた。
 そう、先ほどまで、声もなく微笑んでいた、ふっくらとした肉厚の唇と同じ表情を私に見せている。
 美しい。
 この色合いのコントラスト。
 無垢の完璧さが私の掌の中で崩壊していく。
 少女と女の境界にある。どちらにも属さないこの未完成さが彼女の美しさに力を与え、表現することさえ許さない圧倒的な魅力を完璧なものに仕上げていたことを、今、私は確信した。
 やっと、この娘に触れることができる。
 どぎまぎしながら、そっと、彼女の顔を覗き込む。
 こんな心境は久々だ。いつしか忘却していた感情だ。
 今となっては、新鮮な感情と言っても間違いではない。
 涙で潤んだ、彼女の不思議色の瞳の中に、閉じ込められて身動きできずに藻掻《もが》いている、ちっぽけな私が見えた。

(続く)

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伽倶夜咲良 / 小説投稿(プロではありません)
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