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セスブック 個人的現実の本質 第3章 暗示とテレパシー、観念の集まり

さて、口述再開。第3章、「暗示とテレパシー、観念の集まり」。

思考には、電磁的な実体があります。観念は、リアリティ現実の、特質についての強固な概念であり、
概念は感情を生み出します。類は、友を呼ぶので似たような概念が、互いのまわりに集まり、
あなたは、自分の思考の「システム体系」、と、一致しているものを受け入れます。エゴ自我は、
一定した明確なフォーカス焦点を、維持しようとします。そうすれば、意識的な心の見方を、いくらか正確に方向づけ、

永久に、変わらないように思われる、現実領域に集中できるからです。前に述べたように、エゴ自我は、
全体自己の一部でありながら、その人の、すべてに属する多様な特徴から、なっている心理的な、「構造」、と定義されます。
それは、まとまって体系化され、自己の表面を、形成しているのです。一般的にいって、こうした心理的構造を、
持つことによって、生涯を通じてたくさんの、素質や能力を発揮しやすくなります。それが、別のやり方よりも、

多くの潜在能力を、表面化させるのです。たとえば、もしそういう構造が、なかったらあなたの関心は、
一生変わらないでしょう。エゴ自我は、ずっと同じであるように見えるのに、実は、全体自己からの新たな特徴に、
順応したり、ほかのを退かせたりして、絶えず変化しています。そうでないとエゴ自我は、全人格的な要求や欲求に、
とても応じきれません。エゴ自我は、全体自己のさまざまな部分と密接に、かかわっているので、
基本的に疎外感や孤独感はなく、意識的な心のフォーカス焦点の役割を、あずかる司令塔として誇りを、

持ってふるまいます。その点でエゴ自我は、意識の協力者なのです。実際のところ、エゴ自我は自らの根源と、
特質とを理解しています。エゴ自我は心の一部であり、物質的現実を見渡して、そのとき自分を、
形づくっている特徴とのかかわりの中で、リアリティ現実を検分します。そして、自分についての自身の概念に従って、
判断を下します。あなたの内なる自己の中で、エゴ自我はもっとも物質世界に適応している部分です。
しかしそれにもかかわらず、内なる自己から離れてはいません。あなたと外側の世界とのあいだにある、

いわば窓枠に座っているのです。自我は、あなたと外側の世界の両方をのぞくことができ、
エゴ自我自体や、あなたの必要性を、念頭においてリアリティ現実の特質を判断します。
そしてエゴ自我は、観念を受け入れたり、受け入れなかったりします。けれども、あなたの意識的な心から情報を、
締め出すことはできません。ただし、それに、注意を向けないようにすることは、できます。といっても、その情報が、
無意識の領域のものになるわけではありません。それは、ただ心の片隅に投げ込まれたまま吸収されず、
あなたがそのとき注目している観念群には、組み込まれないというだけで、探せばそこにあります。

それは、認識できないものではないのに、自分が探しているものが何かを正確に知らなければ、
ほとんど気づきようがない状態になってしまいます。あなたが、するべきことは、自分の意識的な心の中身には、
これまで見落としていた宝物が、含まれているということに気づき、そこを調べようと決意することです。

もう一つ別のやり方は、調べることを通して、自分が経験する物理的な影響は、すでに、意識的な心の中に、
データとして存在しているということに、気づくことです。すると、以前は、利用できないと思われていた情報が、
明らかなものになります。あなたの困難を、引き起こしている一見目につかない思考が、実は、明らかな物理的影響を、
持っているのです。それらを、たぐっていけば自動的に、元の観念や考えが宿っている意識領域へと、導かれるでしょう。

つまり自分の意識的な考えに気づくようになると、それら自体が手がかりを与えてくれるのです。意識的な考えは、
あなたの観念を忠実に、物語っているのですからね。たとえば、生きていくのにやっとのお金しかなかったとしましょう。
自分の考えを調べてみたら、「こんな請求金額はわたしに払えるわけがない。なんてついてないんだ、わたしは、
ずっと貧乏だ」、と、いつも思っているかもしれません。あるいは自分よりお金のある人々を、妬んだり、

ひょっとすると、お金の価値をさげすんだり、そして、お金持ちは不幸だとか、結局は、精神的に貧しいのだ、
などと言っているかもしれません。自分の中に、そういう考えを見つけると、たぶんかなり憤然として、
「だってほんとにそうなんだから。わたしは貧しい。お金が払えない」、と、言うでしょう。よく聞いてください、

そうすることで、あなたはリアリティ現実についての、自分の観念をリアリティ現実、そのものとして認めているので、
その観念は、あなたにとって当たり前の、空気のような存在となります。しかし、それがあなたの物理的な経験を、
引き起こしているのです。その観念を、変えなければなりません。そのための方法があります。たとえば別の領域で、
自分の考えをたどってみたら、自分は、あまりにも傷つきやすいので、苦労しているのだという思いに、
行きあたったとしましょう。そして、「でもそれは事実だ。本当に、わたしは傷つきやすい。ささいなことにも、
すぐ感情的に反応してしまう」、と、言うかもしれません。しかし、これも事実ではなく一つの観念で、

しかも、自らを制限するものです。その考えをさらに追っていくと、「わたしは自分の感じやすさを、誇りに思っている。
そのおかげで普通の人より目立って見える」、「わたしは立派すぎてこの世界にはそぐわない」、などといった思いが、
出てくるかもしれません。これらは自らを制限する観念であり、本当のリアリティ現実を、あなた自身の本当のリアリティ現実を、
歪めています。これらはほんの数例にすぎませんが、あなた自身の意識的な、考えは常に利用できるのに、あなたには見えず、

しかも、あなたの経験を制限しているのです。さて、わたしたちが、意識的な心のことを話しているのは、
それが、あなたの物理的活動の指揮者だからです。すでに、述べたように、エゴ自我は疎外されているのではなく、
それ自体は、外を向いて物質的なリアリティ現実を、見ている内なる自己のもっとも、「表面」、の部分しか、
担当していないということを、はっきりと理解することが重要です。この比喩にならえば、自己の部分は、

意識的な心の反対側で、絶えずテレパシーでデータを受け取っている、ということになります。とはいっても、
実際には区分というものはなく、表面や、反対側というのも、単に話をわかりやすくするための、
用語だということを忘れないでください。エゴ自我は意識的な心に入ってくる、あらゆるデータを、
体系化しようとします。というのは、あなたが、物質的現実に接する際に、最前線を取り仕切るのが、

エゴ自我の仕事だからです。前に述べたように、エゴ自我はマテリアル情報を、意識的な心に、
入れないようにすることは、できませんが、そこから注意をそらすことはできます。さて、先ほどの比喩でいけば、
テレパシーによる情報は、自己のより深い部分に入っていきます。そこは、驚くほど受容力に富んでいるので、
データを、えり分ける何らかの、仕組みが必要になります。あなたにとって、まったく重要ではない情報もあり、

それらは、あなたの知らない人々に影響します。あなたは送り手であり受け手でもあります。
思考には電磁的な実体があるので、観念はそれら自体の強烈さのために勢いよく放射状に広がっていきます。
すると、有機体であるという、あなたの心理的な性質のために、似たような観念が集まり、あなたは、
すでに同意しているものを進んで受け入れます。それゆえに自らを、制限する考えがあると、あなたは、

それと似たような性質のものを、つい受け入れやすくなります。自由、自発性、喜びという豊かな考えもまた、
自動的に同じ種類のものを集めます。あなたと、ほかの人々とのあいだには、常に相互作用があり、
テレパシーでも意識的レベルでも思考を、やりとりしています。こうしたやりとりもまた、あなたの意識的な観念に、
従います。人はテレパシーで受け取ったメッセージに対しては、意識的な観念や思考に関係なく身体的に反応する、

という見方があります。しかしそうではありません。テレパシーによるメッセージが、自分自身やリアリティ現実についての、
意識的な概念と一致した場合にだけ反応するのです。意識的な心はそれ自体、自発的なものだということを、
つけ加えておきましょう。意識的な心は、自らの中身を使って楽しく遊んでいます。ですからここでわたしは、
一瞬ごとに自分をチェックするような、厳しい精神的鍛錬を勧めているのではありません。自分の経験に、

満足していない分野で、あなたが採用することができる、対抗策について話しているのです。あなた方は、
リアリティ現実の、本質についての意識的な観念に従って、受け取るすべての情報に反応します。
自己のより深い部分は、時間についてのエゴ自我の概念を、考慮に入れる必要がないので、
普通はエゴ自我の知覚が、取りこぼしているデータをも処理しています。おそらくエゴ自我の時間がある、「時点」、に、達するまで。
日常の世界を、もっとも直接扱わなければならないエゴ自我は、時間つまり時計時間というものを、相当に重く考えます。

エゴ自我は、時計時間が一つの慣習であることはある程度わかっていても、その慣習が、破られることを好まないのです。
エゴ自我は、自己のより深い部分から意識的な心に、入ってくる直観的なデータあるいは、予知的なデータをたいてい無視します。
しかしときおり、そういうデータがとても実用的なものかもしれないと、気づくと、エゴ自我は、より寛大になります。
ただしその情報が、可能か不可能かについての自らの概念と、一致する場合に限られます。さて、エゴ自我は、
あなたの一部なので、エゴ自我の概念はあなたの概念です。あなたが危険や災難の可能性について、
くよくよ考えたり、あるいは主に、自分の物理的存続の観点から世界を見て、それに対して、不利に働くかもしれない、
あらゆる状況に思いをめぐらせたりすると、事故や地震、強盗、殺人といった出来事を、告げる予知夢に突然、気づくことになるかもしれません。
あなた自身の存亡の危機に、まつわる考えが激しさを増すと、たとえそれが「調子はずれ」、なものであろうと、エゴ自我は、
そのデータを表面化させます。なぜなら、あなたの恐怖の観念が、身を守る必要があると、エゴ自我に信じさせるからです。

そこにあなたが、介在するまでもなく、テレパシーや直観などによって、入手できるあらゆる無意識のデータから、あなたは、ほかでもないその種の、
データの集まりに気づくことになります。そしてそのことによって、生命がもっとも、危険にさらされているという考えを、ますます強めるでしょう。
こういう情報を夢で見るようになると、「夢が怖い。わたしの悪夢はあまりにもよく当たる」、と、思うかもしれません。それで夢の記憶を、

抑圧しようとします。しかし、本当はそうではなく、まず自分の意識的な観念を、調べてみるべきなのです。意識的な観念はとても強力なので、
あなたの心を、物理的な世界の災難に集中させるだけでなく、内なる能力まで、その目的のために、使わせるようになってしまうからです。
テレパシーによるコミュニケーションは絶えずなされています。たいていは無意識レベルですが、それは単にあなた方の意識的な心が、
変化する精神状態にあるからです。意識的な心は、あなたが持つ情報のすべてを抱えることはできませんが、あなたの意識的な、
概念が比較的にポジティヴなものなら、あなたは、たとえ無意識レベルが機能しだとしても、それが、テレパシーで受け取ったのと似たような、
性質の情報に反応するでしょう。先に述べたように、あなたもまた自分の考えをテレパシーで、外に送っています。それに対して人々は、
みな、自分のリアリティ現実についての概念に従って反応します。一つの家族が生命力や強さ、創造性といった観念に専心することによって、
家族の喜び、陽気さ、自発性を絶えず向上させることもあれば、恨みや怒り、疑いや失敗などの考えを強めることによって、

気づかぬうちに家族のエネルギーの、大半を削いでしまうこともあります。いずれにしろ、リアリティ現実についての概念は、
家族内だけではなく、その家族が接するすべての人々のあいだで、意識的にも無意識的にも、強化されます。
あなたは自分が、注目しているものを手に入れるのです。ほかに主要な法則はありません。
他の人々が、自分で気づかない彼ら自身の観念を、あなたは容易に理解することができるでしょう。この本を読むと、
友達や知人の考えが、彼ら自身の経験を制限する目に見えない観念になっていることが、あなたには、

多分はっきりわかるでしょう。けれども、彼らは自分自身の目に見えない観念には気づかず、すぐに、真実あるいは、
リアリティ現実の特性と見なします。ここでも、あなたの感覚データが、あなたの観念を確実に強化します。
あなたは、また無意識レベルで、内なる情報に対し、直観やテレパシーを反応させています。それは、一般的な存在、
そして特に、あなた自身に関する観念のもとに有機的に「集められた」、ものです。そうしてあなたは、感覚データの、
すばらしい裏づけで、強化された物理的環境の中に閉じ込められます。当然、その裏づけには説得力があります。

なぜなら、それはあなた自身の観念や信念を、ポジティヴなものであろうとネガティヴなものであろうと、実に見事に、
極めて創造的に、とても生き生きと再現しているからです。より大きな視点で言えば、ポジティヴかネガティヴかを、
問うことにほとんど意味はありません。物理的な経験はすべてが学びなのですから。しかし、あなたがもし不幸だというのなら、

ネガティヴという言葉は意味を持ってきます。あなた方読者はもう自分の観念を、少なくとも調べはじめているだろうと思います。
ことによると、いままで明らかなリアリティ現実の、一面として受け入れていた、目に見えない観念のいくつかを垣間見ているかもしれません。
自分のリストに正直であれば最終的に、「核の観念」、と、わたしが呼ぶ、自分の存在についての、強い思いに行きつくでしょう。

すると、それぞれ別個のように見えていた、多くの付随する観念は、実はどれも核の観念の枝葉だったことが、はっきりしてくるはずです。
それらは、核になる概念との関係においてだけ、道理にかなって見えます。そのため、いったんその核の観念が、
誤ったものであることがわかると、それに付随するものもみな消えてしまいます。核の観念は極めて強力で、
あなたに物質世界の中から、それと関連する出来事だけを、集中的に知覚させます。また内なる知識の広大な貯蔵庫から、

自らの観念体系に、おさまりそうな出来事だけを引き上げるのも、核の観念の力です。核の観念の手短な例を挙げてみましょう。
たとえば、観念の中でも包括的なものには、「人間の本質は、そもそも悪いものである」、というのがあります。これは核の観念です。
このまわりに、ただ、それを強化するのに、役立つ出来事が生じてきます。そして、この観念を、抱いている人の知覚に、
個人的および世界的な経験が入ってきて、それらが、また、この観念をよりいっそう深めることになるのです。その人は、

新聞やテレビ、手紙、私的な会話など、利用できるあらゆる物理的データの中から、この核の観念を、「裏づける」、
事柄にだけ注意を集中するようになります。そして、自分への不信感は言うまでもなく、人々に対する猜疑心が募るでしょう。
その観念は、人生のもっとも個人的な領域にまで及び、ついには、それを誤りだと裏づける証拠は何一つないようにさえ、
思えてきます。これは最悪の状態にある、目に見えない核の観念の例です。このような観念を抱いている人は、
配偶者、家族、友達や同僚のことも、また国や世界をも信頼しないでしょう。一方、より個人的な核の観念には、
「わたしの人生には、何の価値もない。どうせ何をしても無意味だ」、というものがあります。

さて、そういう考えを抱いている人は、普通それが目に見えない観念だとは気づきません。むしろ感情的に、人生は無意味だ、
個人の行為には意味がない、死は消滅だと思っているのです。そして、そうした核の観念のまわりには、補助的な観念の集まりがあり、
それが家族や、その人が接触するすべての人々に、強く影響を及ぼすのです。さて、自分の観念をリストアップするときには、
何一つ書きもらさないようにしてください。リストを、ほかの人々のもののように調べてごらんなさい。とはいえ、特に、ネガティヴな、
考えのリストを、つくるようにというつもりはありません。何より重要なのは、喜ばしい観念が、あることに気づき、これまで、

果たしてきた成功の要素を、考慮に入れることです。その達成感をとらえて、それをこれまで、苦労していた分野に適用してください。
しかし最初に観念があり、あとから、物理的な経験がついてくるということを、覚えておく必要があります。あなたが、

自分のリアリティ現実をつくっています。これは何度言っても言い過ぎではありません。あなたの観念のすべてが、リアリティ現実と、
釣り合っているように見えるときがあるでしょう。一致しているのです。観念は、とても制限的だったり、間違っていたり、真実ではない、
前提にもとづいていたりします。けれども、その生命力や強さはまったく本物で、見事な結果をもたらすように、見えるのです。
「富がすべてだ」。この考えは少しも真実ではありません。もっとも、これを、完全に受け入れている人は、裕福で健康状態もすばらしく、
そして、あらゆることが自分の観念と、うまく一致するでしょうが。けれども、その考えはあくまでもリアリティ現実に、従う観念なので、

その人自身の意識が、及んでいない実際の経験との、あいだに目には見えない溝が存在しています。その状況は、
外からは最高に有利なものに見え、本人はすっかり、満足しているように思われる一方、そのもとで、不完全さを、
知るがための苦しみがあるでしょう。うわべは安定しているのです。しかし、あなたの気づきによって、観念が変わると、経験やふるまいに、
変化が現われ、力、つまり創造的な力が発揮されるポイントも変わってきます。たとえば先述した金持ちの場合、
自分の観念に目を奪われ、あまりにお金と健康ばかりを重視してしまうようになり、そのことによって、突然、自分の観念が、

自らを制限するものだったと悟るかもしれません。観念が打ち砕かれたせいで、もしかしたら彼は、病気に罹りやすくなるかもしれません。
また、そのことをネガティヴな経験のように、感じるかもしれません。けれども病気を通して、それまで拒絶していた知覚分野へと、
導かれ、逆にそのことによって精神的な豊かさを、得るかもしれないのです。観念の変化によってたぶん彼は、ほかの観念も、
見直してみようとするでしょう。たとえば富の分野では、自分の観念によって成功したことを、改めて自覚します。また他の分野、
おそらく病気によって、より深い経験が開かれた分野において、人はそれまで心を閉ざしてきた、現実世界をも経験していることに、

気づくでしょう。しかもそれらは、実際には病気などしなくても、容易に到達できるところに、あったことにも気づくでしょう。
さらに新たな観念のまとまりが、生まれる可能性もあります。その間はストレスがかかりましたが、実はそれは創造的なものだったのです。
さて、もう一つ例を挙げます。あなたの意識的な考えは、健康状態も管理しています。したがっていつも病気のことを、
考えていたら病気になるでしょう。あなたがウイルスや病原菌で、あるいは、たまたまでも病気になると信じているあいだは、
その観念体系の範囲でしか処置してくれない医者に、罹るに違いありません。もちろん医者の治療を信じているので、

あなたは医者にかかることによって、悩みから解放されるでしょう。とはいえ、あなたは自分の思考が病気を、
つくり出していることを理解していないので、病気は完治せず引き続きそれに耐えなければならない。
それどころか、さらに新たな症状を引き起こして、また医者に行くことになります。自分の観念を変える過程にあるとき、
つまり想念や感情が病気の原因になっているのだと、気づきつつあるとき、あなたは、しばらくのあいだ、打開策を見出すことができないかもしれません。

なぜなら、俯瞰してみれば、医者は、せいぜい一時的な安心を与えてくれるだけだと理解することができますが、
一般の人間には、そんなに思い通りに思考を改められるということ自体が、信じられないし、場合によっては、思考の持つ力に、
圧倒されておびえてしまうということもあるからです。ですから、ひとまとまりの観念を捨てて、別のひとまとまりを、使えるようになるまでのあいだ、

あなたは、観念と、観念のはざまで、ストレスを感じる時期があるのです。しかしここであなたは、自分の思考を見かけのリアリティ現実と、
照らし合わせて確認しながら、個人的なリアリティ現実の、本質のもっとも意義ある側面に、かかわることになるのです。
自分の考えを効果的に変える方法を、習得するまでに時間がかかるかもしれませんが、それは、取り組みがいのある根本的で、意義のある試みです。
実は、あなたは自分のリアリティ現実を、じかに形づくっているのです。意識的にも無意識的にも自分の観念に反応し、それと相互に関連すると、
思われるデータを、物質的な宇宙から、そして内なる宇宙から引き寄せています。ですから、あなたは生まれつき、無限の存在であり、

自らの本質である壮大な、喜びとあるがままの自分らしさを、できる限り好ましい形で体現するために、肉体を持って生まれてきた、ということを信じてください。
あなた方は、核の観念のまわりに人生を築きます。そして、それらについて意識的に気づいています。もっとも、あまりそれらに注意を向けませんが。
しかし、そのように自分の意識的な心の中身に、気づかないうちに、次第に核の観念は、目に見えないものになるのです。自分自身の考えや観念を、
よく知るには、言ってみれば目隠しを外して、それらの中を探索しなければなりません。あなたが、自分で創り出した構造を、つまり自分の経験を、
分類するもととなる、体系立てられた思考を、調べなければならないのです。自分自身の心の中を、はっきりと見るには、まず体系化された思考を、

ばらばらにほどき、それらに判断を加えることも、観念の枠組みに照らすこともなく、ただ思考をたどっていく必要があります。構造化された観念は、
あなたの経験を集めて評価し、それをまとめています。だからあなたは別のもののように、思われる経験を見ても、
よく調べもせずにその観念体系のまとまりの中に入れてしまいます。そのような構造の中には、思いがけないものが入っていることがあります。
それの覆いを持ち上げてみると、その中に、そこには、似つかわしくないような価値ある情報が隠されていることに気づくかもしれません。

不自然に分類分けされた観念が、基準となる、核の観念のまわりにペーパーフラワーのように、集められていることがあるのです。
核の観念は、それ自体の強烈さと、あなたの習慣のせいで、似たような性質のものを引き寄せやすく、それらがそのまま保持されます。
常日頃から、自分自身の心を調べていないと、一つの観念のまわりに、そうした出来物がいくつも育ち、やがて個々に見分けることも、

できなくなります。そうすると自分の経験すべてを、この「観念の出来物」、との、関連でしか見られなくなっていきます。
そうして核の観念と、無関係だと見なされるデータは、吸収されず使われもせず、心の片隅に投げ込まれ、価値あるその情報は、
あなたの手に入らなくなります。あなたの心のあちこちに、そんな使用されていないマテリアル情報の小部屋があるかもしれません。
それらの情報は、あなたの体系化された日常の思考には組み込まれないので、意識的に役立てられるもので、あるにもかかわらず、
気づかれないままになっているのです。普通は特別の理由があって、何らかの情報を見つけるために、自分の意識的な心を調べます。

しかしあなたが、そのデータを意識的にm利用することはできないと思うようになっていたら、意識的な心の内部を探そうとする気持ちは、
起きません。そのうえ核の観念のまわりを、意識的なデータががっちり固めていたら、あなたは、核の観念と結びつかない経験には、
自動的に気づかなくなります。核の観念が見失われるのは、それを、「人生についての一つの観念」、としてではなく、「人生の事実」、と、
見なすときだけです。つまり、自分自身が核の観念そのものになってしまい、自動的にある一定方向の知覚にしか、注意が行かなくなるのです。

たとえば、「わたしには親としての責任がある」、という、一見まったく無害な核の観念があります。表面上、この観念に何も問題はありません。
けれども、この観念に固執し、言葉の意味を、よく吟味していないとしたら、たとえば、「責任がある」、という、言葉だけにとらわれ、
その意味を含んだだけの、浅い観念をたくさん寄せ集めている、自分に気づくことがあるかもしれません。責任があるということについて、
あなたは、どのような概念を持っているでしょう? その内容によって、あなたの核の観念が、本当にあなたの利益のために働いているかどうかがわかります。

もしあなたが、「責任がある」、とは、「ほかのすべてを犠牲にして1日24時間、親であらねばならない、」という、意味だと考えていれば、
たぶん困ったことになるでしょう。というのは、その核の観念は、あなたが親であることと、関係のないほかの能力を、あなたが使うことを、
妨げるかもしれないからです。すると、あなたは、すべての物理的なデータを、その核の観念の目だけを通して知覚することになります。
もはや、子どものような驚きに満ちた目や、個人としての自由な好奇心からではなく、常に親の目で物質的現実を見渡すのです。

そうやって物理的な経験の多くを自分から閉ざしてしまいます。こうした観念の強さと頑固さに応じて、そして、それに対して自分で、
何とかしようという意志があるかないかによって、気づかぬうちに、その頑ななパターンに適合するデータがテレパシーで、引き寄せられてきます。
そうして自分の人生はどんどん狭まり、ついには、親としてのリアリティ現実に触れるもの以外、どんな種類の情報も目に入らなくなるかもしれません。

さて、いま述べたのは核の観念の一つです。あなたにはいくつかの基本的な前提があり、それもまた核の観念です。それらは、
あなたにとって定義のようなものでしょう。あまりにも、自分の一部になっているので、あなたはそれを当然視しています。時間の概念に関してもそうです。
あなたは、心の中で時間の概念を、巧みに操って楽しんでいるかもしれません。そしてたぶん、「時間」、とは、それを経験している自分とは、
別物の存在と考えているでしょう。基本的に、自分は、年月と時間の中に存在し、毎週新しい一週間がやってきて、季節の奔流に、

飲み込まれていると信じているのです。当然ながら、あなたの、物理的経験はこの観念を強化します。そうして、出来事と出来事のあいだに、
時間の経過があるように見え、その観点からあなたは、知覚を組み立てます。すると、あなたの関心はいやおうなく、一方向だけに集中させられ、
違う知覚の仕方で、人生の出来事をとらえることが困難になります。ときどきあなたは、一つの考えから、容易に別の考えが浮かんでくる、
連想ということをするでしょう。そうすると、新たな洞察が得られることがよくあります。心の中で、時間の連続性から外れた出来事は、
新鮮な生命力を帯びて見えます。それは、あなたが、それらをいつもの思考体系から解き放ったからです。出来事を連想によって、

直観的に理解するようになると、自分の心の中身を自由に、調べるという域にかなり近づきます。ただし時間の概念を手放しても、
ほかの核の観念を、通して意識の中身を見るなら、あなたはやはり組織化しています。意識的な心の中身を、
体系化してはいけないと、いっているのではありません。自分が築き上げたその構造に気づく必要があるということです。

組み立てるのも解体するのも自由ですが、「心という家」、の中にある家具に、気づかなくなってはいけないといっているのです。
置き場所を誤った観念は、古椅子と同じくらいつまずきやすいものです。こう考えてごらんなさい。あなたの観念は、家具のようなもので、
並べ変えたり買い換えたり、そっくりお払い箱にしたり、また元の場所に戻したりできるものなのだと。あなたの観念はあなたのものです。

だから観念にあなたの方が、支配されるべきではありません。一旦受け入れようと決めたものであっても、実際に受け入れるかどうかは、
あなた次第なのです。家具を並び変えている自分を、想像してみましょう。家具のイメージが、はっきりと心に浮かんだら、
それらがどんな概念を、象徴しているのか自分にたずねます。テーブル同士が、うまく調和しているかを確認し、たんすの中身を開けてみてごらんなさい。

そこに不可解なものはありません。あなたは自分の観念が、どんなものかをよく知っています。その配置もわかるでしょう。しかし、心の中を見て、
そこにある概念を、どのように使うかはあなた次第です。自分に合わない概念は捨ててください。自分の内部にそういう概念を見つけ、
「でもこれは捨てられない」、というなら、その心の声は、それだけで一つの観念だと理解する必要があります。実際には、その、「捨てられない」、
という考えも、自分に合わない概念と、同じくらいあっさり捨てられるものなのです。あなたは観念に対して無力ではありません。

さっきのたとえを使えば、きっと思いがけない家具がいくつか見つかるでしょう。意識という内なる部屋の真ん中をのぞくだけではいけません。
そして先に、述べた不可視性に対して常に警戒していなければなりません。その部屋では、観念が、思い通りに利用できるものであるにもかかわらず、
リアリティ現実の一部であるように、見えてしまうのです。観念の構築は、極めて特徴的であると同時に、それぞれ異なったやり方で、なされます。
そのため観念のまとまり方には、多彩なパターンが存在し、ある一つのものから別のものへと結びついていることに、気づくでしょう。

たとえば、「親としての責任」、という概念は、責任に関するほかの精神構造と、たいへん結びつきやすいので、その言葉に重点をおいて、
情報を受け入れてしまうことになります。するとどんな状況においても、親としての立場抜きで、思考することは間違いだと考えるかもしれません。
罪悪感に対する観念は、似たような核の観念をまとめてコンクリートのように固め、いっそう強い構造にします。それらは役目を、終えたがらくたのような、
概念ではないことを、理解する必要があります。こうした観念は精神の成分であり、ある意味で生きていて、細胞のように集まり、自らの正当性と、

アイデンティティーを守っているのです。比喩的に言えば、そこへあなたは、餌をやるように同種の考えを補給します。そういう観念の一つを調べると、
明らかにその構造の完全性が、おびやかされることになります。そこで、急場をしのぐために、いわば新たな支柱を差し込むという方法もあります。
そうすれば、その構造の基盤を調べても、核の観念全体が崩壊することはありません。

想像力もまた、あなたの主観的な人生において、観念に動きを与えるという重要な役割を果たしています。
それは、観念を物理的な経験に、変容させようとする動機をもたらしてくれます。そのため観念と、想像力の相互関係を理解することは、
極めて重要です。不適当な観念を、取り除いて新たな観念を確立するには、想像力を使って自分の心から概念を、
出し入れすることを学ぶ必要があります。想像力を適切に使えば、思考を自分の望む方向へ進ませることができるのです。

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