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小説「わたしのともだち」5(全6話)

 一年前、千鶴の姉に長女が誕生した。
 早く子どもが欲しいと、結婚当初から願っていた姉夫婦にとっては待望の第一子、千鶴の両親にとっても待ちかねた初孫だった。
 千鶴がその子にはじめて会ったのは、生まれてから三日目のことだった。仕事が忙しく、平日は会いに行けなかったのだ。土曜の休日、可愛いぞお、とにやける父の車に乗って会いに出かけた。母と叔母は千鶴たちよりも先に病院に向かっていた。
 病室のドアを開けた時、千鶴は首を傾げた。奥から聞こえてきた大勢の笑い声の中に、家族以外の人の声があったからだ。
 病室には姉夫婦とふたりの間に誕生した姪っ子、母、叔母がいた。
 そして、友香里とその母親も。
 ……ひさしぶりー、千鶴ちゃん。
 友香里は千鶴を見るなり、いつもの調子で声をかけてきた。
 前夜に母が友香里の母親に、明日千鶴も来るからもしよかったら病院に来て、と電話をしたらしい。すると友香里もちょうどリハビリステーションから帰省しているところだったので、それなら友香里も連れて行く、という話になったということだった。
 姪っ子を中心に、両親をはじめ皆大変な盛り上がりようだった。姪っ子は全然人見知りしない子で、誰が抱っこしても泣いたりせず、にこにこ笑顔や半分寝ぼけた顔を見せては、皆を和ませた。両親は少しでも自分が長く抱きたくて、ふたりで孫の取り合いのような状態になり、姉と叔母になにやってんだか、と呆れられた。
 友香里も抱っこした。最初こわごわした様子だったが、友香里の頬を姪っ子がぺちぺち、と触れたのがよかったのか、やがて可愛いねーと歓声を上げた。
 ……あんたも抱いてあげてよ。
 ひと通り皆が抱っこし、おむつ替えも済んだ後、千鶴は姉に促された。わたしはいいよ、抱っこ下手だから、と両手を振ったが、いいからいいからと、姉から姪っ子を腕にあずけられた。
 ……わあ。
 思わず声が上がった。
 考えてみると赤ちゃんを抱っこするのは、友香里の時以来だった。おむつ替えを終えたところですっきりしたのか、姪っ子はすうすうと眠りに落ちていた。
 ……可愛い。
 つぶやきと共に笑みも漏れた。ああそうだ、赤ちゃんってこんなだったなあ。姪っ子の寝息と温かさと甘いお乳の匂いと心地よい重みを感じながら、千鶴は思い出していた。
 しかし、徐々にその笑みは消えていった。
 千鶴の中で、奥底に沈み込んでいた記憶が次々とよみがえってきていた。
 まだ赤ちゃんだった友香里をはじめて抱かせてもらい、可愛いと笑った時のこと。
 ミルクを飲む友香里のそばで、友香里の母親からもらったおやつを食べ、その後一緒にお昼寝させてもらった時のこと。
 おもちゃのらっぱをぷうぷう鳴らしたら、友香里が手を叩いて喜んだこと。
 そして、よちよち歩きができるようになった友香里を抱いて公園に出かけた時、黄色いボールを見つけ、その後……。
 千鶴は、いつの間にか自分が涙を流しているのに気づいた。
 落ちた涙が姪っ子の頬を濡らした。眠っていた姪っ子が目を覚ました。そしてはじめて泣き声を上げた。あの日の公園での、友香里のような。
 ……ごめん。友香里ちゃん。ごめん。
 千鶴は泣きながら、やはり泣いている姪っ子に何度も何度も謝った。ごめん友香里ちゃん。痛かったよね。ごめん。ごめん。ごめんなさい……。
 ……千鶴、あんた、なに言ってるの。
 驚いた母の声が聞こえた。
 両親、姉夫婦、叔母、友香里の母親が困惑した表情で千鶴を見つめていた。
 そんな中、友香里だけが心配げに首を傾げ、大丈夫ー、と、千鶴の背中をさすってくれていた。

 夕暮れが近づき、皆帰ることになった。母に、後で教えてね、と耳打ちする姉の小声が耳に入った。
 千鶴は両親、友香里、友香里の母親と共に実家に戻った。静まり返った茶の間。両親と友香里の母親を前に、千鶴は肩を縮め、正座した。視線が自然と座卓の縁に固まった。膝に置いた両手が細かく震えた。
 友香里は二階にある千鶴と姉の部屋に向かった。娘たちが独立しても、母は部屋をそのままにしていた。友香里はなにか難しそうな話がはじまる気配を感じると、その場から離れる癖が昔からあった。自分にはわからない話だから、と思うらしい。だからこれから、千鶴たちの部屋の本棚にある漫画でも読むのだろう。
 千鶴は語った。幼き日、あの公園で起きたできごとのことを。長い間押し込めていた、あの日の記憶を。
 ……本当に、申し訳ありません。
 長い告白を終えた時、千鶴よりも先に友香里の母親に謝罪したのは、千鶴の母だった。娘がとんでもないことをしてしまいました。取返しのつかないことをしました。本当にすみません。次いで父も口を開いた。知らなかったこととはいえ長い間なにもお伝えできず、本当に申し訳ない。これはすべて親である私共の責任です。とても許していただけることではありませんが、どうかお許しください。謝罪の言葉を重ねてから両親は友香里の母親に、手をついて頭を下げた。千鶴もそうした。畳に額がついた。
 ……千鶴ちゃん、顔上げて。
 どのくらいの時間がたったか。やがて、友香里の母親の声が聞こえた。
 いつもと、昔から変わらない、穏やかで優しい声だった。顔をそろそろと上げると、声とおなじく穏やかな微笑みがあった。両親にも顔を上げるように促してから、友香里の母親は続けた。
 ……話してくれてありがとう、千鶴ちゃん。だけどね、友香里がなんでああなったかなんて誰にもわかんないの。昔、お医者さんにも言われたもの。友香里が入院した時もいろんな検査したけどね。だから千鶴ちゃんのせいかなんて、誰にもわかんないの。誰のせいでもないのよ……。でも辛かったでしょう、千鶴ちゃん。ずっと胸にため込んできたんだもんね。そうだよね。そんなこと、怖くてしゃべれないよね。
 ……そろそろ帰ろうよー、お母さん。
 階段を下りる足音の後、茶の間に友香里が入ってきた。いつもののんびりした声。しきりに目をこすっていた。漫画を読むのにすっかり飽きてしまったようだ。
 そうだね、そろそろおいとましないとね。友香里の母親が娘の髪を撫でた。茶の間はすっかり暗くなっていた。両親が玄関へ友香里たちを見送りに出た。急いで千鶴もついていった。本当に申し訳ありません。いえいえどうかお気になさらず。友香里たちが帰り支度をする間、そのやり取りがまた親たちの間で繰り返された。
 千鶴は謝罪を続ける両親の後ろで、床に正座しながらひたすら頭を下げ続けた。お腹減ったー。友香里のつぶやきが聞こえた。少しだけ顔を上げ、友香里を視界の隅で見つめた。友香里はスニーカーの紐を結んでいた。千鶴はその様子を見つめ続けた。友香里が靴紐を自分で結べるようになったのはいつからだったろう。小学校高学年になってからだったかな。そんな曖昧な記憶をたどりながら。
 ……千鶴ちゃん、お願いがあるんだけど。
 帰り支度が済んだ時、友香里の母親が千鶴に言った。やはり穏やかな表情のままだった。
 ……これからも、友香里に会ってやってくれる?

 友香里の母親に頼まれた通り、それからも千鶴は友香里に会いに、このリハビリステーションに時間を見つけては訪れた。
 共におやつを食べ、テレビを観、漫画を読み、バスケやバドミントンやバレーで遊んだ。時々ほんの些細な理由で喧嘩もした。
 友香里に会いたい。
 以前と変わらずそう思っている自分がいた。でもなぜそう思うのかは、やはりわからないままだった。
 時々、面会に来ていた友香里の母と一緒になることもあった。
 会いに来てくれてありがとね。
 友香里の母はいつも歓迎してくれた。
 三人になった時は部屋でオセロや、トランプでババ抜きか七ならべをした。千鶴と友香里は昔とおなじように、友香里の母親が持ってきてくれたポッキーを食べ、淹れてくれたお茶を飲んだ。帰る時、また来てね、と友香里の母親に髪を撫でられる時もあった。これも昔から変わらない温もりと優しさで。
 嬉しさと懐かしさに浸りながら、千鶴は密かに頬の裏を噛んだ。あの時の息苦しさと、どきどきする胸の痛みに耐えながら。
 おまえのせいで、娘はこうなったんだ。
 おまえのせいで、娘は苦しんでいるんだ。
 おまえのせいで、娘は不幸になったんだ。
 いっそ、そうなじってくれた方が楽なのだろうか……。

 友香里ちゃんに会いに行くのは、もうやめなさい。
 ある夜、父から電話がきて、厳しい口調で叱責された。
 両親は、千鶴が頼まれた通り会いに行っているとは思っていなかったらしい。しかし母がある日友香里の母親と電話した時、友香里の相手してくれてありがとうと千鶴ちゃんに伝えておいてね、と聞いたことでそのことを知ったようだ。
 ……まさか本当に会ってるなんて、思ってなかった。
 ……おまえは会いに行ける立場じゃない。
 ……大きな顔して会いになど行けないんだ。
 そして、最後に父は言った。これまでに聞いたことのない強い口調だった。
 ……おまえのせいだっていう可能性も、ゼロじゃないんだぞ。
 父の言葉が、千鶴の全身を貫いた。
 そうだった。
 友香里ちゃんがああなったのは、わたしのせいなんだ。
 友香里ちゃんを不幸にしたのは、わたしなんだ。
 わたしが、友香里ちゃんを……。
 父の電話からほどなく、東京営業所への異動の話が上司からあった。
 千鶴は、友香里と別れる決心をした。


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