見出し画像

小説「ふたりだけの家」11(全13話)

「あ。涼さん、見て、ほら」
 奈美が夜空を指さした。奈美の温もりと重みを心地よく肩に感じながら、私も空を見上げた。雲ひとつない夜空が広がり、数えきれないほどの星がちかちか瞬いていた。私たちの住む町は小さな町だが、それでもこんなに星がよく見えるのは珍しいことだった。
「一体どこで光ってたんでしょうねえ、あかりちゃんの弟くんか妹ちゃんの星」
「人が死ぬから星になるんじゃないの」
 なにげなく口にしてしまった自分の言葉を、直後に強く悔いた。ごめん。言いかけた時、奈美は特に気にかけた様子もなく「うーん……。わたしね、それって逆だと思うんですよね」と、星空を仰いだ。
「空で光ってる星のどれかひとつが、この世界のどこかで結ばれたふたりの間に降りてきて、新しい命になって生まれてくるんじゃないかなあって、そう思うんですよ。涼さんもわたしも、きっとそうやって生まれてきたんです。だから星ってあんなにいっぱいあるんですよ。世界中で出会ったふたりのために、これから出会うふたりのために、ね」
 奈美は笑みを浮かべながら、空いている手を夜空に伸ばした。大きく広げた奈美の指の間にも、星がたくさん散らばっていた。
 私も手を空に伸ばしてみた。手の平を広げた。奈美とおなじように、五本の指の間を埋めるように星が光っていた。私はそっと手を握りしめた。しかし、星は指の間をすり抜けていき、私の手の中にはなんの感触も残らなかった。
 手を下ろし、奈美を見上げた。奈美はまだ手を星空にかざしていた。でもその手の平は広げたままで、決して私のように握りしめようとはしなかった。
 星はかつて、奈美のもとへと降りてきていたのに。その手の中にあったのに。そして奈美のもとで、まばゆい輝きを放っていたのに。その輝きは、奈美にとって自分の命よりも大切なものだったのに。
 でも、今は。
 でも、おれには。
 気がつくと、私は空にかざされた奈美の腕をつかんでいた。
「涼さん?」
 突然のことに、奈美は驚いた視線を私に向けた。私はなにも答えなかった。ただ奈美の開いたままだった手を、なにかを握らせるように両手で包み込みながら、胸元に引き寄せていた。

 きっと今まで一番強く、私は荒く奈美を抱き寄せていたと思う。
 私はあの病院での触診を受けて以来、かけがえのない宝物を失ったような喪失感に、ずっと苛まれていた。
 無機質なベッドで感じたあの感覚は、もしかしたら奈美と共に支え合い、暗がりをさまよい、汗や涙にまみれた末に、なんとか得るべきものなのかもしれなかった。他の誰でもない奈美とふたりで、探り当てねばならないものかもしれなかった。そして、奈美と分かち合うべきものだったのかもしれないのだ。
 その感覚を、あの丸眼鏡の中年医師に無理矢理与えられてしまった。それなのに、その感覚と引き換えにしてでも知りたかった私たちの間に生まれるべき命については「それは私にはなんとも」などと、ひと言で済まされてしまった……。私は憎しみにも近い感情を、あの時はっきりとあの医師に抱いていた。あの医師は普段の診療を過不足なく行っただけなのに。
 しかし、そんな思いが醜い言い訳に過ぎないことも、私にはわかっていた。
 私は奈美にはじめて自分の体のすべてをさらした時以来、ずっと逃げていた。互いを本当に満たし合うことからも、その結果生まれるはずの命からも逃げていた。奈美が心からそれを望んでいるのに気づいていても、私は逃げていた。自分はこんなだからと、身体の障害のことを都合のいい言い訳にして、逃げ続けていたのだ。怯えていた。恐れていた。ふたりであがいた末なにも得られず、奈美を悲しませてしまうことを。かつての私が布団の中で卑猥な本を前に味わったような虚しさを、奈美にも与えてしまうことを。
 そんな私だから、奈美を追い詰めてしまった。「あの夜」を奈美に過ごさせてしまった。犯した罪を悔やむようなすすり泣きを彼女にさせてしまった。彼女の望みに応えるでも、彼女を満たしてあげられているわけでもなく、泣いているような、どうにもならない苦しみに耐えているような、そんな息遣いを彼女にさせてしまった。幸せにしているのか不幸にしているのかさえわからない想いを、彼女にさせてしまった。
 そんな情けない、臆病者の私に、夜空に光る星のひとかけらだって降りてくるはずなどないのだ。
 でも。
 奈美はいつもと様子が違う私に、すぐ気づいたようだ。しかしなにも言わなかった。時々顔を歪めることもあった。だが決して拒むことなく、そんな私を受け入れてくれた。
 互いの息遣いが乱れかけた頃、私は身を起こした。ジャージのズボンを脱いだ。パンツも脱いだ。そして最後に残った紙おむつも、破くように取り去った。奈美が息を飲む気配がした。
 全裸になった私は、自分とおなじように奈美の身に残っていた服を脱がそうとした。奈美が再び息を飲んだが、やはり拒もうとはしなかった。
 奈美の服に手をかける私の手はなぜかひどく震えた。なかなかうまくいかなかった。やがて奈美がそっと私の手をはずした。そしてみずから残っていた衣類を脱いだ。白く細い奈美の姿に、胸の奥が痛んだ。
 私は奈美に重なりながら、手探りで彼女と結びつこうとした。しかし、いつもとなんの変化のない私には、それはとても難しい行為だった。手もまた震えだしてきていた。
 奈美を、拒むな。
 自分の体に怒りを覚えた。はじめての経験だった。運動会で失禁した時も、なんでこんなのに乗ってるの、と見ず知らずの男子小学生に指を刺された時も、なにげなく入ったインターネットカフェで、車いすでも入れるふたり用の部屋があり、ちゃんとその分の料金を払うから使わせてくれと訴えたにも関わらず、店長に丁寧だが断固として入店を拒否された時も、そんな感情が芽生えたことはなかったのに。
 震える手に、奈美の手が静かに添えられた。そっと奈美を見た。瞼を閉じ、唇を噛みしめていた。もう一方の手は私の背中にまわされていた。私も瞼を閉じた。そして奈美を両腕で強く抱きしめた。全身で彼女を感じ取ろうと。
 私たちは、必死に結びつこうとした。
 閉じていた奈美の唇から、かすかに息が漏れた。奈美の導きで、ほんのわずかだが私たちは触れ合ったようだった。それをきっかけにし、私はさらに奈美を強く抱き寄せた。奈美もそうした。幼き日の手術痕が残る私の背骨がきしむほどに強く。
 閉じた瞼の裏に、彼女の指の間に瞬いていた星々が浮かび上がった。たったひとつでいい。いちばん小さくていい。いちばん光が弱くていい。どうか、彼女の元に降りてきてはくれないか。
 それでも。私は奈美と結びつくことができなかった。
 私は全身で奈美を抱きしめ続けた。奈美も私を導き続けてくれた。私と一瞬でもひとつになろうと。しかし私には、そして多分奈美にも、私たちの星は見えないままだった。
 しかし私は、奈美を抱きしめ続けた。
 元々ある方ではない体力は、すでになくなりかけていた。汗も冷えはじめていた。体全体が震えてもきていた。それでも奈美を抱きしめ続けた。こんなに奈美が愛おしいのに。こんなに奈美がおれを求めてくれているのに。夜空にはあんなにたくさんの星が光っているのに。どうしておれは……。
「涼さん」
 耳元で、奈美のささやきが聞こえた。
 私は瞼を開けた。同時に息が激しく吐き出された。無意識に呼吸を止めていたようだ。物憂く顔を奈美に向けた。彼女は微笑んでいた。汗で額にはりついた前髪が、痛々しく感じられた。
「もう、いいよ」
 奈美から、またささやきが漏れた。
「もう、いいから」
 奈美は微笑みながら、私の額に浮いた汗を拭った。乱れた息を整えてくれるように背中もさすってくれた。
 奈美は私を横たえてから、身を起こした。そして、そばにあったティッシュの箱を引き寄せた。怪訝な思いで眉を寄せた。奈美はティッシュを数枚引き抜くと、私の性器をそっと拭いはじめた。
 喉の奥から悲鳴に近い声がせりあがりかけた。わずかだが、私の性器の先から尿が漏れていた。
 奈美は性器を濡らしていた尿を丁寧に拭い去ってから、ようやく自分についた私の尿を拭った。おれ、いつ漏れ……。出かかった言葉を飲み込んだ。それを奈美に語らせるのは、ひどく酷い行いのように思われた。尿を拭っている間、奈美の口元から微笑みが消えることはなかった。その間、私は身動きひとつできなかった。見えない縄でがんじがらめにされたかのようだった。
 奈美はすべての後始末を済ませると、私の隣に身を横たえた。私はやはり固まったまま、礼も詫びも言えなかった。ただ奈美の微笑みを見つめ続けるだけだった。
 奈美の指が私の頬に触れた。え、と私は思った。頬がなぜか濡れていた。
 私は、泣いていたのだ。
 それに気づいた瞬間、顔が歪んだ。涙が次から次へと溢れ出した。鼻の奥がじりじり痛んだ。
 奈美の胸にすがりついた。そして幼子のように泣き続けた。あかりちゃんだってこれほどには、というほどに泣いた。泣きながら、奈美にすべてをさらした夜がまた思い出された。あの夜、奈美は私にすがりつき、泣き続けた。きっとあの時の奈美よりも大声で、今の私は泣いているはずだ。
 奈美は私を抱きしめ、あやすように背中と髪をさすってくれた。その間、奈美がどんな表情をしていたのか。彼女の胸にすがりついていた私にはわからなかった。泣いてはいないようだった。ただ静かな息遣いの中に、ささやきが一度だけ聞こえた。しかしそれはあまりに小さく、わあわあ泣いている私の泣き声にほとんどかき消されてしまった。
 ありがとう。
 ささやきはそんな風に聞こえた気がした。でも泣きじゃくる私には、やはりよくわからないままだった。




いただいたサポートは今後の創作、生活の糧として、大事に大切に使わせていただきます。よろしくお願いできれば、本当に幸いです。