見出し画像

小説「ふたりだけの家」4(全13話)

「関村涼さん」
 名が呼ばれ、私は目元を覆っていた手をはずした。先ほどとは別の看護師が受付のそばで私を呼んでいた。
 その看護師の案内で、受付脇から奥に伸びている通路に車いすをこぎ出した。通路の一番奥に診察室はあった。診察室の前に来ると看護師がドアを開けてくれた。まだ成り立てといった感じの若い女性看護師だった。
 診察室に入ると、この病院の医師が診療机に座っていた。白衣の左胸には「院長 坂本隆」と、肩書と名の刻まれたプラスチックのネームプレートがピン留めされていた。五十代半ばと思しき男性で、年代物の丸眼鏡をかけていた。ここに来る前、この病院のサイトを調べていたが、そこに載っていた顔写真より老けた印象を受けた。
 坂本医師の診療机にはデスクトップタイプのパソコンが二台置かれていた。右側には診察用ベッドがあった。そんな中、ベッドサイドに物々しく置かれたエコー機器がひときわ目を引いた。
「ええと、不妊治療についてお聞きしたい、と……」
 坂本医師は先ほど私が書いた問診票を読みながら言った。
「五歳の時に脊髄損傷で下半身まひになられた、と。事故かなにかでですか?」
「いえ、原因はよくわからないんです」
「ほお。と、言いますと」
 それまで問診票から目を離さなかった坂本医師が、はじめて私の方に顔を向けた。
「小さい頃のことなんで記憶が曖昧なんですが、最初、お尻のあたりが急に痛くなって、座るのも辛くなったんです。それで病院に連れていかれて、いろいろ精密検査受けて、で、脊髄に腫瘍が見つかったって言われて、脊髄の一部分ごと除去する手術を受けました。手術は二回しまして、下半身まひはその後遺症です。脊損としては珍しい症例だったと、後になって親から聞かされました。それから歩けなくなって、臍から下の感覚も全部なくなりました」
「それで車いす生活になられた、と。それで不妊治療ということですけど、ということはご結婚されている、ということですよね」
「はい」
「奥様は健常者の方ですか」
「はい。彼女はいたって健康です」
「なるほど。それで関村さんは下半身まひの障害をお持ちなわけですが……」
 坂本医師はそこで少し言葉を濁らせた。
「性生活の方はどうされているのですか? 性器の方はどういう状態なんですかね?」
 私は車いすの上で少し居住まいを正してから口を開いた。
「その……。一般的な意味での性交渉は私にはできません。勃起もないので……。まあ、その、上半身だけで抱き合ったり、触れ合ったり、と、そんな感じで……」
 答えの途中から私の口調は完全にふらつき、目まで泳いでしまった。ここに来る前、当然たずねられる質問と予想していたので、事前に回答を頭に用意していた。車を走らせながら実際に声に出し、練習までしていた。しかし実際の場面になると、そんな事前準備はまったく意味のないものになってしまった。
 泳いでいた目が、坂本医師の脇に控えている看護師のところでふと止まった。若手看護師は眉ひとつ動かすことなく、私と坂本医師の話を聞いていた。彼女は今の私の答えを聞いてどう思っただろう。どんな想像をしたのだろう……。つい下衆なことを考えてしまい、そしてそんな自分が恥ずかしくなり、私は思わずうなだれてしまった。
 しかし坂本医師はそんな私に気づく様子もなく、「なるほど」を繰り返しながらキーボードを叩きはじめた。電子カルテに、私が今口にしたことが文字となって刻まれていった。

 うなだれ、キーボードの音を聞いているうち、私の脳裏には奈美の「あの夜」のことが思い出されていた。

 ……深夜、隣で眠っていた奈美が静かに身を起こす気配に、私は目を覚ました。
 奈美はそのままそっと布団から抜け出し、寝間にしている四畳半の部屋から出て行った。掛布団をはぐのも、立ち上がるのも、襖を開け閉めするのも、私を起こさないように、できるだけ物音を立てないようにしている気配が感じられた。
 奈美は寝間を出ると、灯りもつけずに隣の茶の間のテーブルに座ったようだった。ほどなく、ぶん、というわずかな機械音が聞こえ、白っぽい光が襖の隙間から漏れてきた。
 私は布団の中で首を傾げてから身を起こした。さっきの奈美とおなじように物音を立てないようにしながら。そして本当に少しだけ襖の隙間を広げた。それこそ黒目の半分ほどしかないようなわずかな隙間から、茶の間を覗いた。
 茶の間では奈美がやはり灯りもつけず、パジャマの上になにかを羽織ることもなく、テーブルについていた。テーブルの上には彼女のノートパソコンがあった。白い光はその画面から漏れていた。奈美はそのパソコンの小さな画面に前屈みになり、体全体を縮めるようにしながら見入っていた。そして時々マウスを動かし、クリックしては、またおなじように見入り続けた。同時に携帯電話も取り出し、親指で操作して小さな画面を見つめた。パソコンと携帯電話の光に照らされた奈美の横顔は、いつも私に見せている明るく朗らかな彼女とは思えないほど厳しく、なにより見ている方が辛くなるような苦渋に満ちていた。
 しばらくそうした後、奈美は振り向き、なにかごそごそとしはじめた。なにをしているのか見ようと思ったが、私が今覗いている隙間があまりに細く、そこまで視野に入ってこなかった。ただ物音から、押し入れを開けてなにかを探しているような気配が察せられた。
 やがて狭い視野に奈美が戻ってくると、ノートパソコンの隣に何冊かの本を積み上げた。そしてその中の一冊を開くと、パソコンのわずかな光を頼りに読みはじめた。当然光量が足りないので読みにくいらしく、かなり目をしかめながら、それでも文字を追い続けた。
 なに、してるの……。
 私は襖を開け放ち、奈美の隣へと這っていって、彼女がパソコンや携帯電話でなにを見ているのか、共に見たい衝動にかられた。わずかな灯りで読んでいる本を、共に読みたい衝動にかられた。しかしそれを決して許さない空気が、今の奈美を包み込んでいた。そうすることは重い罪なのだ、ともなんの根拠もないのに感じられた。
 やがて奈美が開いていた本を閉じ、押し入れに戻す気配がした。その後、ノートパソコンの電源も落として戸棚に片づけた。携帯電話も閉じ、バッグにしまった。寝間に戻ってくると思った私は急いで布団に入りかけた。そうして動きかけた身をふと止めた。戻ってくると思っていた奈美が戻らず、またテーブルについたのだ。そして膝を抱えて座った。街灯の青白い、わずかな明かりだけが外から漏れてくる茶の間の中、奈美はそうして膝を抱えたまま、ただなにもないテーブルを見るともなくぼんやりと見つめ続けていた。その頬はやはり苦し気で病気のように青白かった。
 どうしたの……。
 呼びかけたい思いで胸が詰まりそうになったその時、奈美が静かに動いた。膝を抱えていた右手を腹のあたりに入れた。右手は腹のさらに奥底へと差し込まれた。ぼんやりしていた瞼が、ぎゅっときつく閉じられた。
 奈美はそうしたまま、膝に顔をうずめた。腹の奥底に差し込まれた右手が、わずかにうごめく気配がした。そして聞こえた。膝にうずめた奈美の口元から漏れた、ほんのかすかな吐息が。それが耳に届いた瞬間、私の胸は言い表すことのできない大きな圧迫感に押し潰された。私は胸に伸びそうになった右手を、左手で必死に押さえ込んだ。胸を押さえる気配が奈美に伝わった時、私たちのすべてが崩れる気がした。
 やがて、奈美が寝間に戻ってきた。
 どのくらいの時間だったのだろう。たった数秒程度のごく短い時間にも、永遠とも思える長い時間だったようにも感じられた。私は気配を立てないように布団に戻った。
 奈美は出て行った時とおなじように、木のかすれる音を立てないよう襖を開け閉めし、掛布団が布ずれする音も出ないよう、本当に静かに床に入った。背中を向けていた私とおなじく、奈美も私に背中を向けたのが気配でわかった。
 ほどなく、奈美が、ぐす、と鼻をぐずらせる音がした。それは間を置いて何度か聞こえた。悲しい出来事があって泣いているような、犯した罪を悔やんで泣くような。夜の肌寒さに震えたものではないことだけはすぐにわかった。もしもそうだったらどんなによかっただろう。息が苦しくなってきた。同時に身をおそった、先ほどとおなじ大きな圧迫感に胸が押し潰されるのに、必死になって耐えた……。




いただいたサポートは今後の創作、生活の糧として、大事に大切に使わせていただきます。よろしくお願いできれば、本当に幸いです。