ありがとう、と彼女は手で言った。

私は、耳が、聞こえません。

彼女が手にしていた、磁石の力で白いボードに文字や絵の書けるおもちゃ「せんせい」には、そんな言葉が記されていた。

実習で職場に彼女がやってきたのは、私が二十歳の時。

高卒で働きだして二年。上司に怒られながらこなしてきた仕事にもどうにか慣れ、毎日に少し余裕の持てはじめて頃だった。

彼女は幼い頃の高熱が原因で、聴覚を失った。聴覚のハンディにもいろいろあるが、彼女はほぼ音を聞き取ることができない重度の聴覚障がいを抱えていた。だから実習ではメモや持参してきた「せんせい」を使った筆談や、唇の動きを読み取ることでやり取りをすることになった。

私より二歳年上。高校までソフトボールをしていたというだけあって、細身だがからだの芯がしっかりしている印象を受けた。

実習担当は、年齢の近い女性の同僚と私が交代で受け持つことになった。

当時の印刷編集専門機(まだイラストレーターもフォトショップも普及してない頃)を、私はよろよろと教え、彼女もあくせくと学んだ。メモはまたたくまに埋まった。彼女が唇の動きをみやすいように、大きく口を動かして話した。彼女はひとつ機能を覚えるたび、感心したように息をつき、そして笑った。

実習三日後。私は彼女が好きになった。笑えるくらいに、あっさりと。彼女いない歴イコール年齢男など、こんなものである。

仕事帰り、本屋で「はじめての手話入門」を買った。夕食もそこそこに部屋でイラストや解説をもとに、手や指を動かした。はたから見たらひどいパントマイムだったろう。

しかしそうしながら、私は改めて考えた。

耳が聞こえないって、どんな世界なんだろう。

耳をふさぐ。そうしながら話してみる。自分の声が聞こえない。だから話していることが伝わっているか自信がない。ステレオにCDを入れ、再生する。そらんじられるくらいに聴いた好きな曲が聴こえない。そもそも音楽を聴くということが困難だから、好きな曲があるのかもわからない。

彼女を好きになる前に、彼女のことをもっと知りたい。

だが実習はたったの三週間。彼女を知るにはあまりに時間がない。だから二週目の金曜、かけらみたいな勇気を振り絞り、「せんせい」に書いた。

週末、遊びに行きませんか。

そして握った右手を鼻に持っていって、すっと離した後、開いた手を軽く下におろした。

よろしくお願いいたします、の手話だ。

突然の手話に驚いた彼女だが、少し考えた後、にっこりとうなずいてくれた。

週末、待ち合わせ場所で彼女を車に乗せた。隣に女性が乗っている。もてなさをこじらせてきた私には奇跡である。もう心臓はばくばくで息苦しい。

私たちは映画館に入った。事前になにか行きたいところはありますか、とたずねたら、彼女がそうこたえたのだ。作品はおすすめがあったら、というので、いろいろ考えた末、当時上映していた「ダイ・ハード3」にした。3ガロンと5ガロンの容器で4ガロンの水を作れ、のクイズで有名なやつ。とにかくわかりやすいのがいいか、と選んだ。おっさんふたりがばたばた町中をもがく、もてなさこじらせ男の悲しき映画チョイス。

でも字幕だし、とにかく映像だけで伝わるのがよかったのか、彼女はおもしろかった、と喜んでくれた。クイズもわかったらしい。ちなみに私は当時も今もよく理解できていない。数字が本当だめなのだ。

昼食も行きつけのラーメン屋と、初デートで行くとこか、と各所から苦情の来そうな場所だった。だが女はみそラーメンを食べ、頬をなでた。おいしい、と言ってくれたのだ。今思い返しても「優しいあの子」だったとつくづく思う。

その後なにをしたか、実はあまり覚えていない。彼女が家の用事とかで早めに帰らねばならないと最初に言われていたので、コーヒーを飲んだくらいで、ほどなく別れたからだろう。

なにも、話せなかった。

なにも、訊けなかった。

なにも、伝えられなかった。

私は、うちひしがれながら車を走らせた。

実習最終週も慌ただしく過ぎていった。私は言い知れない焦りを覚えていた。

聴きたいこと、知りたいことが、山ほどあった。でも実習と仕事が忙しくそんな間などあるはずなかった。

なにもできないまま、金曜夕方になった。彼女は各部署にあいさつまわりをはじめた。私たちの部署にもひとりひとりにおじぎをしてまわった。

やがて私のところにきた。彼女はそれまでみたいに「せんせい」は使わなかった。左手の付け根あたりに、伸ばした右手を軽くあてた。

ありがとう。

私たちが幾度となく繰り返した手の言葉を、彼女はゆっくりと私に伝えた。

私もおなじくそう手で伝えた。

それが彼女との、最後の会話だった。


あれから短くない月日がたった。

彼女があれからどうしているかはわからない。結婚したらしい、という話は何年後かに聞いた。もしかしたらお子さんにも恵まれたかもしれない。幸せでいてくれたらいいと、こころから思う。

一方私はその数年後、奇跡的にも共に生きてくれるひとに出会った。だがさらに数年後、腎臓を患った。その苦しみは今でも、これからも続いていくだろう。

音のない世界のことは、今もわからない。

知る方向はあるだろう。聴覚にハンディのあるひとに実際に聞けばいいし、書物である程度知識として学ぶこともできる。これから作品で聴覚にハンディを持つ人物を出すとしたら、そうして必死に調べることもあるだろう。

でも今は、そのつもりも予定もない。

私は、彼女からその世界を知りたかった。彼女以外から知ることに、正直意味を見いだせなかった。

私は、耳が、聞こえません。

はじめて会った時、彼女の手にした「せんせい」に記されていたその言葉。

他の誰でもない、彼女の言葉。その意味をたずねたいのは、やはり彼女しかいなかった。



きゆかさんの「聞いてよ!20歳コンテスト」に応募するため、本記事を書きはじめた。

なにか今の二十歳の方に向けて伝えられることはあるだろうか、と、頭をひねった。だが自分でもあきれるほど、見事なくらい、なにもでてこなかった。当たり前である。3ガロンと5ガロンの容器を使った4ガロンの水の作り方もわからないのだから。

でも。

二十歳の頃、音のない世界に生きる彼女と出会った。

彼女のことは、今だに思い出すことがある。

悪戦苦闘して実習したこと。メモや「せんせい」で筆談したこと。映画をみたこと。ラーメンを食べたこと。彼女のことをなにも訊けず、自分のことも話せないままでその日が過ぎ、悔やんだこと。

そしてお別れの日、手と手を合わせる手話の、ありがとう、をかわしあったこと。

そんな二十歳の想い出がほろん、と、胸のなかでぬくもっている。ほんの少しの苦味と後悔とともに。

私にとっての二十歳とは、そんな小さなささいな記憶。たったそれだけ。貴重な時期にそれだけ?なんてもったいない、と感じる方もおられるだろう。

でも私にはそれで、それだけで、充分なのだ。

いや、違う。こんなに大切な、生涯忘れられない想い出をくれた彼女に出会えたのが二十歳だったこと。それはなにものにもかえがたい宝物なのだ。

そして、そんな小さな宝物のお話しを、今の二十歳の誰かひとりにでも聞いてもらえたら。そのひとたちには感謝とともに、これからの飛躍をこころから祈りたいと思う。

(左手の付け根あたりに、伸ばした右手を軽くあてながら)

















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