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小説「休日」1

 カーテンの隙間から差し込んだ九月の朝日に瞼を撫でられ、千鶴は目を覚ました。
 腕を伸ばしてカーテンをめくった。昨夜少し降っていた雨はあがり、空に綿毛のような雲がひとつ、のんびり浮かんでいる。
 千鶴は上半身を起こすと、畳の上に両手をついた。そして両腕に力を込め、交互に前へと踏み出した。するとパジャマに包まれた両脚が布団の中から引きずられて出てきた。そのまま下半身を引きずりながら寝間を出た。
 千鶴はお腹から下の下半身が全く動かない下半身まひの身体障害を負っている。五歳の時、幾度もの病院通いの末、脊髄に腫瘍が見つかった。二年の入院の間、二度の手術と数限りない検査や治療を受けたが、腹部から下の感覚と動きは全て失われた。両脚は立つことも歩くことも、ほんのわずかすら動かすこともできない。だから外出時や部屋で家事をこなす時などは車いすに乗らなければならない。ただ上半身と両腕は健常者とおなじように感覚も動きもあるので、日常生活の大抵のことは自分でこなせる。腕が残っていてくれてよかった、と昔も今も千鶴は思っている。こういう体になり、もう二十年以上が過ぎた。
 千鶴は寝間を出るとトイレに入った。便器にしがみつくと、両腕の力だけで体を便器の上に引き上げた。よじ登る、という表現がぴったりだと思う。便器に座ると、パジャマを脱ぎ、下着を脱いだ。動かなくなった両脚はとうの昔に筋肉が削げ落ち、枯れ枝のようになっている。下着の下では、紙おむつが下腹部を覆っている。排泄の感覚も失われた千鶴には欠かせないものだ。両サイドのテープを剥がし、おむつの内側を確かめる。今朝は漏れが普段より多かった。昨夜、親友の奈美とメールを交わし合いながら、久しぶりに缶チューハイを飲んだからかもしれない。
 千鶴は汚れたおむつをはずし、脇に常備しているビニール袋におむつを入れて口を結ぶと、これも脇に据えているプラスチックのバケツに入れた。中にはすでに数個、汚れたおむつの入ったビニール袋が入っている。
 おむつの処理を済ませると、左手でお腹を押した。するとすぐ尿が出てきた。幼い頃、主治医だった先生から教わった排泄方法だ。膀胱を空にするとトイレの床に降り、これも常備しているおむつのパッケージから新しいおむつを一枚取り出し、身につけた。そしてバケツの中のおむつを大き目のスーパーの袋にまとめて入れてきつく口を結び、玄関先に置いた。最後にトイレドアそばの床に置いているウェットティッシュの箱から一枚ティッシュを抜き取り、念入りに手を拭いた。
 トイレを済ませると寝間に戻って着替え、布団を半分にたたんだ。その後茶の間のテーブルに座り、戸棚から茶道具を出してお茶を淹れ、戸棚の上にある写真立ての前に置いた。お茶の甘苦い香りを感じながら、写真立てに向かって瞼を閉じ、手を合わせた。
 今日はいい天気だね。
 千鶴は写真の中で微笑む直行に語りかけた。

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篭田 雪江(かごた ゆきえ)
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