書き手としての死に方―「#磨け感情解像度」佳作選出に際し、思うこと。
このたび、illy/入谷聡さん主催の私設賞、「#磨け感情解像度」で、拙作を佳作に選出していただいた。
まずはなにより、主催の入谷さん、215本という多数にわたる全作品のまとめ記事を書いてくださった皆さまの労に、こころから感謝申し上げたい。本当にありがとうございます。お疲れさまでした。
また私設賞のさきがけといえる、嶋津亮太さん主催の「教養のエチュード賞」に引き続いての選出に、素直に喜びを覚えている。note内で屈指の書き手であり読み手(と言い切って異論はないだろう)であるおふたりの目にとまったことは、書き手オンリーの私からしたら光栄としか言いようがない。
今回は私がこの賞に応募したことのあとがきというか、裏話のようなものをちょっと書きたいと思い、キーボードを叩いている。たいしておもしろいものでもないし、自分の黒い部分をさらすところもあるので、お気が向いた方のみお読みいただけたら、と思う。
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実はこの作品応募の前に、あの旋風を巻き起こした「キナリ杯」にも、この作品で応募していた。
(※ちなみに第二話もあります。興味がありましたら、ぜひお読みいただけたら嬉しいです。)
結果はあえなく、だったし、そうなるだろうなとも思っていた。
この暗く重い作品をキナリ杯を応募したのは、あえて、だった。
キナリ杯主催の岸田奈美さんはご存じのように車いすユーザーのお母さまと、ダウン症の弟さんがおられる。
基本は本当に明るい方だが、記事のはしばしに苦悩の影が見え隠れもしている。それらのなかの「ぐっとこらえつつ」といった感覚を、私自身が当事者でもあるので、自分勝手につい感じてしまうことがある。
一方、私は逆だ。そんな苦悶を、もうあからさまにしている。むき出しにしている。我ながら呆れる時もある。それが岸田さんと私の今の差にあらわれている、とも思う。客観的にみればわかる。誰だってそんなどす黒い泥より、苦しみつつも光の指す前を向いている書き手に目が向くのは当然だ。作品だってもちろん優れている。これからもっと売れっ子になっていくのは想像にかたくない。
そんな岸田さん主催の賞だからこそ、この作品を出した。
世の中にはこういうどす黒さを前面に押し出さないとやっていけない書き手がいる。嫌悪されるとわかっていながらも、そういうことを書かずにいられない書き手もいる。そんなちっぽけな書き手が、虫けらのようにもがき続けているところをみてもらおうと思ったのだ。
岸田さんがこの作品を読み(多分読んでくださったと信じて)、どう感じたかはわからない。嫌悪の感が否めなかったかもしれない。それでもよかった。とにかく届けることに意味を見いだしたのだから(もちろん結果が伴わなかった理由は、なによりも他の受賞作品が優秀だったからであり、自身の作品の不出来であり、賞や主催者の色を無視した自業自得である。このようなことは今回限りだ。また失礼に値することでもあるので、心よりお詫び申し上げます)。
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note内で「キナリ杯」発表があり、それがまさにお祭り騒ぎといった感じで盛り上がったのは記憶に新しいところだ。今回の作品はそのキナリ杯の発表が終わりかけ、少し落ち着きが戻ってきた時にアップした。
実はこれも、あえてそうした。
理由は単純だ。キナリ杯だけじゃない、この賞もあるぞ、という意思表示。noteのなかには知られざる(失礼!)優れた読み手が開いている賞がある、ということを示したかった。それだけこの賞は重要だと思ったのだ。noteも広くなった。多分私の知らない私設賞はまだまだあるのだろう。それらにも目を向けてほしいと思った。もっとも、そんな意思表示はよけいなおせっかいだった。215という応募作の数がそれを示している。
noteにはこういったコンテストや応募には目もくれず、自分の作品を載せ続けている孤高の存在もたくさんいる。実はそのなかにこそ本当に優れた書き手が多かったりするから面白い。私も作品がアップされるたびに欠かさず読み続けている書き手が何人かおられる。
誰に読まれなくてもかまわない。ただ自分が書きたいから、楽しいから、息抜きにちょっと。そういう方がたくさんいる。まったくの自由だ。むしろそれこそが書くことの最大の理由であってほしい。その切なる思いがあるからこそ、さまざまなSNSが存在する大きな意義があるのだから。
ただnote(それだけではもちろんないが)は、ここをスタートとしてもっと広い世界に、という方のためにある場所でもある。クリエイターという言葉を使っているのも、そのこだわりがあるからなのは周知の事実だ。
だからキナリ杯以外にも、という考えが大きかった。ステップアップの場はたくさんある。たくさんのコンテストだってそう。そこから羽ばたくことだってできるのだ。ましてこの賞の主催はnote屈指の読み手だ。応募しない手はないだろう。
もっともこの後、ある作家さんの方が言っておられた。
「みなさん可能性があるのだから、note以外の広い世界にも目を向けてほしい」
この言葉が大変印象に残っている。そう、noteがすべて、ではないのだ。アンテナは広々と伸ばしておいて損はない。
もちろん、noteにこだわるのも悪くない。noteからはじまった方々もたくさんいるのだから。とにかく選択肢はいくらでもある、ということだ。
noteも含めた、広い世界へ。
これからあまり多くないだろう私の時間のなかで、どれくらいのことをやれるかはわからない。でも、書き手のはしくれとして、床に這いつくばりつつも、できる限りのことをやっていきたいと思っている。
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大相撲のかつての名大関、魁皇に対して、ある親方だったと思うが、その方が言った言葉が頭に残っている。
力士としての晩年、魁皇はもうぼろぼろだった。私も時々観ていたが、本当に痛々しいと感じる取組も多かった。それでも最後の最後まで土俵に上がり続けた。そんな大関の姿をみて、その方はこう評した。
「彼は、もう絞りに絞ってかわき切った雑巾をさらに絞り、最後の一滴を絞り出そうとしている」
正確な言い回しではないかもしれないが、大体こんな感じだった。
私もいつか書き手としての死がおとずれる時は、そのような死に方でありたいと願っている。