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小説「ふたりだけの家」2(全13話)

「……いやあ、可愛い」
 ピンクのベビー服を着た若葉ちゃんを抱きながら、奈美は小さく歓声を上げた。若葉ちゃんは奈美の腕の中で、ぷっくりした頬を緩めて笑っていた。
「ああ、よかった。嫌われなかったみたい」
 奈美がほっとしたように言うと、若葉ちゃんの母親の響子さんが応じた。
「だから言ったじゃん。奈美なら絶対大丈夫だって」
 奈美の専門学校時代の友人である響子さんが訪ねてきたのは、三月はじめのことだった。若葉ちゃんは響子さんのふたり目の娘さんだ。長女である四歳の青葉ちゃんはこの日、実家でおばあちゃんと一緒におしるこ作りにいそしんでいるとのことだった。
 響子さんによると、若葉ちゃんはお母さん以外に抱かれるとすぐぐずるのだという。お父さんやおばあちゃんでも滅多に抱っこできないらしい。だから奈美は響子さんから「抱いてみて」と勧められても、最初ためらっていた。しかし響子さんは「奈美なら大丈夫だよ」と自信ありげに若葉ちゃんを奈美の腕に抱かせた。すると響子さんの予想通り、若葉ちゃんは泣くこともぐずることもなく、奈美の腕の中で笑顔を浮かべたのだった。
 奈美は若葉ちゃんを抱きながら、小さくそっと揺らしはじめた。
「ほっぺたぷくぷくだねえ、若葉ちゃんは。目元、響子そっくり。将来美人さんになるねえ」
 私は若葉ちゃんと響子さんをこっそり見比べてみた。どこが似ているのか、正直よくわからなかった。でも響子さんも奈美の言葉を受け「でも口元はパパ似なんだよね、若葉」と、娘の唇を指でぷるぷる震わせた。
 そう、そうだよな……。
 若葉ちゃんを抱く奈美を見やりながら、私はぼんやり胸の内でつぶやいた。
「涼さんも抱っこしてみません?」
 奈美が私に言った。私はとんでもない、と首と手を同時に振った。
「おれなんか抱いたらすぐ泣いちゃうよ。可哀想だよ」
「そんなこと言わないで、抱いてあげてください」
 響子さんが少しいたずらっぽく微笑んだ。奈美はそれを合図に、胡坐をかいた私の脚の上に若葉ちゃんを寝かせた。私はおっかなびっくり両腕を差し出し、若葉ちゃんを抱いた。
「頭、ちゃんと支えてあげてくださいね。まだ首がすわったばかりなんですから」
「ああ、そ、そうか」
 私は慌てて左手を目いっぱい広げ、若葉ちゃんの頭にあてがった。羽毛みたいなやわらかい髪の毛が指をくすぐった。とくとく、と若葉ちゃんの背中から、小さくもしっかりした鼓動が伝わってきた。
 赤ちゃんを抱くのは、生まれてはじめての経験だった。思ったより重いんだなと感じた。でも心地よい重みだった。私は顔を傾け、若葉ちゃんと目を合わせてみた。黒目がきらきらしていた。奈美の言う通り、ほっぺたがマシュマロみたいにぷくぷくだった。やわらかさと温かさが、腕を通じて私の全身に溶け広がっていった。
 そう、そうだよな……。
 私はまた、胸の内でつぶやいた。
 しかし、所詮無骨で不愛想な私の腕の中が、赤ちゃんにとって居心地いい場所であるはずがない。若葉ちゃんは徐々に顔を歪ませると、やがて泣きだしてしまった。
「わ、どうしよう」
 私は奈美に助けを求めた。
「そろそろお母さんのとこ戻ろっか」
 奈美は私から若葉ちゃんを抱きあげると、響子さんの腕に預けた。それでも若葉ちゃんはなかなか泣きやもうとしなかった。
「なんか、すんません……」
 ものすごく悪いことをした気分になり、響子さんに頭を下げて謝った。
「いえいえ、こちらこそ無理言ってすみません。はいはい、もう大丈夫だってば。そろそろ眠くなっちゃったかな」
 響子さんの言う通り、若葉ちゃんはひとしきり泣くだけ泣いた後、すうっと寝入ってしまった。それをきっかけに、響子さんは帰ることになった。奈美は響子さんが車を停めている近所の駐車場まで見送ってくる、と共に部屋を出ていった。
 ひとりになった私は、胡坐の上に両腕を広げた。さっき若葉ちゃんを抱いた時とおなじ形に。若葉ちゃんの重みとやわらかさと温かさが腕によみがえった。少し速めだった若葉ちゃんの鼓動がうつったように、私の心臓もとくとくと動いていた。
 半ば呆然と、私は若葉ちゃんが残していった感覚に浸り続けていた。
 ……いやあ、可愛い。
 耳に残っていた奈美の声が鼓膜を響かせた。その反響が、細い針となって胸を刺した。私は思わず目を閉じた。だから見送りから戻ってきた奈美が、そんな私に声もかけられず立ち尽くしていたのにも気づかなかった……。
 思えばこの日のできごとがきっかけだった。
 奈美が赤ちゃんや子どもと触れ合った後、夢から醒めたかのような表情を浮かべるようになったのは。

 ……病院は本当に混んでいた。
 診察を終えた患者が出て行くと、それと入れ替わるようにまた別の患者がやってくる。待合室に空きが出ることはなかった。アトピーの子どもってこんなに多いものなんだな、と改めて思わされた。それともここが特別なのだろうか。
 待合室の隅でたたずみながら、まわりの親子の様子を眺めているうち、私は思い出していた。
 光のことを。
 光のことは、私の心の中から離れたことはない。
 奈美がかつて結婚していた男性との間の生まれた男の子。
 奈美にとって最愛の、自分の命よりも大切だった我が子。
 そして今は決して、その腕に抱きしめることのかなわない子。
 私は目元を手の平で覆い、重い息をついた。

 ……気配を感じ、私は目元を覆っていた手をはずした。
 すぐそばに、ひとりの男の子が立っていた。くりくりした目が可愛らしい男の子だ。年は三歳くらいだろうか。確か近くのソファに母親と一緒にいた子だ。
 男の子は私のそばに立ち、私と車いすを興味津々なまなざしで見比べていた。私は思わず微笑んだ。こういう小さな子に見つめられることは、この体になった頃から何度も繰り返されてきた。こんな風に見つめてくるのは男の子が多かった気がする。怖くて体を縮ませた時期もあった。この野郎、とばかりに反発していた時期もあった。幼子だというのに睨みつけ、半泣きさせながら追い返したのは中学二年の時だった。私の中で大きな後悔となって残っている出来事のひとつだ。
 今はなにもしない。好きなだけ見ていきな、と、そのまま見守ることにしている。もちろん、ブレーキなど危険な箇所に触れようとした時は優しく制してあげるが。でもこんな風に接することができるようになったのは本当にごく最近のことだ。理由もわかる。奈美と出会い、光と出会うことができたからだ。
 この時もなるべく頬を緩めて男の子が怖がらないよう心がけながら、彼が車いすを見つめるのを見守った。男の子は首を傾けたり、ちょっとしゃがんだりして、くりくりの目を輝かせながら車いすのアルミフレームやタイヤ、ブレーキをしげしげと見つめた。消防車や大型トラックなどの「はたらくくるま」を目にした時のように。
 面白いんだろうな。
 私は寝癖のついた男の子の髪を見ながら、思わず微笑んだ。
 そうしていると、トイレから出てきた女性が、こちら側に小走りで近づいてきた。男の子の母親だった。そして慌てた様子で男の子を抱き上げた。
「すみません。ご迷惑おかけして」
 母親は男の子を抱き上げ、本当に申し訳なさそうに頭を下げると、私から離れるように向こう側のソファの方へと歩いていってしまった。私なら平気ですよ、と声をかける間もなかった。すぐ戻るから大人しくしててって言ったでしょ。母親が男の子をたしなめている声がかすかに聞こえた。でも男の子は特にしょげる様子もなく、母親の髪の毛をぽんぽんと叩いていた。そんな親子の後ろ姿を見つめていると、ひとり残されてしまったような感覚がほんの少し胸にわいた。
 奈美と光にも、こんな時……。
 私は瞼を閉じ、また手で目元を覆った。



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