掌編「カッシアリタ」 朝の人間観察
休日の朝の街にはまだ、昨夜の喧騒の余韻が残っていた。
かすかに漂うアルコールの残り香。焼き魚や揚げ物の脂のにおい。道端に転がる煙草の吸い殻や紙くず、ビールの空き缶。例の疫病がとりあえず鳴りをひそめてから、あたしや男の住む街の繁華街も、少しずつだが夜の活気を取り戻していた。
人通りのほとんどない道ばたに、あたしと男は車いすを並べ、ガードレールに背をあずけ、ぼんやりとたたずんでいた。今朝はよく晴れている。右手にある街路樹のけやきが、ほんのわずかだが赤く色づきはじめていた。もう、ふたり裸で寝転がっていた夏もおわりか。そう思うとやはりさみしい。
それにしても男は、ここがあたしとはじめて出会った、いや、あたしを拾った場所だということに気づいているのだろうか。たずねようとも思うが、なんとなく訊きそびれたままだ。
ふたりの手には、目の前の自動販売機で買ったホットコーヒー。男はいつもブラックなのに、今朝は砂糖もミルクもたっぷりと溶けたものを選んでいた。
なんか、じんわりしたくてな。そんなときもあるよ。
男がなぜかむきになって答えたので、あたしは思わず微笑みながら、男とおなじ砂糖ミルク入りのコーヒーを口に含んだ。
昨夜、久しぶりに抱き合った余韻が、からだに残っている。男がそっとあたしを背中に触れたのがはじまり。なんだか涙ぐみそうになりながら、夢中であたしは男を抱きしめた。
男の温度がいつまでも消えずにいてくれたらいいのに。最近はよく、そんなことを考える。でもほどなく、願い虚しく、なかのぬくもりは消えてしまうんだろう。思いがけず見つけた、雨上がりの空の淡い虹みたいに。また次、セックスすればいいじゃないか、と、ひとは言うかもしれない。そうなったらあたしは、そいつの胸ぐらをつかんでわめくんだろう。あたしたちにはその「次」が、もうないかもしれないんだ、と。男のからだは少しずつ暗い方へと引き寄せられている。先日の病院での外来検査も、わずかだが前回より悪化していた。一体、あたしはどうしたらいいんだろう。冷静に服薬を続ける本人より、よほど動揺を押さえられない日々が積み重なっている。
目の前を、自転車に乗った男性が通り過ぎていった。
あのひとは、何歳かな。
うーん、四十後半くらいじゃねえか。
作業着、だいぶ使い込んでるね。仕事は大工とかかな。日曜も仕事じゃ大変だ。
子どもは何人だろうな。
三人、くらい。いちばんが高校二年の女の子で、真ん中と末っ子が男の子で小学生。女の子はちょっとまだ反抗期で、しばらく話し、してもらえてないかも。
はは、そりゃかわいそうに。
あたしたちは、その男性の自転車を見送りながら、こそこそと言葉をかわした。
あたしたちは最近、休日の朝にここに来て、目の前を通ったり、信号の向こう側にあるバス停で待っているひとを見つけると、そのひとがどんなひとか、勝手に想像する遊びにはまっている。今のように年齢、仕事、家族構成、家庭での立ち位置みたいなものを、思いつくままに話し合う。そのひとが実際聞いたら迷惑だし、頭にくることこの上ないだろう。なにせ今の男性の前にバス停にいた初老の女性は、どこかの社長の長年の愛人だな、などと決めつけられたのだから。
こんな人間観察をはじめたのは、男の方からだった。なんとなくはじまったから、あたしもなんとなく付き合いはじめた。でもこれがなんとなくおもしろいから、なんとなく続いてしまっている。
おれたち、いつだって見られてばかりだろ。どんな奴らだろうって、ひそひそ話してるかもしれない。ならおれたちだってじろじろ見てやって、少しくらい思うままに妄想したって、ばちはあたんねえだろ。
男はあたしがなんでこんな遊びを、との問いに、そんなふうに、やや意地悪な表情で答えた。でも、本当は別の理由がある気がしている。なにかはわからない。でもこの人間観察をしている間、なぜか男はあたしの手をつかんで離さない。
あのさ。
マンウォッチングに少し飽きた頃、残ったコーヒーを飲み干してから男が口を開いた。
なに。
あれ、なんつうんだっけ。有名な絵でさ。真ん中にどでかいマッチョな神様みたいのがいて、そいつが天国と地獄に行く人間を分けてる、みたいなやつ。
ああ、最後の審判。
そうそう、それそれ。
男は少し離れたところを歩いていった若い男性を見ながらうなずいた。あのひとは単位の足りない学生だろうか、などとあたしはまたもや勝手に想像する。
こうして見てるひとたちのなかで、あのマッチョ神様から天国に行かせてもらえるひとって、いんのかな。
あたしは男の横顔に目をやった。少し頬が固くなっている気がする。
どう、だろうね。
あたしは、男の手を握り返した。男があたしに振り返る。次の言葉を継ごうとしたとき、目の前を今度は年老いたおばあさんが、杖をつきながら歩いてきた。
その身はやせ細り、背中も肩も丸まり、腰が突き出ていた。杖のない手の方には、コンビニ袋が下がっている。使い回しているのかしわがひどく、ところどころに穴も開いていた。中身はよく見えないが、カップ麺やおにぎり、お茶のボトル、小さな惣菜パックらしきものが、ささやかに入れられていた。おちくぼんだ瞳は足元を見つめ、舗装の欠けた歩道につまづかないよう気を張っている。今日食べる物を買ってきたのだろうか。それにしても朝からひどく疲れきっているように見える。
あたしも男も、おばあさんを黙って見つめた。そして、その長い人生を想像する。でも、今までのような詳細なことは、思いつけるはずもなかった。
おばあさんは一体、どこから来たんだろうか。すごく遠いところ、あたしたちも知らないようなはるか遠いところから、延々と歩き続けて来たんだろうか。そして、どこに行くんだろうか。やはり、あたしたちが想像もできないような場所へと向かっているんだろうか。こんなにも老い、からだもこころも疲れきっているはずなのに。
おばあさんの丸まった背中が道を曲がり、姿が見えなくなった。あたしたちはどちらともなく、ふぅっと深い息をついた。
ちゃんと、帰れるといいな。
男が、ぽつりとささやきをこぼした。あたしは、うん、とうなずいてから、さっきの話だけどさ、と、おばあさんが去っていった道角に顔をやったまま言った。
もし神様がいても、ろくなもんじゃないよ。この世であのひとをあんなに歩かせっぱなしにしても、あんたをじりじり苦しめても、全然ほったらかしじゃん。天国とか地獄とか、そんなもんの前にちゃんと助けてほしいよ。あのおばあさんも、あんたのことも。
男の手を握るちからが、つい強くなる。男もあたしを受けとめるみたいに、また握り返す。
そっか。男はまたぽつりささやく。横目でそっとうかがう。唇にはやわらかな微笑みが浮かんでいた。
まあ、あんまりひどく言うな。神様も忙しいんだろうし。世界には何十億人もひとがあふれてんだし、ひとりひとり面倒みんのも大変なんだろ。
ひとがいいね、あんたも。
そ、おれはひとがいいの。お。
左手に今度はスーツ姿の背の高い男性が現れた。手には重そうなアタッシュケースが握られている。
あの男はさ、これからやばい取引に行くんだよ。表で動かせない宝石とか、もしかしたら拳銃とか。
どこがひとがいいんだか。それに設定、チープ過ぎ。
あたしは笑って、男の手を離して伸びをした。日差しが瞼と額の痣をぬくもらせた。
まあ、いいか。
胸のうちでつぶやく。神様なんてどうでも。どっちにしろ、あたしは決めてるんだし。
最期はこの男と一緒に、地獄に行くんだ、と。