掌編「カッシアリタ」 それがあなたの幸せとしても
ひと月前から、リタが働きはじめた。
仕事についたきっかけは、おれの体調悪化。仕事と自己導尿で倦怠感が常にまとわりついているおれを見て、リタは突然、あたしも働く、と言い出した。
具合の悪いあんたにだけ苦労させて、あたしばっかり楽してたからだね。気づくの遅れてごめん。
リタは元来あまり体力がない。だから共に暮らして以来、必要以上に外に出ることなく過ごしてきた。だからからだは大丈夫なのか、と心配だったが、リタはさっさと赤かった髪を黒くするとハローワークに行き、ある社会福祉法人が運営している軽作業部門の仕事を見つけてきた。
地元の工場から請け負った、機械部品の作成や検品が主な業務らしい。十時から三時までの勤務時間なので、工賃は正直、大した額ではない。ただリフト付きバスが出て出勤や退勤時は送迎してくれるし、昼めしも料金の半額補助が出る給食が食えるので、体力の乏しいリタが働く条件としてはまずまずといえた。
張り切って仕事に行きはじめたリタに合わせるみたいに、おれのからだから体力気力が削げた。
朝、動悸とふらつきがとにかくひどい。急きょ病院に行き、リタの好きなおっぱいの持ち主である主治医の愛子先生に診てもらうと、腎性貧血が悪化しているので、少し仕事は休んだ方がいい、と言われた。仕事場は幸い理解してくれ、とりあえず半月ほど、休みを取った。
そうして、今日が四日め。
朝、起きているのか寝てるのかわからない状態で、パンと野菜ジュースの朝めしを食い、ラムネ菓子みたいに手のひらに乗せた薬をざらざらと飲み、仕事へ出かけるリタを見送る。朝の自己導尿をへろへろと済ませると、どさりと力尽きて横になる。こたつに潜り込み、ハロゲンヒーターを脇に据えて。近頃、めっきり冷えがひどくなった。
普段観られないから、とのぞいてみたワイドショーは一日で飽きた。朝から駅前のざわつきがする部屋のなかで、文字通りぼうっとする。このままうとうとすればからだも休まるのか、と思うが眠れない。しかたないからスマートフォンを取り、YouTubeをあさる。最近、よくリタが聴いている歌手の曲をいろいろ探っているうち、ある曲に出くわした。ヘヴンズというボカロで曲を作っているアーティストの『それがあなたの幸せとしても』という楽曲だった。
あなたが抱えてる明日は辛くはないか
僕にもがいてる文字にひとつ線を引かせて
あなたが抱えてる今日は救えやしないか
それでもその肩に優しさを乗せたなら
また愛を感じられるだろうか
なんだか、がらにもなくじんわりして、何度もリピートした。そうしていると、ぼんやりと思いが霧みたいに浮かんできた。
リタは、おれなんかといて、幸せなんだろうかなあ。
あの夜、偶然に出会って、流れるみたいに暮らしはじめて。最初、その破天荒なさまにはずいぶん振り回されたもんだ。真夏とはいえ、まさか素っ裸で寝るなんて思わなかったよ。髪の色をちょくちょく変えるのも意味わからねえし、やたらおっぱい好きだし。
大体、カッシアリタ、て名前、なんなんだよ。
ネットで調べたら、なんかキリスト教のえらいひとらしいけど、いまだによくわかんねえ。でもなんか、あいつにはその名前にこだわりがあるみたいだ。だから別にいいんだけどさ。おれもリタ、て響き、嫌いじゃねえし。
幸せ、だよな、おれ。
生まれてからひたすらもてなさをこじらせてきて、恋人もできなくて、スナック通いしてもろくに相手にされなかったさえないおれと、ずっといてくれるんだから。本当になんでか知らないけど、いっしょにいてくれるんだよな。これは内緒だけど、はじめてリタの肌にふれたときは、そのあったかさとやわらかさに、泣きそうになった。こういっちゃなんだけど、障がい持ちのおれを抱きしめてくれるひとなんて、一生ないと、ひそかに思ってたから。
で、笑ってくれんだよな。あいつ、あの夜、はじめて会ったおれにためらいもなくついてきて、そのまま居着いちまった。その理由もいまだに訊いてないけど、やっぱり毎日おれといて、笑ってる。
幸せ、だよな、おれ。やっぱり。
でも、でもさ。
あいつ、もっと他の幸せがあるんじゃねえのかな。
せっかくラブホに行ったのにセックスがろくにできなくて、お互いがきみたいに泣いたの、いまだにふっと思い出すんだよ。そりゃ、抱き合うことだけが愛? てやつじゃねえのは頭ではわかるよ。でもさ、本気で抱きしめあって、ひとつになってはじめて、ふたりだけにわかるつながりみたいなもんて、あるんだろ?
それを、あいつとは、分かち合えねえんだよな。
そりゃ、泣くよな。
あなたが抱えてる今日は救えやしないか
おれに、あいつの今日は救えてんのかね。
リタには黙ってたけど、こないだ病院で愛子先生に言われたんだよな。
将来、人工透析になるかもって。
診察室を出たとき、真っ先に頭に浮かんだのが、リタだったな。
この先、おれらふたりには不安しかない。今、朝からこうして寝てるしかないみたいに、おれはもう沈んでいくばっかだ。タイタニックみたいなもん。
それに、リタを巻き込むべきじゃない。
あいつが働き出したの、いいきっかけかもしれないな。あいつのことだから、仕事場でも賑やかにやってんだろう。おれが言うのもなんだけど、あいつはもてる。絶対もてる。
あいつを好きになるやつが出てくるよ、絶対。そのうち、あいつもその男、いや、女のひとかもしれないか、とにかくそのひとを好きになって、部屋でもこそこそラインとかしはじめるんだ。
おれは、それを邪魔なんかしない。知らぬふりして、おもしろくもないテレビ観てるよ。
で、気づいたら、ある日の朝、リタはこの部屋から出ていくんだ。
メモくらい残すだろうか。ごめんなさい、とか。今まで教えなかった本名を添えてさ。
僕にもがいてる文字にひとつ線を引かせて
線を引かせるのは、リタを本当に幸せにできるひとに、まかせよう。
……ぴろん、と、なにか音がした。
はっと目覚めて飛び起きると、顔の上からスマートフォンが落ちた。YouTubeで曲をリピートしているうちに眠ってしまったらしい。時計を見ると、もう正午ちょっと過ぎ。
なぜか潤んでいる目を乱暴にこすってから、スマートフォンの画面を見る。
リタからの、ラインだった。
リタとは昼間、ラインをかわすのが休み中の習慣になっている。生存確認するからね、と、リタには真面目な顔つきで言われたものだ。
調子はどう? こっちは大丈夫。楽しくやってるよ。午後もゆっくり休んでね。
朝、言えなかったから、今言っとくね。
誕生日、おめでとう。
これからも、一緒にいて。ずっと。
絶対だよ、約束だからね。
帰りは、お菓子を買って帰ります。
なんて、返せばいいんだよ。
おれは、スマートフォンを握ったまま、リタのあたたかな言葉を見つめ続けていた。