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小説「ふたりだけの家」12(全13話)

 目を覚ますと、ういんういん、と耳に馴染んだ機械音が聞こえてきた。洗濯機の音だ。週末二度目の洗濯の音だった。
 私は自分の布団にしっかり入って寝ていた。掛布団をはずすと、ジャージもしっかり着せられていた。ズボンに手を入れると、ちゃんとパンツも紙おむつも普段通り身につけられていた。
「おはよう」
 寝間から這い出すと、奈美が流しから茶の間に入ってきたところだった。すでに身支度は整っていた。
「眠れた?」
「ううん、どうだろうな」
 私は首をひねり、顔に触れた。瞼が腫れぼったくなっていた。長い夢を見ていたように感じられた。
「じゃ、眠気覚ましする?」
 奈美は戸棚から茶碗や急須、茶筒を取り出し、お茶を淹れはじめた。眠気覚ましと言った通り、お茶は少し濃い目に淹れてあった。奈美は口を渋そうにすぼめた。
「ごめん。ちょっと濃すぎたね」
「いや、ちょうどいいよ」
 私はお茶をすすった。渋味と甘味が身に沁みた。
「昨夜は……」
「なに?」
「いや、なんでもない」
 私は言いかけた言葉をお茶と共に飲み込んだ。奈美も重ねてたずねようとはしなかった。
 洗濯機の終了のアラームが鳴った。私たちは洗濯物を干すため外に出た。空には白くて薄い雲がかかっていたが、洗濯物を干すのに問題はなさそうだった。
 Tシャツの首元からハンガーを突っ込もうとする私を見て、奈美が「またやってる」と咎めた。
「裾から入れないと伸びちゃうって、何度も言ってるのになあ。黙ってたけど昨日もそうだったよ」
 奈美はぱん、と小気味いい音を立ててTシャツの皺を伸ばし、言葉通り裾から丁寧にハンガーを差し込んで物干しにかけた。私は、そうだった、と次のシャツは言われた通り裾からハンガーを通した。
「そうそう」
 それを見て、奈美が満足気にうなずいた。もっとも次の洗濯の時に覚えているか、私に自信はまるでなかったが。
「あったかいから、案外はやくかわくかもね」
 奈美が空を見上げた。
 私もつられて空を見上げた後「うーん」と小首を傾げ、奈美をちらりとうかがった。彼女の様子が普段と違うように感じられたのだ。それは今朝起きた時から気になっていたことだった。
「どうかしたの」
 奈美がたずねてきた。
「いや、なんでもない」
 私は答え、首を振った。なにが違うのかよくわからなかったし、さしてたいしたことでもないと思ったので、それ以上考えるのはやめにした。
 洗濯物を干し終えると、奈美が両手を組み、大きな伸びをした。
「買い物、行かなきゃね」
 伸びをしながらつぶやいたものの、あまりやる気はなさそうだ。私もおなじだった。うす曇りの空に大口開けてあくびをした。
「とりあえずいいんじゃないか。夕方行けばいいんだし」
「そうだね」
 私と奈美はいたずらでも計画するように言い合った。奈美はもう一度伸びをしてから、そうだ、と手を合わせた。
「散歩、行かない?」
 せっかく外に出たんだし、このまま部屋に戻るのもったいないよ。薄い白布がなびいているような空をもう一度見上げてから、そうだね、と奈美の提案に乗った。
 部屋に鍵をかけると、私たちは並んでアパートの敷地を出た。日曜の朝のためか、住宅街の路地に人通りはほとんどなかった。駅の方に続く線路沿いの路地に入った時、ようやくウォーキング中のおじいちゃんに出会ったくらいだった。
 少しすると奈美が私の後ろにまわりこんだ。
「押してあげる」
「え、いいよ別に。疲れてないし」
「まあ遠慮しなさんな」
 奈美は車いすの背もたれのグリップをつかむと、そのまま押しはじめた。自走を基本とし、みずからに課してもいるので、車いすを押してもらうのは久しぶりだった。
「ご気分はどうですか、お客さん」
「なんか、照れくさいな」
「涼さん、車いす押してくれって絶対言わないもんね。でも本当に辛い時は無理しないで言ってね。約束だよ」
 奈美の声は真剣だった。だから私もわかったよ、と素直に応じた。
 線路ががたがたと鳴る音が後ろから近づいてきた。私たちはどちらからともなく振り返った。二両編成の列車が走ってきていた。駅に停車しようとしているので、速度は大分落ちていた。私たちはフェンス越しに通り過ぎていく列車を眺めた。一両目真ん中あたりに、男の子を右腕だけで抱きかかえ、出発の準備をしている男性が見えた。
 その列車が通り過ぎていった後、不意に奈美が息をついたのが聞き取れた。思いがけず重苦しい吐息に私が振り返りかけた時、それを遮るかのように奈美がささやいた。
「涼さん」
 さっきまでの明るさが嘘のように反転した、沈んだ声色だった。
「なに?」
「ごめんなさい」
 車いすが静かに停まった。グリップを握っていた奈美の両手が、私の両肩に置かれた。その手はかすかに震えていた。
「気づいてた、よね。きっと。全部」
「……」
「わたし……」
 私は無意識に、膝の上に置いていた右手を肩にまわした。奈美の手を強く握りしめた。言葉を継ごうとしていた奈美の驚く気配が、握った手を通じて伝わってきた。
 それ以上を彼女に語らせてはいけない、と心中の自分が叫んでいた。これ以上を奈美に語らせることは、自分が地獄に堕ちてもおかしくないくらい罪深いことだとわかったから。
 私は左手も肩にまわし、もう一方の奈美の手も握りしめた。震える彼女の細い両手はガラス細工のようで、少し力を込めればすぐにでも砕けてしまいそうに感じた。それでも私は強く、その手を握りしめずにはいられなかった。
 私は奈美の手を握り、うつむき、瞼を強く閉じ、そして、何度もかぶりを振り続けた。
 謝らないで。
 お願いだから、謝らないで。
 奈美は、なにも悪くない。
 謝らなきゃいけないのは、おれだ。
 奈美に悲しく辛い想いをさせ続けた、おれなんだ。
 奈美から逃げ続けた、おれなんだから。
 胸の中で叫び続けた。「あの夜」の時のような痛みを伴いながら。
「悪いのは……」
 奈美の手を握りしめ、かぶりを振り続けてささやきかけた時、奈美が私を、背中から抱きしめてきた。
 私は抱きすくめられながら、奈美の温かさに胸詰まらせながら、手をさらに強く握りしめ続けた。言葉もなく、私たちは互いにすがり合った。しばらくそうした後、奈美が涙を胸の奥へと押し込める気配を感じた。そして身を離し、私の肩に手を置いて車いすをゆっくり押しはじめた。




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