小説「ふたりだけの家」8(全13話)
やべ、寝ちまった。
私は突っ伏していたテーブルから、はっと顔を上げた。固まった首筋をほぐし、腕に埋めていた右頬を撫でまわした。頬には服の皺の痕がついていた。目の前のノートパソコンはスリープ状態になっていた。
首をほぐしながら窓に顔を向けた。ところどころ苔むした古いブロック塀が目に入った。その向こうから、がんがん、と固い物を打ちつける音が響いていた。アパートの隣にはブロック塀を境にして板金工場がある。週末も休めない日が多いらしく、今日も金属板をプレスする音や、電気ドリルかなにかで穴を開ける音がずっと聞こえていた。最初はうるさいと思ったがこれもすぐに慣れた。それにこの騒音があるからこそ、奈美が掃除機をかけつつ歌っても近所迷惑にならないのだと思うと、最近はありがたいとさえ思えるようになっている。
午前中の家事を終え、冷やしそばの昼食を済ませた後、奈美は友人とのお茶会へと出かけていた。高校以来の付き合いだという友人五人とのファミレスでのお茶会は、月一の彼女の楽しみだった。
彼女がお茶会に出かけた後、私は茶の間でひとりノートパソコンを開いていた。
ディスプレイに表示させたのは、市内の泌尿器科の検索結果一覧だった。
私は「さかもと皮膚科泌尿器科」の他に、その手のことを精査してくれる病院を改めて探していた。
「さかもと皮膚科泌尿器科」に行く前、このあたりの泌尿器科をネットで調べる中、もっと大きな総合病院の泌尿器科でも相談を受け付けている、ということを実は知っていた。だがまずとりあえずの下調べを、と最終的に総合病院での診断を後回しにして「さかもと皮膚科泌尿器科」に行くことを選んでいた。その結論の根っこには大きな病院で否を突きつけられたらそこで終わりになってしまう、という恐怖心があった。だがそれではいけなかった。やはりもっと精査してくれる病院にはじめから行かねばならなかったのだ。
しかし検索サイトで検索結果までは出したものの、そこから先へマウスポインタを動かすことができずにいた。そうして画面に並んだリンク先を前に悶々としているうち、テーブルに突っ伏して眠ってしまっていた。
板金のプレス音は相変わらず響いているが、部屋に差し込む日差しは夕方の気配を帯びはじめていた。目をこすり、改めて画面を見つめた。検索結果はさっきとおなじままに表示され続けている。マウスに右手をかけた。しかし、やはりリンク先へのクリックができない。そこから先に踏み込むことがどうしてもできない。
「ただいまあ」
玄関ドアの開く音と共に、奈美の明るい声が響いたのはその時だった。私はマウスを動かした。ほどなく奈美が茶の間に入ってきた。
「ああ、お帰り」
「ただいま。はい、お土産」
奈美は手にしていたミスタードーナツの小さな袋をテーブルに置いた。中にはフレンチクルーラーがふたつ入っていた。私の一番好きなドーナツだ。
「お、ありがと」
「なにみてたんですか?」
「エロ動画」
「また嘘ばっかりぃ」
そう言いつつ、奈美は私の脇に来て画面を覗き込んだ。画面に表示されていたのは、互いに見慣れたヤフーのトップページだった。
「やっぱり違うじゃないですか」
奈美はちょっとほっとしたように言い、私の肩を軽く叩いた。私はからかうように、
「今急いでこの画面にしたんだよ」
「ふうん。ま、別にみてもいいですけどね」
奈美はちょっと唇を突き出すようにしながら、流しに手を洗いに行った。
嘘ばっかり、か。
奈美の言葉が胸に刺さった。確かに嘘ばかりだ、と思った。泌尿器科に行っていたことも、今また別の病院を調べていたことも、全部嘘をついてごまかしている。嘘じゃないのはネット画面を急いでヤフーのページに切り替えたことだけ。パソコンの電源を落とした。画面はすべてを消し去るように黒くなり、長いため息を吐く私の顔を映し出した。
「奈美、コーヒー飲む?」
私はもう一度小さい息をついて気を取り直してから、流しで手を洗っている奈美にたずねた。
「あ、わたしはいいです。ご遠慮なくどうぞ」
パソコンやマウスを片づけると、私は戸棚からマグカップとインスタントコーヒーを取り出し、ひとり分のコーヒーを淹れた。ほどなく、奈美が台所から手に別のマグカップを持って戻ってきた。
「あ、やっぱコーヒー飲む?」
「ああ、これ水です。もう喉かわいちゃって」
奈美はなみなみと水の注がれたカップをテーブルに置くと「よいしょ」と私の向かいに腰を下ろし、ごくごく喉を鳴らして水を飲んだ。言った通り、かなり喉がかわいている様子だった。
「どうした? ひと運動してきたって感じだけど」
「感じじゃないですよ。もう大騒ぎでした。なんたって子ども七人の子守ですから」
奈美の友人たちは彼女以外すでに子どもがおり、お茶会がこのところほぼママ友会と化していることは以前から聞いていた。すると話題はそれぞれが通わせている幼稚園や保育園の比較、近所のお母さんたちとの付き合い方、子どもの食物アレルギーなど、奈美にはついていけないものばかりとなる。そうなると彼女は必然的に子守の役を仰せつかることになるらしい。
今日も店の近所にある公園でひたすら子どもたちと走り回り、友人たちと話すことも、お茶やデザートをろくに口にすることもなく、お茶会は終わったとのことだった。
「じゃ、あんまり楽しめなかったんじゃないの?」
私は眉をひそめた。奈美が都合よく使われているような気がして、彼女の友人たちに少し苛立ちがわいた。
しかし奈美は「そんなことないですよ」とかぶりを振った。
「結構楽しかったですよ。みんなと滑り台一斉に滑ったり、ブランコしたり、ボール投げとかしたりして。そうそう、絵美子の上の子の真奈ちゃん、今日はじめて逆上がりできたんですよ。嬉しくってみんなでハイタッチしてきちゃいました」
ドーナツを両手で持って食べながら、奈美は実に楽しそうに話した。しかし、その直後だった。奈美の笑顔がこわばり、夢から醒めたようなあの表情が彼女に浮かんだのだ。そして一瞬きつく瞼を閉じた後、続けた。ひとり言とも言い訳ともつかぬ口調で。
「でもやっぱ疲れましたね。みんなはこれが毎日だもんなあ、子育てってやっぱ大変だ。わたしにはきついかも」
奈美はドーナツを食べ終えて横になると、すっと眠りに落ちた。言葉とは裏腹に、寝顔も寝息も穏やかだった。
私は音を立てずに深く息を吐いた。
奈美にとって子育てが大変できついだけのものじゃないことは、彼女自身が一番わかっていることのはずだ。元気な子どもたちの姿に、今は遠くにいる我が子の姿がふと重なった瞬間があったのだろうか。
「あの夜」やそれからのことは、あれ以来一度も起きていない。
深夜にひっそりパソコンや書籍を開き、うずくまって自分の奥へ手を伸ばし、吐息を漏らした姿も見ていない。数日後の夜、肌を合わせる時に私の手をみずからへ導いたことも、あの時の一度きりだった。もうあきらめたのか。それとも私が気づいていないだけか。
嘘をついてるのは、おれだけじゃないんだろうか。
私はいつもより苦みの強いコーヒーを飲みながら、彼女の寝顔をいつまでも見つめていた。
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