掌編「カッシアリタ」アケミとリタ
やたら冷たい秋風のせいで、安ライターは何度こすっても火がつかなかった。
あたしは煙草をくわえたまま舌打ちしつつ、ライターを持つ右手を左手で囲むようにしながら、さらにやすりを回した。それでもすき間から風が吹き抜け、どうしても火が消えてしまう。
もう、ちくしょう。
煙草をくわえた唇でもごもごと悪態をついていると、横からすっと手が伸びてきた。軽く指の曲げられた細い手は、あたしの両手を優しく包み込む。
ほら、はやく。今、ちょっと風やんでるし。
顔を上げると、そこにはアケミの姿があった。
あたしは言われた通り、またライターをこすりはじめた。三度目でようやく火がついた。しかしぐらぐらと揺れる火は、すぐにまた消えそうだ。あたしは煙草の先を揺れる火の動きに合わせ、あてがった。数秒後、ようやく煙草がちりちりと赤くなり、煙をあげはじめた。
サンキュー。助かった。
本当は手伝いたくなんかないけどね。
アケミは肩をすくめてからカーディガンの前をかき合わせ、マフラーもきつくした。マフラーは自分で編んだという。青と黄色の糸が仲良く抱き合っているような柄がアケミらしい、とあたしはなんとなく思う。
見逃してよ。これしか楽しみないんだからさ。
あたしはまた吹き抜けた秋風に、吐き出した煙を乗せた。そのひと吸いが済むと、携帯用灰皿にまだまだ長い吸い殻を突っ込んだ。
別にいいのに。気、使わなくても。
そんなんじゃないよ。ひとくち味わいたかっただけだから。
アケミはありがとう、と笑うと、そばにある指定席の木の切り株に座り込んだ。あたしはアケミが見ているおなじ方に車いすの角度を変えた。
今、あたしは街はずれの高台にある、療養訓練センター、通称センターにいた。
最後に付き合っていた男のバイクのけつに乗っていたあたしは、ハンドルを切り損ねてひっくり返ったバイクから放り出され、気がついたら下半身完全まひの車いすの身になっていた。一年近くの治療とリハビリの後、より高度なリハビリと社会復帰のための訓練を受けるため、このセンターに移された。
来てすぐうんざりした。リハビリは懸垂や鉄アレイを使ったり、汗だくになるような腕立てをさせられたりと、マッチョにしたいのかと思わせるきつい筋トレだし、社会復帰の訓練とやらも、おはようございます、など、皆で声を合わせて言わせられたり、どこかの工場からもらってきたらしい、ねじを組み合わせてなにかの部品を作る内職を延々させられたりと、もしかして刑務所とはこんなものなのか、と感じさせるものだった。
三日で飽きたあたしは、適当にリハビリや内職を済ませると、頭が痛いだの下痢気味だと、ありふれた理由をつけてさぼりだした。支援員も最初こそは止めたが、やがてなにも言わなくなった。黄色い頭をして、挨拶もせず、名を呼ばれてもろくな返事をしないあたしになど、できるだけ関わりたくなかったのだろう。それは他の入所者もおなじだった。皆、あたしを見ると避けるように廊下の端に寄った。
いつしかあたしは、建物から広大な駐車場を抜けたところにあるバス倉庫の脇に来て、男に差し入れさせた煙草を吸うのが、唯一の楽しみとなった。倉庫の目の前にはこんもりとした低い山が見える。今は紅葉の盛りだった。風が冷たいのが難点だが、ひとりぼんやりできるのがいい。
煙草を吹かすあたしに、いつの間にか近づいてきたのが、アケミだった。
アケミはあたしのそばに来ても、特になにも話しかけてこなかった。ただふらりとやってきて、そばの切り株に座り、あたしとおなじようにぼんやりとあたりを見ているだけ。
なに、こいつ。
おなじ居室棟にいるのは知っていたが、他の連中同様、話しかけたこともその逆も全然ない。それなのになぜ。
なんか、用なの。
ある日、気味悪くなってきたあたしは、ついに自分からたずねてしまった。
なにも。紅葉がきれいだから見に来てるだけよ。あと。
アケミは、つるんとした丸顔に人懐こい笑みを浮かべた。
ーーちゃんの黄色い髪もね。かわいいよね、それ。すごく似合ってる。
あたしは髪をほめられたこと、久しぶりにちゃんづけで名を呼ばれたことに、気がつくと頬が熱くなった。髪なんて支援員にいつも目をしかめられ、センターのなかにある床屋で黒くしてもらってこい、と、乱暴につままれたことさえあるのに。
やっぱり、思った通りだ。
唐突にアケミが言った。なんのこと、と首をかしげると、
ーーちゃん、笑うと可愛いね。
はっとなって、自分の顔に煙草のない手で触れた。つい口元が緩んでしまったのだろうか。だとしたら、ここに来て笑ったのははじめてだ。あわてる様子をアケミにくすっと笑われた。あたしは顔を熱くしたまま、アケミに煙がいかないよう、反対側を向いて煙草をぷかぷか吹かした。
アケミがカーディガンのポケットに両手を入れながら、顔を上げた。ぴー、ぴー、と、鳥の鳴き声が聞こえてきた。赤とんぼも淡い青空に思うがままに線を引いている。アケミは目を細めているが、あたしは実をいうとこういうのがどうも性に合わない。夜の街のヤキトリ屋やラーメン屋の脂くささ、煙草のやにのにおい、ひとのざわめき、そして、男の汗ばんだ肌。そんな暗がりが、あたしのただひとつの居場所だった。そういう場所にしかいるところを知らなかった。
のんびりするよね、気持ちいい。
なにも応えずにいると、アケミがちょっとため息をついた。
もう一本だけ吸いたい、と感じた。でもアケミの前では。そんな思いを察したのか、アケミはちょっと待って、とカーディガンのポケットに手を入れた。取り出した粒ガムの箱を引き出すと、一粒をあたしにさしだす。
いいよ、あたしは。
たまにはさわやかになろうよ、ほら。
ガムの乗った手の平は、老婆みたいにしわくちゃだった。アケミはあたしとおない年なのに。アケミにばれないように唇をきゅ、としめながら、ガムを手の平から取った。指にふれたアケミの手はほんのりあたたかかった。ガムを口に入れる。ミント味だ。
ガムなんていつぶりだろう。すがすがしさについ何度もかみしめていると、アケミもゆっくりかんでいた。赤とんぼがまた空を飛び交った。
紅葉が終わって、アスファルトに枯れ葉が敷き詰められた頃、アケミがリハビリも内職も休む、という連絡がなされた。支援員に訊くと、具合が悪いのでしばらく休むという。
あたしは内職を珍しくいそいそと片づけると、居室棟の奥にあるアケミの部屋に向かった。ノックしかけて止まる。調子が悪いんだから、ちゃんと休ませてあげないとだめか。車いすを回転させかけた時、不意にスライドドアが開いた。そこにいたのは、パジャマ姿のアケミだった。
わ!
わ!
鉢合わせに、ふたりして声を上げた後、アケミが目を丸くしてたずねてきた。
どうかしたの。
いや、その、ちょっと。
口がもぞもぞして、なかなかうまく話せない。一度咳払いをしてから、またアケミを見上げた。
具合悪くて休むって聞いて来たんだけど、そんな時に邪魔するのもいけないかなって。
あたしがなんとか返事をしていると、アケミはぱっと笑った。
わざわざ来てくれたんだ、ありがとう。あたしなら大丈夫だよ。今トイレ行くとこだったの。すぐ戻るから、入ってて。
アケミはドアを全開にしてから、トイレに向かった。
お邪魔します、と、あたしはそろそろとなかに入った。ベッドに床頭台、ロッカー、椅子ひとつ。あたしの部屋にあるものとおなじだ。
ただひとつ違うのが、小さな本棚が壁際に据えられていることだった。
顔を近づけてみる。単行本や文庫が雑多に並んでいる。難しそうな本ばっかり。頭いいんだな。安直な感想を抱きつつ見続けていると、一際目立つ本に気づいた。
聖書だった。
電話帳みたいに厚い本は、小学校以来ろくに本など手にしていないあたしには、さわる気にもなれなかった。さらに見ると、聖書の他にも、キリスト教関係らしき本が何冊か並んでいる。
面白そうなの、あった?
わ、と車いすから尻が浮き上がる。振り向くと、トイレから戻ったらしいアケミが、あたしの後ろから本棚を覗き込んでいた。
いや、一ページ読んだだけで寝ちゃうのばっかり。多分そうかと思ってたけど、やっぱ頭いいんだね、アケミ。
ちょっと本読んだくらいで、頭なんてよくならないよ。
アケミは苦笑いしながらベッドに座り、床頭台の下の冷蔵庫からペットボトルのお茶を二本出し、一本をあたしに手渡した。ありがとう。礼を言っていると、アケミは床頭台の引き出しに置かれていた薬袋から錠剤を取り出し、お茶で飲み下した。
調子は、どうなの。
うん、大丈夫。いつものこと。いいとこ探す方が難しいからだだからね。
さらりと話すアケミに、言葉が出ない。
しばらくふたりして黙ったままお茶を飲んでいると、ふとまた本棚の聖書に目が落ちた。背表紙に一際大文字で「聖書」と書いてある本は、やはり存在感がある。
読んでみたら。
アケミがあたしの目線に気づき、言った。
いいの。
もちろん。別に変な本じゃないから。
なんだか口調も表情もいたずらっぽい。あたしは一度首をかしげてから、聖書を取り出し、適当なページを開いた。辞書みたいにかなり薄い紙だった。
うわ。
思わず悲鳴に似た声が口をついた。細かな羽虫みたいな文字が、びっしりとページを埋め尽くしている。所々に少し大きめの文字があるが、そこしか読む気になれない。
すごいでしょ。それもらってから結構たつけど、まだあたしも時々そうなるよ。
あたしは膝に聖書を置いてから、思い切って疑問をたずねてみた。
こういうの持ってるってことはアケミって、ええと、なんていうんだっけ? ああ、クリスチャン? てひと?
たどたどしく言うと、アケミにくすっと笑われた。ふくれるあたしにアケミはごめんごめんと謝ると、
まあ、一応ね。じいちゃんばあちゃんの頃から一家揃ってそうだったから、自然とあたしもそうなった、て感じだけど。
じゃあ、これ、小さい頃からずっと読んでるんだ。
あたしがはあ、とため息をつくと、アケミは、一応読みました、てことにしといて、と微妙な笑いを口に浮かべた。
でも、いいことも書いてあるよ。これとか。
アケミは聖書を取ると、ページをぱらぱらめくり、ある箇所で止めた。
一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に/人の子らに幸せはない。また、すべての人は食べ、飲み/あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。
あたしは、アケミと一緒に声を出して読んでみた。でも、ぴんとこない。正直にそれを言うと、まあそうだよね、とアケミは固い口調で言った。
これ読んで幸せだったこと、あたしもないもの。
アケミが休みはじめて十日たった。
その間、二度アケミの部屋をたずねたが、様子は芳しいとはいえなかった。顔色が悪く、ベッドに座るのもしんどそうだった。あたしは無理に起きようとするアケミを制して、すぐ部屋をあとにした。不安だけが胸に満ちた。死の影に覆われているような気がして、車いすのタイヤをまわす手が震えた。
そんなある日の深夜。あたしは紙おむつにおしっこが漏れているのに気づき、トイレに向かった。始末を終えて戻ろうとすると、向こうの壁を薄暗いひかりの下でじっと見つめている人影があった。目をこらすと背丈に覚えがあった。
アケミ?
あたしはそっと車いすを彼女に近づけた。やがて、アケミはあたしに気づいた。見つかっちゃったか、とほのかな笑いを浮かべた。
あたしも壁に向く。そこには先日行われた、ミニ体育祭の写真が張り出されていた。入所者たちが車いすで競走したり、毬入れをしたりしている写真が並んでいる。ちなみにあたしは当たり前のようにさぼった。当然アケミも出ていない。
アケミは、ある写真の前に立っていた。あたしも彼女に並ぶ。その写真には、ひとりの車いすの若い青年が写っていた。髪をなびかせて、懸命に車いすをこいでいる。
タカヤだった。
あたしとおなじく、事故で車いすになったと、いつだか内職で隣になった時、聞いたことがある。ただ彼はあたしと違い、横断歩道を無視した車にひかれたかららしいが。車いすの身になってしまったが落ち込むこともなく明るく、場を盛り上がるのが得意な性格は、入所者、支援員限らず皆に好かれていた。多分体育祭の時も張り切っていたのだろう。
もしかして、好き、なの?
薄暗がりのなか、かすかにアケミの首が縦に動いた。それを見たあたしは急に気持ちが浮き立ちはじめた。
だったら、打ち明けてみない? あたし、手伝うよ。呼び出してもいいし、アケミの部屋に来てもらうように言ってもいいしさ。
ひとり盛り上がるあたしの話を、アケミは写真を見ながら、なにも応えず聞いている。
怖いかもしれないけど、やってみない? もし、向こうもアケミのこと悪く思ってなかったら、アケミも気分が明るくなって、からだもよくなるかもしれないし。ねえ、アケミ、あたしね。
あたしは、頬をひきしめた。
あたし、アケミが元気になるんなら、なんだってしたい。
はじめてあたしを、ここで笑顔にしてくれたんだから。
アケミが振り向いた。口元に淡い笑みが浮かんでいる。よく、アケミが浮かべる笑み。この笑みを見る時、あたしはいつもアケミが別の知らない世界にいるような錯覚を覚える。
ありがとう。でも、それはだめなのよ。
なんで?
前に見たの。タカヤくんの彼女みたいな女の子がお見舞いに来て、彼の車いすを押しながら中庭、散歩してるとこ。ふたりともにこにこしてて、すごく幸せそうだったな。
あたしは無意識に、ぐっと息を飲んでいた。そして後悔。
ごめん。
そんな、謝らなくていいよ。ありがとうございます、いろいろ考えていただいて。
アケミはおどけるようにお辞儀をしてから、また写真に視線を向けた。
でも、やっぱり思っちゃったんだよね。彼の車いすを押してるのが、あたしだったらな、て。
アケミの手がそっと上がり、写真に細い指が伸びかけた。もう少しで触れる、というところで指は止まり、手がゆっくり下ろされていく。
あたしの望みなんて、ただそれだけ。
それが叶ったら、ほかにはなんにもいらない。いつ死んでも。
かすかに潤んだアケミの声を聞いた瞬間、あたしは彼女の言葉の続きをさえぎるように手を握りしめていた。驚いて振り向く彼女の息づかいを感じながら目を閉じ、もう一方の手を広げ、胸に当てる。
そして、祈り、願う。
アケミが幸せになるように。アケミの未来が明るいものであるように。アケミの笑顔が永遠に続くように。アケミのいのちが少しでも長くなるように。アケミの。
聖リタ。
ひたすらに祈り続けていると、アケミのささやきが聞こえた。あたしはつい目を開けた。
ーーちゃん、聖リタみたいだよ。
リタ?
そう。
カッシアの聖リタ。昔々にいた、聖人と呼ばれるひとらしい。ある日、キリスト像に祈っていると、茨の冠から刺がリタの額に向かって飛び出し、リタの額に傷をつけた。額は化膿し悪臭が漂い、リタは修道院から隔離された。それでもリタは祈り続けた。やがてリタが死んだ時、額からは芳しい香りが漂ってきた、という。
あなたは、リタだね。そのからだであたしのために祈ってくれるんだから。額の痣も、きっとリタとおなじだよ。
アケミは、あたしの手を強く握り返した。あたしもまた強く握り返す。そして、あたしたちは同時に言い合った。
リタ、愛してる。
アケミ、愛してる。
窓から赤とんぼが久しぶりに見えたその日の午後、リタの昔話が幻みたいにはじまった。おれは室内用車いすに寄りかかりながら、静かに聞き続けた。
アケミはそれからまもなく体調がさらに悪化し、専門の治療ができる病院に移ったという。空になったアケミの部屋をリタは何度か訪れた。なにか彼女を思い出せるものがないか探したが、メモのかけらひとつ残っていなかった。
うだうだと日々が過ぎ、次の年の夏、リタもセンターを退所した。次に世話になるはずだった縁戚の家には行かなかった。そのまま、ポケットに残っていた内職でもらった小遣いでタクシーに乗り、脂や煙草やアルコールのにおいがただよう街に向かった。
最後の小遣いでビールを買い、飲みながら男に声をかけ、かけられるのを待った。なにもなくても、成り行きでおもちゃにされても、朝がきたら死ぬつもりだった。
ばかでおろかで醜くて、罪ばかりの人生を捨てたかった。聞いてはいなかったが、アケミももうこの世にはいないだろう。彼女のいない世界になど、未練もなにもなかったから。
でも、あんたと出会ったの。
おれの隣で、リタがささやいた。赤とんぼがまた窓を横切る。
あんたと出会って、こうして一緒に今でも生きてる。死ぬはずだったのに、生きてる。だから、信じてるの。アケミも生きてるって。だってそうでしょ。あたしが生きてるんだから、アケミだって生きてるよ。絶対、どこかで生きてるのよ。
リタの擦りきれたジーンズに、ぽたりと雫が落ちた。おれは彼女の肩に腕をまわした。髪が頬をくすぐる。アケミと会っていた頃とおなじ、黄色い髪が。
夕焼けのひかりが、部屋を紅く染めはじめた。