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小説「ふたりだけの家」6(全13話)

「それじゃ、少しお体の方、診させていただきましょうかね」
 坂本医師は電子カルテの入力を終えると、椅子の向きを変えた。
 うなだれたまま重苦しい回想に沈んでいた私は慌てて顔を上げてうなずき、ベッドの方へ車いすを寄せた。
「なにかお手伝いしましょうか?」
 その時、はじめて看護師が口を開き、私に近づいた。
「いや、大丈夫です」
 私は看護師に答えながら車いすにブレーキをかけた。そしてベッドに右手を、左手をアームレストにかけると、体をぐっと持ち上げてベッドに移動した。下半身は動かせないが、幸い上半身や両腕には異常がないので、車いすからベッドや椅子、床といった別の場所に移動するのは割と得意だった。もちろん、長年の生活で試行錯誤を重ね、少しずつこつをつかんでいった結果なのだが。
「お上手ですね」
 ベッドに移った私を見て、看護師が感心したように言った。「いや、別に……」と私は首を振った。
「仰向けで寝てもらえますかね。あ、ズボンと下着も脱いでください。膝まででいいんで」
 言われた通り、ジーンズとパンツを脱いだ後、紙おむつのテープを片側だけはずし、膝まで下ろした後、ベッドに寝そべった。性器と、筋肉が削げ落ち骨と皮だけになった両腿がさらされた。私がおむつをはずした時、坂本医師がなにか納得したように小さくうなずいたのが見えた。それがなにを意味するのか、当然私には知るすべもなかった。
 坂本医師はベッドサイドに鎮座していた例のエコー機器に椅子ごと近づいた。同時に看護師が診察室の照明を落とした。室内が暗くなり、エコーのモニターの明かりだけが室内をぼんやり照らしだした。
 坂本医師はエコー機器からカラオケマイクに似た形状の探触子を伸ばすと、歯磨き粉のようなチューブから透明のゲル剤を絞り出し、先端に塗った。そうして準備が整うと、私の性器に探触子をあてはじめた。
 私は両手を胸に置き、エコー画面を横目で睨んだ。画面にはざらついたモノクロの影がうごめいていた。それがなにを映しだしているのか、当然ちっともわからなかった。探触子は性器にあてがわれ、細かく動いているようだが、もちろんなにも感じ取ることはできない。緊張はしなかった。しかしエコー中、坂本医師はまったくの無言で、それが気詰まりだった。病を得て以来、実に様々な医師と出会い、体を診てもらってきたが、こういうなんの説明もせずに診察なり検査なりをするタイプの医師が、昔から苦手だった。意味不明の医療用語でいいから、なにか話しながら診てくれた方が、私としては気が楽なのだが。
「はい、わかりました」
 坂本医師が告げ、エコー検査は唐突に終わった。坂本医師が探触子を戻す間、看護師がティッシュで私の性器に残ったゲルを拭い取った。その後また診察室に照明をつけた。
「じゃ、ちょっと触らせてもらいますからね」
 坂本医師はティッシュのような箱から半透明の手袋を二枚抜き取り、両手にはめた。そして私の性器を触診しはじめた。私はさっきのエコー時のように胸に手を置き、天井を見つめた。
 坂本医師は私の性器に指で触れ、いろいろと調べているようだった。しかしやはり感覚はなく、具体的にどういう風に調べているのかはわからない。痛くも痒くもない。
 奈美は今、どうしてるだろう。
 触診を受けながら、ふと思った。
 掃除を任せて出てきちまったから、洗濯物干すのはおれがやらないとな。そういや病院に入る前メール来てたっけ。お使いのメールかな。帰りにスーパー寄らなきゃいけないかもな……。
 そんなことをとりとめなく考えていた時、私は眉をしかめた。
 下腹部から、なにか妙な感覚がせり上がってくるのを感じたのだ。
 それは今まで一度も体験したことのない感覚だった。なにかもぞもぞむず痒いような、重苦しいような、生温いような、くすぐったいような……。とにかくそんな形容し難い感覚が私の中でうごめき、ざわつき出しているのを感じた。
 なんだ、これ……。
 眉をきつく寄せながら、私はベッドの上で激しく動揺した。どうしてこんなものを感じているんだ。金槌で叩かれようが包丁で切られようが、なにも感じないはずの下半身が、一体なんの感覚を感じているんだ。気のせいか。錯覚か。でも今確かに、なにかがおれの中で。
 そして、さらに気づいた。
 その感覚が決して不快なものではなく、むしろ心地よさ、快感に近いものだ、ということに。下腹部を怪しくうねまわるその感覚をもっと味わってみたい、もっと感じてみたいという欲望が、一瞬だがよぎりさえしたことに。
 私はきつく瞼を閉じた。胸に置いていた両手の指を、服の上から肋骨の間に食い込ませた。同時に頬の裏を強く噛みしめた。そうして胸と口に走る痛みに、全身を支配させようとした。下腹部のうごめきなど、霧散してしまうくらいに強く。
 しかし下腹部から這い上がる感覚は、容赦なく私に襲いかかり続けた。私をその中に溺れさせようとすらした。肋骨と口中の痛覚など、あざ笑うかのように。
 そして私はまた思い出していた。過去、性の昂りを感じようと、そしてその果てに訪れる快楽に身も心も狂わせたいとあがき、積み重なっていった数えきれない夜のことを。
 みずからの無様な過去を思い出しながら、私は頬の裏をぎりぎりと噛みしめ続けた。
 あれだけ求め、あがき続けた上に断念した感覚が、まさかこんなところでもたらされてしまうのか。こうもあっけなくもたらされてしまうのか。この丸眼鏡の医師によって。
 瞼の裏に、また違う光景が浮かびあがってきた。
 共に暮らす前に、奈美に私の体のすべてをさらした、はじめての夜のことだった。
 その夜、私は筋肉の削げ落ちた枯れ枝のような、動くことも感じることもない両脚を、排泄物が漏れないよう身につけた紙おむつを、その内側に隠されていた性器をさらした。そして酷いとわかっていながら、かつて幾夜も繰り返した虚しい行為までしてみせた。頬から一筋、涙を流す奈美を見つめながら。
 そうして私の体のすべてをさらした後、奈美は私の胸にすがりつき、こらえようもなく涙を溢れさせた。
 あの涙の意味は、情けないけれど私にはいまだにわからない。だが彼女と共に生きることを決心した時、私はある誓いを密かに立てた。あの涙を、おれは一生背負っていくんだ、と。
 その誓いが、この無機質な診察室で、今日はじめて出会った泌尿器科医の手によって、若い女性看護師の前で、無残にも打ち砕かれてしまうのか。そんな恐怖が私の上に黒く覆いかぶさっていた。
「あの、大丈夫ですか」
 私の異変に気づいたのか、看護師が心配げに声をかけてきた。
 おれ、今、どうなってるんですか。
 その問いかけが喉元まで吐瀉物のように出かかった。寸前で空気と共に胃に押し込めた。脂汗を額に浮かべながら、無言で小さくうなずくのが精一杯だった。
「はい、わかりました。もういいですよ。お疲れ様でした」
 坂本医師の声が響いた。さっきのエコーと同じく、触診はなんの前触れもなく終了した。坂本医師は手袋を引っこ抜くと、くちゃくちゃと小さく丸めてごみ箱に捨てた。
「身支度されて結構ですよ」
 看護師が重ねて告げた。私は閉じていた瞼を見開き、すぐさま上半身を跳ね起こした。下半身を覗き込んだ。私の性器にはなんの変化も起きていなかった。あの感覚も、幻のように消えてなくなっていた。
 紙おむつをつけ直した。さっきよりテープをきつく閉めた。パンツをその上からかぶせ、ジーンズをずり上げた。その手つきは自分でもわかるほどせわしなく、そして覚束ないものだった。車いすに戻る時、ふらつきを覚えた。背中にも脂汗が浮き、Tシャツが肌にべっとりと貼りついていた。
「ひと通り診させていただきましたが」
 私の身支度が済むと、坂本医師が口を開いた。診療机の左側にあるディスプレイに、さっきのエコー画像が映し出された。坂本医師は指で画像を指しながら説明をはじめた。私は思わずその手を凝視した。今しがたまで私の性器をいじりまわしていたその手を。
「尿道にも精巣にも、特に異常はみられないですね。前立腺と右の睾丸が少し肥大しているようですが、まあ特に問題ないでしょう。一般の成人男性同様、生殖機能そのものはあると思われますね」
 私は思わず息を飲んだ。
「あの」
「はい?」
「異常ない、ということですが、じゃなんでおれは今まで、その、できなかったんですか。その、おれ、今まで、どんなことしても勃たなかったし、あれだって、ほんの少しも、出たことないんですよ」
 私の声も、アームレストにかけた手も震えていた。
 想像していない回答だった。なんらかの異常があるからこそ、あの快感も肉体の変化もないとばかり考えていた。だから、その異常なり原因なりを知りたいと思ったからここに来たというのに。その異常や原因を踏まえた上で、なんとか奈美と私にも、と。
 しかしそんな私の動揺や疑念に気づく様子もなく、坂本医師は首をひねった。
「そうですね。私に言えるのはあくまで性器や精巣に特に異常はない、ということだけで、ご質問のことはここではなんともお答えしようがないですね。それを調べるとなると、もっと大きな病院で精密検査を受けていただくことになります。もしお望みでしたら紹介状をお書きしますけど」
 坂本医師は電子カルテに診断結果を入力しながら言った。私は再び瞼を閉じ、うなだれ、ジーンズの膝を握りしめた。がちゃがちゃと耳障りなキーボードの音だけが、しばらく室内に響き渡った。
 やがて私は物憂く頭をもたげた。
「……少し、考えさせてもらってもいいですか」
「ええ構いませんよ。なにかありましたらいつでもご連絡ください」
 その言葉で、私は診療がすべて終わったのを察した。
「どうも、ありがとうございました……」
 坂本医師に力なく頭を垂れると、タイヤのブレーキをはずし、車いすを反転させた。
「お大事になさってください」
 看護師がドアを開けてくれた。おれはなにを大事にすればいいんだろう、などと思いながら「お世話になりました」と診察室を後にした。
 待合室に戻るとさらに患者は増えていた。座りきれず、壁に寄りかかって順番を待っている親子の姿もあった。間髪入れず次の患者が呼ばれ、まだ三、四歳くらいの男の子が母親に手を引かれていった。男の子の後ろ姿に、光のそれが重なった。見たことなどないはずなのに。
 会計が済むと振り返りもせず病院を出た。駐車場の身障者用スペースに停めていた自分の車のドアを開けた。まず自分が運転席に乗り移った。次いで車いすを畳んでから、アームレストとフレームをつかんで持ち上げ、助手席と後部座席の隙間に積み込んだ。はじめてこの様子を見た時の奈美は、手品を披露されたかのように驚き、感心したものだった。
 車に乗ったものの、すぐには走り出せなかった。重しを乗せられたような疲労が全身にまとわりついていた。背もたれを半分だけ倒した。息が奇妙な荒れ方をしているのに、その時はじめて気づいた。おぞましさを覚えた。反射的にカーオーディオのスイッチを入れ、システム・オブ・ア・ダウンの『Chop Suey!』を大音量で流した。普段奈美と乗っている時は絶対に流さないバンドの曲だった。ドリンクホルダーに残っていたペットボトルの水をがぶ飲みした。血の味がした。頬の裏を噛み過ぎて、口の中に血がにじんでいた。



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