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ある日々の雑感

※この記事は投げ銭制です。全文読めます。

 病院の定期診察の日。診察の前に採血室へ。いつにもましての混みよう。整理券が出るまでたっぷり三十分。診察予定時間まで余裕がなくなり、急いで尿検査をする。自己導尿なので、ぱっとカップに出して終わりというわけにいかないのがいつもながら面倒くさい。採尿室を出ると、すぐ血液検査の順番がきていた。息を切らしながら名前と生年月日を名乗り、針を血管に刺される。思いがけず痛みが走り、頬の裏をかむ。採血のたび使っている血管の痛みが最近またひどくなってきた。もうかれこれ三十年以上、針を刺され続けた血管。金属疲労も起きるだろう。次は別の血管にしてもらおうと決める。
 検査結果はあまり芳しいとはいえなかった。尿素窒素はやや改善していたけど、クレアチニンや貧血の値は高止まりしている。以前から言われていた腎性貧血を抑制する注射治療をしばらく続けることになった。
 検査室でその注射を受ける。インフルエンザのような肩への皮下注射だ。刺した瞬間と薬液が流れていく時、案外痛みが強かった。どれほどの効果が出るのか。もし医師の予想するような改善がなかったら。その先を考えるのはとりあえずやめ、検査室を出た。
 受付で会計を待っていると、酸素吸入のボンベのカートを引いた女性を見かけた。このところ病院に来ると見かけるようになったひとだ。酸素吸入をしている方は年配の方というイメージが強いし、この病院でもそういう方が多いのだけど、このひとは見る限りまだ二十代と若い。濃いブルーのコートが似合っていて、紅茶色に染めたセミロングの髪型もとてもきれいなひとだ。しかしカートからは透明のチューブが首元まで伸びている。以前見かけた時もそうだったが、スマートフォンでずっと文字を打ち込んでいる。SNS記事でも書いているのだろうかと思うが知る由はない。もしそうなら明るい光に満ちたものであってほしい、と思うが、それは私の勝手な願望なのだろう。
 売店で昼食用のおにぎりを買って帰る。もそもそと食べて横になると、その日はもう動けなくなった。相方は残業で帰宅は九時近くだった。

 翌日は少し書き物をした。その後予想通り、あっけなく疲れてなにもできなくなった。しばらく開いていなかったTwitterを少しだけのぞいた。そんな時に限って、あまり精神衛生によろしくない文章や思考にぶつかってしまうのだから世の中はうまくいかない。長年読んでいたある方のSNS。元々その思考には眉をひそめるものがあったが、それ以上に学びも多かったので時々のぞいていた。だが最近になって、やや視線が上から見下ろすようなものになっているのを感じていた。今回はそれに加えて、触れると指に血がにじむようなささくれも増していた。ひとの思考も言葉も生き方も、時間とともに変わるのは当たり前だ。私だってどうなるかわからない。もうそのひとの言葉を自ら見にいくことはないだろう。すれ違うのなら静かに離れていけばいい。言葉を無意味な刃にして向かっていくことはない、と自戒や過去の自分への反省も込めながらスマートフォンを閉じた。

 次の日。また病院に向かう。診察ではなく必要な書類を受け取るためだ。受付で事情を説明すると、事前に用意してくれていたのかすぐにもらえた。所用時間二分。予想した通りではあったが、このためだけに車を二十分走らせ、入口で検温と消毒をしたわけか。マスクの下で苦笑いをする。
 このまま帰るのもあまりにせわしないので事前に行こうと決めていた院内のスターバックスに向かう。カフェラテと、卵とベーコンを挟んだサンドイッチのようなもので昼食にした。いつも私に気を使ってくださるSNSの相互フォロワーさんからすすめられていたさくらのラテは残念ながら置いてなかった。次は絶対に飲もうと決める。だがひさしぶりにひとり外出先で飲むカフェラテは、普段よりじんわりと胃に沁み込んでいく感じがした。
 病院を出ると、その足でユニクロに向かった。来週、地元の健診センターで健康診断を受けるのだが、その時脱ぎ着しやすいスウェットを着てくるように言われていた。今、寝巻にしているトレーナーとジャージズボンで行こうかとも思ったが、さすがにぼろが目立つのでこれを機に買い替えようと思ったのだ。
 幸い、暖かそうなスウェットはすぐに見つかった。レジに向かおうとしたところで春物のシャツに目がいった。デニム地のオーバーサイズ。これからくる春先にちょうどよさそうな品だった。似たものはもう家にあるのだが、車いす乗りの悲しさでシャツ類はすぐ袖口が擦り切れてしまい、今持っているのもそうなっていた。
 そのシャツの前でしばらくたたずむ。元々デニムシャツは好きで昔からよく着ていた。だが今、これを買うと財布が空になってしまう。今は無職の身だから無駄使いもしたくない。
 さんざん迷った末、結局買ってしまった。罪悪感はしかし、セルフのレジで支払いをしていると高揚感に変わった。あまり服を買うタイプではないが、やはり新しい服を買い、身につけると気分が晴れる。春がまた待ち遠しくなる。

 帰り道の途中、ある場所を通りがかったところでふと気づく。前職場の後輩女子の家があるあたりだった。以前もどこかで書いたかもしれないが、幼い頃の事故が原因で両腕が動かなくなり、日常動作はすべて脚で行っている女の子だ。食事で箸を使うのも、ペンを持つのも、キーボードを打つのもすべて足の指を使っていた。こう書くとすごいことのように感じるが、実際目にすると実に自然で、なんの違和感もなかった。ひとにはひとりひとりの自然体がある。そんなことを彼女からは勝手に学ばせてもらった。
 しかしやがて膝の痛みがひどくなり、職場をやめた。肝心の両脚の動きが悪くなってしまったからだ。本人の無念は想像もできない。
 退職後、一度だけ自宅に遊びにきてくれたことがある。こちらもお菓子を用意していたが、向こうはさらにたくさんのお菓子やおみやげを車いすの膝に抱えてきてくれた。他愛のないおしゃべりはいつまでもできそうだった。
 その日からしばらくして、相方に彼女からLINEがきた。
「私、あの時、におわなかったですか?」
 きっと、おしゃべりの途中で少し漏れてしまっていたのだろう。実際そんなにおいは感じなかったのでそう返信した。
 我慢しないで言ってくれれば、トイレに連れていったのに。
 私も、多分相方もそう思ったが、口に出しては言わなかった。帰ってからずっとそのことを気に病んでいたのだろうか。恥ずかしさと悔しさをかみしめながら、床に置いたスマートフォンを、足の指で押したのだろうか。そんな彼女の姿を想像していたら、ちょうど飲んでいた珈琲がいつの間にか冷めていた。
 そんなことをつらつらと思い出していると、車は彼女から遠ざかっていった。ひさしぶりにLINEをしてみようかとも思うが、まだその踏ん切りはついていない。


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