掌編「カッシアリタ」 祈り
膨れに膨れた薬袋を携えて病院から帰った後、くたびれ果て、床に溶けるみたいに眠った。西日に瞼を突き刺さされて目覚めると、部屋にリタの姿はなかった。
トイレにでもいるのか、とドアをノックしたが返事がない。リタの室内用車いすはからっぽ。よくよく見ると外出用の車いすもなくなっている。
携帯に電話してみる。すると近くから耳に馴染んだ曲が流れてきた。
リタが少し前に動画サイトで見つけた「鹿のように」という曲のピアノ・バージョンらしい。リタはすぐこの曲のデータを携帯に落とした。折に触れて流し、まどろみながら聴いていることもよくある。着信音にも設定している。あまり馴染みのないはずのこの曲をリタはなぜ好きなのか。いつも不思議に思っているが、いつもたずねそびれてもいて、結局理由はまだわからないままだ。
どこからおだやかなピアノが流れているのか。音を辿って部屋を這うとすぐにリタのスマートフォンは見つかった。ごみ箱のそばに放り投げられていた。画面にはおれの名前が表示され、曲が流れ続けている。自分の通話を切ると、優しげな旋律もまたぶつりと切れた。
画面を見返す。病院から送ったおれのラインが残っていた。
腎機能の検査結果が思わしくなかったから、また新しい薬が追加になった。低ナトリウム症も見受けられるから、次回から注射での投薬や点滴治療もはじまるってよ。やれやれだな。今から帰るよ。食欲もないから夕めしは簡単にそばにでもするか。棚に乾麺があったしな。
ふたつのスマートフォンを握りしめて唇を噛んでいると、そばのごみ箱に視線がいった。菓子の空き袋やちり紙に混じり、ふたつの紙くずが放り投げられていた。拾い上げてみると、ひとつはおれの今日の検査結果のプリントだった。尿素窒素、クレアチニン、ナトリウム、ヘモグロビン。あらゆる数値の横に異常を示すマークかついている。
もうひとつは近所に最近開店したパチンコ店の折込チラシだ。首をひねって、テーブルの上に広げた。裏返すと白地にリタの書いた文字が綴られている。だが並んだ文字は上から乱暴にばつ印で打ち消されていた。
リタは、アパート近くにある二棟の雑居ビルの隙間にいた。
雑居ビルには居酒屋やスナックが入っていて、ヤキトリやアルコールや油の濃いにおいが漂ってきている。壁には空調の配線が張り巡らされ、エアコンの室外機、生ゴミや不燃物を捨てる大きなバケツが雑多に並んでいる。タイヤ下のアスファルトも欠けがひどく、どこからか滲みだした水のせいで空気が湿っぽい。
リタは汚いビルの壁に車いすの背を寄せ、うつむき、膝の上で両手を組んでいた。
なんでここ、わかったの。
おれに気づくとリタが手をほどき、物憂げにつぶやく。
おまえはひとのにおいがするとこじゃないとだめだろ。さわやかな風とか似合わねえからな。
ひどい。
リタはかすかに唇を緩めた。
リタの車いすに自分のそれを並べる。そばの通りを大型トラックが通りすぎた。排ガスがここまで流れ込んでくる。機械というひとの作り上げたものから吐き出されたにおい。ここがリタにとっての礼拝堂なのかもしれない。ふとそんなことを思う。
髪、染めてきたんだな。
リタの髪に触れた。今朝までは明るいオレンジだったのに、今は黒になっている。もしかすると黒髪のリタを見るのは、出会ってからはじめてかもしれない。
なんで黒にしたんだ。
なんで、だろ。
リタは声を落とした。
夜に、なりたかったのかも。
夜。
あなたがゆっくり眠れる、おだやかな夜に。
リタはそっとこちらを振り向き、最近のおれは夜、よくうなされているから、と言った。
おれが、か。
うん。なにか悪い夢見てるみたい。何度も起こすけど、起きないの。夢にしばられてるみたいに。
深く息を吐く。多分、あの夢だ。
光も影もない、無限とも思える空間に自分がいる。車いすはなく、冷たく白い地面に倒れ付している。身を起こし、不安にかられながら見渡すと遠くにリタのような人影がいる。やはり車いすには乗っておらず、両腕で上半身を起こしてこちらを見ている。おれは名を叫びながら、必死にリタのもとへと這い進んでいく。だが、いくら這っても、いくら腕をうごめかしてもリタには近づけない。むしろ這うほどに遠ざかっていく。そんな夢。
おれは車いすのポケットに入れていた例の紙くずを取り出し、広げた。リタがそれに気づいて、やめて、と慌てて取り上げようとしたが、おれは紙を上にかかげて、リタが書き、ばつ印でなきものにした言葉を読み上げた。
一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に/人の子らに幸せはない。また、すべての人は食べ、飲み/あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。
誰の言葉だろう。おれは振り返り、目でたずねた。
二千年以上、数えきれないほどのひとに嘘をつき、だまし続けてきた男の戯れ言よ。
リタは言葉の汚さとは裏腹な静かな声で言い、顔を上げた。おれも見上げる。ビルの隙間から、赤く燃える夕暮れが射し込んできていた。まぶしいのに、目を背けたくなかった。
隣で妙な息づかいに気づいて振り返り、息を飲んだ。夕暮れを見上げながら、リタが泣いていた。頬を流れる涙に目を奪われる。きら、きら。きら、きら。薄汚れた空間の隙間にこぼれていた水晶のように感じた。
怖いの。
涙を止めようともせず、リタがささやく。
あなたの悪くなるばかりの検査結果見るたび、少しずつ少しずつ、あなたがあたしから遠ざかっていくみたいで。すぐそばにいるのに。毎日一緒なのに。急にどうにかなるはずじゃないのに。でも、怖い。
いつの間にか、またリタの両手がきつく組まれている。あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。リタがつぶした言葉が頭をよぎる。嘘でも戯れ言でも、それでもすがりたいのだろうか。思い出す。あの夢のなかで、おれは泣いていた。リタが遠ざかるたびに手を伸ばし、リタ、リタ、と泣き叫んでいた。
日差しが弱くなってきた。ビルの隙間は徐々に暗黒へと沈んできている。
帰ろう。
おれは組んでいたリタの両手に手を添えた。リタは黙ってうなずいた。ふたりして物憂げに表に出る。店に明かりが灯り、ひとの流れも多くなっていた。例の疫病は今、少し落ち着きつつあるが、まだまだ強く街もひともしばり続けている。これからどうなるか誰にもわからない。おれたちだってそうだ。
リタ。
車いすを並べ、前を向いたままつぶやく。
なに。
ラインでも書いたけど、おれ、また薬増えたんだ。今日も山盛りでもらってきた。
うん。
ふたり一緒にがぶ飲みしても、余るくらいあるからな。
リタの視線が頬に触れる。かすかに息を飲む気配もした。
そうしたかったら、いつでも言ってくれ。おれはおまえから離れないから。絶対に、離れない。
リタの車いすがゆっくり止まった。おれは自分のそれをゆっくり寄せる。細い手がおれの膝に添えられる。さっきまできつく組まれていた手。なにかを祈っていた手。そばを会社帰りらしいスーツ姿の男三人が、怪訝そうにおれたちを見つめ、去っていく。
帰ろう。
やがて、リタが顔を上げた。弱々しいけど、おれにとってなによりもいとおしい笑みが浮かんでいる。涙は、もうなかった。
おれたちは微笑みながら、再び車いすをこぎだした。やがて見えてきたコンビニに、リタはちょっと買い物してくる、と入っていく。その間、おれは出入口の近くで待つことにした。
目の前の通りをぼんやり眺めていると、車いすのドレスガードの隙間に突っ込んでいた、リタが裏に言葉とばつ印を書いたチラシが肘に触れた。
あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。
誰の言葉だろう。二千年という途方もない時間、ひとをだまし続けてきた男の戯れ言、とリタは言った。リタがそういうのならそうなんだろう。おれはチラシをくしゃくしゃに丸めた。そのまま知らぬふりをして捨てようとした。その一瞬、丸めた紙くずが石のように重く感じた。目をひそめる。ただのパチンコ店のチラシなのに。
あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。
店を振り返る。リタが缶チューハイや菓子をレジに出していた。おれはチラシをぐっと強く握りしめた後、迷いを振り切るように駐車場の隅へと投げ捨てた。リタが店から出てきたのは、そのすぐ後だった。
夜が濃くなってきた。めしを食ったら、今日は早めに寝てしまおう。これからどうなるかはわからないが、とりあえず今夜はあの夢も見ることなく眠れる気がする。すぐそばに、おれがゆっくり眠れる夜がいてくれるのだから。