女性と白いセルシオ

 「笑顔」とおなじく、昔某SNSにあげた日記の再録です。


 かつて住んでいた古いアパートに、ひとりの女性が住んでいた。

 年齢は当時で五十代半ばといったところだったろうか。他に家族はいず、アメリカンショートヘアの猫と暮らしていた。物腰もしゃべり方も実に控えめな人で、あいさつもこちらが恐縮するくらいにていねいだった。

 ただ不思議なのは、とにかくいつなんどきでもアパートにいること。仕事に出かけている様子もなければ、買い物以外に遠出するといった様子もない。誰かをたずねるふうでもなければ、誰がたずねてくるわけでもない。ある平日に休みを取ったときも、部屋の前で姿を見かけた。きれい好きなのか、物ほし竿にはいつも洗濯物がぶらさがっていて、休みの晴れた日には布団をよく干していた。玄関先もつねに掃いているためか、枯葉ひとつ落ちていない。時々部屋の前にたたずんではタバコをくゆらせ、空を見上げながら物思いにふける姿をよく見かけた。

 いつの夏だったか、車を停めておくスペースが雑草だらけになったことがあり、私は草取りを始めた。アスファルトの隙間から生えてきた草は実に固く、なかなか作業ははかどらない。そのとき「ひまだから」と、私に手を貸してくれたのが彼女だった。がっちりと軍手をはめ、鎌でざくざくと草を刈り、根をひきぬいた。畑仕事の経験があるのか、と思うくらいにその手際はよかった。プチジャングルと化していた部屋の前は、またたく間にきれいになった。さらに彼女は「どうせ捨てるついでだから」と、抜き終わった草をごみ袋に入れ、と持ち帰ってさえくれた。私は何度も頭を下げてお礼を言うと、彼女はいえいえ、と手を振りながら部屋へと戻っていった。

 ある冬の日のこと。帰宅すると、玄関前にごっそりと雪が積もっていた。やれやれとばかりに雪はきを始めた。プラスチックのスコップで雪をすくっては投げ、すくっては投げしていると、暗がりから彼女の姿が見えてきた。手にはスノーダンプを持っている。どうやら雪をはく音を聞きつけて、手伝ってやろうと思ってくれたらしい。ちょうど疲労がたまりはじめたところだったので、申し訳なく思いつつご好意に甘えることにした。私のような車いすの人間と違い、歩ける人がやってくれると早い早い。私ひとりなら一時間以上はかかったところを、半分以下の時間で終わすことができた。私はまたもや彼女に何度もお礼を言った。

 一度だけ彼女の部屋の前に車が停まっているのを見たことがある。白いセルシオだった。部屋の玄関先に頭から突っ込まれていて、ドアがあけっぱなしになっていた。車の中には誰もいず、彼女の姿も、猫の姿もなかった。次の日だったか、物干し竿に男物のスラックスが干されているのを見かけた。

 後日、雪をはいてもらったお礼にと、お菓子を持って彼女の部屋をたずねた。彼女は「そんなのいいのに」と言いながらも受け取ってくれた。その顔は照れくさそうで、困ったようで、でもとてもうれしそうだった。箱の中がシュークリームだとわかると、その顔はさらにほころんだ。どうやら甘いものが好きらしい。足元をすばやく影が通り過ぎた。彼女の猫が少しはなれたところにたたずみ、私を眺めていた。こんなに猫に見つめられたのは、生まれてはじめてのことだった。

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篭田 雪江(かごた ゆきえ)
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