このまま溶けて、なくなってしまえたら
調子が悪く、ごまかしながら使っていた電動シェーバーがついに壊れた。
電気屋に買いに行くのが面倒くさく、というかその体力気力もなく、アマゾンで注文したがまだ届いていない。その間、ひげは当然伸びっぱなしで、今は完成に無精ひげになっている。
入院した時に剃れなかった時など、ひげが伸びた時期はいくつかあった。だが今回、それらの時とは違うことが起きた。
ひげに、白いものが混ざったのだ。
父親の遺伝か、はじめて白髪が生えたのは二十歳すぎだった。それからしばらくは白髪が数本、黒髪に幾筋か混ざる程度だったが、三十後半くらいから一気に増えてきた。いっそ真っ白になればよいのだが、さえない灰色くらいにしかならなかったので、白髪染めをするようにした。
そして今回、久しぶりにひげを伸ばしたら、白いひげが入り込んでいた。髪とおなじく中途半端に。
「クレヨンしんちゃん」で、秋田のじいちゃんとしんのすけがいっしょに風呂に入った時、じいちゃんか「しらがマンモス」だった、といったようなエピソードがあった気がしたが、いずれおれもそうなるのか、と、鏡をのぞきながら思ったりした。
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自分は「老いる」のがはやいのかもしれない、と、以前から感じることがある。
白髪もそうだった。体力の減退も二十後半にはすでに感じていた。最近はなんとなく耳も聞こえづらく、相手の言うことを聞き返したりする。目下の悩みは目、だ。ピントがあわない。細かいものを見るとかすみ、ぼやける。加齢黄斑変性で眼科に通院しているが、今度行った時相談しなければならない。まさか老眼鏡か、と、不安を抱えていたりもする。
老いとはまた違うが、先日の通院でも、今までずっと正常だった数値に、ほぼはじめて異常が出た。「できる程度に休んで、あまり無理しないでくださいね」うなだれながら主治医の言葉を聞いた。難しい数式の宿題を出された気分だった。
私のような脊髄損傷者の平均寿命は六十歳前後、あるいは健常者にくらべ10年は短いなどと、以前なにかで読んだことがある。真偽はわからないが、崩れかけた自分のからだを思うと、そんなものかもな、とため息をついたことがある。
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体調が悪く仕事を休み、ひたすら臥しながら窓を見ていると、ふと「もう、いいんじゃないか」なんてつぶやきが、胸にもれる。
朝の血圧測定の結果に幻滅し、大量の服薬の影響で午前中はからだが重く、変なしびれもある。雑菌感染の恐れがつきまとう、一回二十分かかる自己導尿をトイレのたび繰り返す。夕方には気絶するみたいに寝落ちすることもしょっちゅうだ。
体力気力もない。常に水分補給しているから空腹感もなく、食べたいものも特にない。ただひたすら横になっている時だけが、なにもかも忘れられる。そんな毎日に、どんな意味があるのだろう。
「このまま溶けて、なくなってしまえたら、楽だろうな」
そんなつぶやきが胸に重なる。生来の軟弱者だから、このまま死んでしまえたら、とは考えない。実際の行動に移す度胸もない。だから溶けてなくなれたら、などと都合いい、ありえないことを願ったりする。滑稽そのものだ。いつだかのエッセイで最後まで生き抜く、などとたいそうなことを書いたが、現実の自分などそんなものだ。
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前日ここまで書き、下書き保存した。気持ちが沈むばかりで嫌になったのだ。
続きを書く気も起きず、このまま墓場行きにしようか、と思っていたところ、注文していた電動シェーバーが届いた。
早速開封し、ひげを剃った。さすがに新品だから切れ味がいい。みっともなく伸びていた白いものの混じるひげは、あっという間になくなった。鏡のなかの顔をのぞく。さえない面はもちろん変わらないが、少しだけ艶が戻った、気がした。
まだ血は通っているのか。まだ生きている、というわけか。
まだ、やらねばならないことある、か。
まだ、行かねばならないところもある、か。
まだ、会いたいひとたちがある、か。
まだ、おれには…。
鏡をみながら、まだ、が胸に重なる。ふっと笑みがもれた。ただひげを剃っただけなのに、と。滑稽そのものだ。
もう外は暗くなりはじめている。カーテンを引き、灯りをつける。不意に明日の仕事のことが頭に浮かんだ。先週から受け持っている冊子はまだ編集が終わっていなかった、続きを急がないとな、と。
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