つながり

「わ、いいにおい」
 玄関でスニーカーを脱ぎながら彼は声を上げた。印刷会社勤務の彼は週末、作業着をインク滲みや機械油、汗で汚して帰ってくる。
 おかえり。私は乗っている車いすをコンロのそばで停め、鍋をかき回していた。
 先にシャワー浴びといで。私の言葉に彼はうん、と子どもみたいに応じた。脱いだ作業着を直接洗濯機に放り込んだ様子が、脱衣所のすりガラスを通して見えた。
 交際直後、部屋の合鍵をもらった。はじめて部屋に上がる時、車いすのタイヤ汚れを拭きたいから雑巾を貸してと頼むと、そのままでいいよと彼は笑った。以来週末は食事を共にするのが習慣となった。一緒に作る時が多いが、今日は彼の仕事が遅くなり、私ひとりで作った。
「やった、カレーだ」
 濡れた髪のまま、彼はカレーにスプーンを突っ込んだ。やっぱり子どもみたいと苦笑しながら、ブロッコリーとトマトのサラダを差し出す。
「カレーだけでいいんだけどな」
「だめ。ちゃんと野菜もね」
 彼は唇を尖らせながらもフォークを取り、最初にブロッコリーを口に入れた。すぐその味を消そうとカレーを一気に頬張る。頬が緩む。生まれてはじめて好きと言ってくれたひと。五歳の時に下半身まひの身体障害を負い、車いすになった私を恋人にしてくれたひと。

「今日、泊まっていかないか」
 食後、共に食器を洗っていると彼にたずねられた。胸がずき、と痛み、喉がふさがる。泡まみれの皿に視線を落とした。沈黙が流れた。サラダの器を洗い出したところで彼がまた口を開く。
「おれたち、つきあってんだよな」
「うん……」
「でも、まだ手しかつないだこと、ないよな」
 私は黙ったまま、わざと音をたてて水を流した。
 洗い物が済み、沈黙したままテレビを眺めた。彼はずっと煙草を吸っている。からだのことを考えるとやめてほしい。本人もそう思い、実際禁煙したこともあったが五日しかもたなかった。なかなか手離せないようだ。
 九時半過ぎ、そろそろ帰るね、と車いすを玄関にこぎ出した。直後、背中から車いすごと彼に包まれた。どうしたの。答えはなかった。車いすから抱えられるとベッドに横たえられ、唇を重ねられた。固い感触と煙草のにおいが、麻酔のような危うさでからだの芯を突き抜けた。
 首を振り、唇から逃れた。ここまで直接的ではないが、似たようなことは前にも何度かあった。その度やんわりと、だが頑なに拒んできた。自分が「普通のからだ」だったら彼を受け入れたし、そうしたかった。
 でも、私は、普通じゃない。
「ごめん」
 彼の声が震えた。
「わかってる、わかってるつもりだよ。でも、やっぱり……」
 言葉が途切れた。皮膚の厚い手が私の背中や胸を撫でていく。吐息とも声ともいえないものが唇から漏れた。いつの間にか彼の背中に腕をまわしていた。
 彼が強く私に重なった。目を閉じた。でも。
 彼の感覚は、そこでぶつりと途切れた。
 思い出していた。自分の下半身が動作と感覚のすべてを失くしているという、忘れるはずなどなかった事実を。
 彼が全身で私を感じ取ろうとしてくれている。その熱を知りたくて、感じたくて、彼の背中に絡めようと、動くはずのない両脚に力を込める。
 気がつくと、私は彼の名を繰り返しささやいていた。涙が止まらなかった。
 驚いた彼が私の髪を撫で、涙を拭った。でも涙は溢れ続けた。言葉がこぼれ落ちた。
 あなたが、わからない……。

 窓から注ぐ光が、閉じていた私の瞼を開けさせた。頭の芯が痛む。かけられていたタオルケットを顔まで引き上げた。
 深呼吸してから身を起こし、きれいにたたまれていた服を着た。動かない足を手で持ち上げながら下着をつけた時、見慣れた自分を直視できなかった。
 ふと眉をひそめた。部屋に彼の姿と車いすがない。灰皿に何本もの煙草が突き刺さっている。昨夜、こんなに吸い殻があっただろうか。
 外から音が聞こえた。玄関に両脚をひきずり這っていき、腕を伸ばしてドアを開けた。
 すぐ向こうに彼はいた。車いすに乗っていた。無精ひげを生やしたまま私の車いすに身を沈め、リムを握り、必死に動かしている。すべてがぎこちない。ぜんまい仕掛けのおもちゃみたいだ。
「なに、してるの」
 彼が物憂く振り返った。
「練習」
「練習って、あなたが車いすうまくなっても……」
「わかってるよ」
 彼は荒っぽく言った。そして、だめなんだよ、とまた前を向く。
「だめなんだよ、好きってだけじゃ。きれいごとじゃないすべてが知りたい。でも、どうすればいい……」
 ドアを開けたままテーブルに戻った。灰皿の吸い殻を見つめつつ煙草を抜き取り、火をつけた。煙をゆっくり肺に入れる。火を押しつけられたような熱さに咳き込んだ。それでも煙草をくわえ、自分の奥に指を伸ばす。最初は静かに。徐々に強く荒く。壊れてもいいと思った。でも、そこにはなにもなかった。なにもわからないままだった。
 ドアの向こうでは、彼が車いすに乗り続けている。

                             了

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