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掌編「カッシアリタ」 胸

※投げ銭制度ですので、記事は全文読めます。

第一話は、以下のリンクです。


 まじかよ。
 ぼろアパートの玄関を開けた時、思わずその言葉が口を突いて出た。
 リタが全裸のまま、大の字になって寝ていたのだ。Tシャツやブラジャー、ぼろぼろのジーンズ、ゴムの伸びたショーツ、そして紙おむつが、部屋のなかに脱ぎ散らかされている。クッションがあるというのに、室内用車いすのフットレストを枕にしているのに思わず首をひねる。痛くねえのか。でも尿漏れシートを敷き、その上に横になるのは忘れなかったようだ。
 おれは持参してきたビニール袋を放り投げ、車いすからダイブするように降りた。どさ、っという、肉のかたまりを落としたような音がした。完全まひで動かない下半身を放り出しているようなものだから、そんな音がするのも当然だ。
 下半身をひきずり、リタの脱いだ紙おむつを手に取る。少し漏れがあるがまだ使えるだろう。両端のテープをつけ、パンツをはかせるようにつけ直してやる。やはり完全まひの障がいを負い、筋肉の削げ落ちた鶏がらみたいな腿と、たよりない陰毛の生えた性器が目に入る。酒の飲み過ぎですぐに小便を漏らし、触れてほしい、といつもおれに望むその部分をみるたび、く、と喉がつまる。
 しかし、まじで起きねえな。リタは一度寝てしまうと、ちょっとした物音や、少しからだを揺すられたくらいでは目を覚まさないのだ。それにリサイクルショップで買ったガラスにひびの入ったテーブルの上には、金麦の缶が二本転がっている。昼飯に食ったらしいカップヌードルも、スープまできっちり飲み干している。電線だらけの空が広がる窓は開き、相変わらず埃っぽい扇風機がのろのろ回っている。どちらから吹き込む風もなまぬるいが、リタにとっては南の楽園なんだろう。
 リタの腹に手をあてる。うすい腹がややふくらんでいる。さすがに小便がたまってきているようだ。このままだと本格的に漏れてしまう。
 おい、起きろ。リタの肩を揺する。額にかかった金髪がばらばらと揺れる。先日うっとおしいからとベリーショートにしたついでに、髪を金色にそめてきた。一年前、真夏の夜に出会った時とおなじように。ううん、とうなった後、リタはようやく目を覚ました。
 え、なに。リタは寝ぼけた声で言った。なにじゃねえよ。いくらなんでもそんなかっこで寝てたら風邪ひくだろ。それにそろそろ便所いかねえとやばいぞ。リタはけだるく身を起こし、腹に手をふれた。ああ、ほんとだ。あくびをした後、紙おむつだけをしたからだをひきずって便所に入っていく。おれはため息をひとつつくと、冷蔵庫から金麦を取り出して飲んだ。うめえ。半分飲み干したところで、着ていた服を脱ぐ。おむつもはずそうかと思ったが、飲んだ後に寝てしまってつい、を考え、やめた。

 そういや、どこ行ってたの。便所から戻ってきたリタがたずねながら、冷蔵庫に最後に残っていた金麦を空ける。ふと飲み屋やラーメン屋、ビジネスホテルが雑然と立ち並ぶ窓の外を振り向く。ぼろアパートの一室で障がいもちの女と男が、紙おむつ一丁で明るいうちから酒を呑んでいる姿は、向こうからはどうみえるのだろうか。
 どこって、病院だよ。
 リタにはじめて出会った少し前から、おれは腎臓を患っていた。血管の狭窄をおこして右の腎臓がつぶれた。残った左もあまり状態はよくない。定期的な血液、尿検査と日々の服薬は欠かせない。さっき放り出したビニール袋には、一か月ぶんの薬が詰め込まれている。
 え、今日だったの。リタはまだ寝ぼけていた瞼をぱっと開けた。なんで言ってくれなかったの。てっきり買い物かなんかだと思ってたよ。昨夜言ったじゃねえか、今日通院日だって。
 うそお。まじショック。やっちゃった。愛ちゃんに会いたかったなあ。おっぱい、ひさしぶりにみたかったのに。おれの金麦をやけ気味に飲み干し、ぶつぶつ言うリタに思わずうなだれる。
 暮らしはじめてから知ったのだが、リタはなぜかやたらおっぱいが好きなのだ。だからスマートフォンで「おっぱい」とネット検索し、その結果出て来た画像や動画をよくみている。そしてこの子の胸なかなかだね、かたちもいいし、とか、この子はちょっと乳首が黒いかな、などと、評論家よろしく言いながら眺めている。
 そんなおっぱい評論家のリタによると、おれの主治医である愛子医師は、最高ランクに入るらしい。はじめておれの通院に付き合い、診療室にいた愛子医師の胸元をみた瞬間、そう確信したという。おれの診察の間、リタは愛子医師のおっぱいを、まじまじとみつめた。診療を終え、院内のスタバでコーヒーを飲んでいると、ああ愛ちゃん大好き。あんなきれいなのはじめて、みてみたい、もみもみしたいな、と、まわりの患者の目も気にせずうっとりとしゃべり続けた。その時おれは、この女と暮らしはじめたことをはじめて後悔した。
 今度は絶対連れてってよ、絶対だからね。わかったっつうの。おれはうんざりと言い、便所へとからだをひきずっていった。便所にはリタの小便のにおいがかすかに残っていた。

 検査結果、どうだったの。
 夜、寝る準備をしているとリタがそっとたずねてきた。それ訊くの、愛ちゃんのおっぱいのことより先じゃないのか。そう皮肉を言おうとしたがやめた。
 知っている。リタはそれを訊くのが怖いのだ。前にクレアチニンの値が悪くなって薬が増えた時、そんな、とおれの方が驚くくらいにうろたえた。その後からだのことを心配してか、急に減塩料理作りに励みだした。もっとも次の診察で値が正常値に戻ると、ぱたりとやめてしまったが。でもそれ以来、検査の結果を訊くのはいつも遅い時間になってからになった
 大丈夫だったよ。特に悪いとこはなかった。
 リタはなにもう言わず、ふうっと全身で息をついた。灯りを落とし、寝巻を脱ぐ。おれの上にゆっくり重なる。重ねた唇に、冷たいものが流れ落ちる。おれはリタの額の赤い痣に唇を触れた。
 あのさ。しばらく抱き合ってから、小さくつぶやく。なに。いや、やっぱなんでもない。小さく首を振る。胸のうちでつぶやきを続ける。
 おれ、愛ちゃんの胸よりおまえのがいいよ、ずっと。
 リタのうすい乳房に顔をうずめる。心臓の音が聞こえる。どちらかのものかわからない尿のにおいが、ふっと鼻をくすぐる。窓の向こうの雑多な街から、またぬるい風が流れてきていた。



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