大塚・歳勝土遺跡
横浜市歴史博物館の隣に弥生時代中期(約2000年前)の環濠集落があります。集落の広さは約2万㎡、その周囲に幅最大4m、深さ1.5~2mの堀が巡らされてます。集落(大塚遺跡)と墓域(歳勝土遺跡)が分れており、環濠(堀)は、集落の防御ではないかと考えられているそうです。(諸説あり)
住居跡は115軒発見されたそうですが、重なりなどを考慮して同時期に立っていた住居は20軒前後、住居1軒当たりの人数を5人として100人前後の人々が暮らしていたと考えられています。
横浜市では、弥生時代中期後半の遺跡として鶴見川水系流域に2~3万㎡規模の環濠集落がいくつも見つかっています。ところが、弥生時代後期にこれらの集落が消え、多摩川・鶴見川の下流域に大きな集落がつくられるようになったとか。人口増により、広大な水田耕作が出来る場所へ移っていったのではないかと考えられ、さらに環濠を持たない集落も増えたそうです。
なお、大塚遺跡では火災住居が多かったらしく、これが戦いによるものか、失火、或いは計画的(有害動物の駆除、廃棄)なのか結論は出ていません。
兵庫県立考古博物館の展示と比べて、横浜市北部の遺跡では戦いの犠牲者の埋葬や、弥生時代の武器類が発見されてないことを考えると、倭国大乱と呼ばれる争いは関東まで及ばなかった可能性もありますね。
ただ、この地に移り住んだ人たちが、何がきっかけでやってきたのか非常に気になるところではあります。
一方、大塚遺跡の隣には、方形周溝墓というお墓の集まりがある歳勝土遺跡があります。
この歳勝土遺跡は大塚遺跡と同時期に作られていることから、大塚遺跡に暮らしていた人々のお墓と考えられているそうです。
方形周溝墓は弥生時代前期に朝鮮半島南部から伝わった墓制で、近畿を中心に関東や東北南部等で発見されています。やがて地域の有力者が台頭すると、他と比べて大きな墓が造られます。それが古墳へと発展し、その一方で環濠集落は古墳時代の始まりと共にすたれていったのだとか。
次回は、関東の米作りが始まった頃について調べようと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました💖
参照:wiki「弥生墳丘墓」「弥生時代の墓制」
『弥生のいくさと環濠集落』横浜歴史博物館 発行