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遊子吟
兵庫県に細川(庄)という場所があります。ここは平安時代に朝廷の歌所の所領で、後に藤原俊成が後白河院の院宣で「千載和歌集」を編纂した際、その功績を称えられこの地を下賜されます。
この細川庄は、後年相続争いが起きます。我が子へ相続を記した遺言書があるにもかかわらず、本妻の子供たちが細川庄を譲ろうとしない。その解決を鎌倉幕府に委ねるため、京都から鎌倉に向かったのが藤原為家(藤原俊成の孫・藤原定家の子)の側室であった阿仏尼。
その道中を日記として書き残したのが『十六夜日記』。阿仏尼は、歌人としても活躍し作品を残しています。残念ながら鎌倉での訴えはなかなか認められず、訴訟の結果を知ることなく阿仏尼は亡くなってしまいます。
ですが後年政治情勢が変わり、阿仏尼の子(冷泉為相)が細川庄を継ぐことに。しかしこの所領争いが兄弟仲を悪くし、京極家、二条家、冷泉家と三つに分裂する一因とされてます。
藤原俊成が歌人としての栄誉を称えられ朝廷から賜った所領ですから、継げなかった兄弟たちは面白くなかったのでしょう。
後の細川庄には、応仁の乱から避難してきた下冷泉家の当主が住んだそうです。なかでも冷泉政為は、室町時代に官位を得てここから京都へ通ったのだとか。おおよその場所として、下記地図の印から京都まで距離にして約90km。徒歩だと丸一日近くかかる距離です。酔狂な方だったのでしょうか?
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ところで、中国唐の詩人で孟郊が詠んだ遊子吟という漢詩があります。
慈母 手中の線 遊子 身上の衣
行に臨んで密密に縫う 意は恐る 遅遅として帰らんことを
誰か言う寸草の心 三春の暉に報い得んと
慈母深い母は、旅立つ息子のために糸を手にし着物を縫ってくれた。
出発が近くづくと、一針一針ていねいに縫いながらも、心の中では息子がいつになったら帰って来るのかと案じていたに違いない。子のちっぽけな心では、あたたかい春の日差しのように育ててくれた母の恩にはとうてい報いることが出来ない。誰が報えるなどというのか。
下冷泉家が細川庄を得られたのは、我が子のために京都から鎌倉まで足を運んだ先祖である阿仏尼のおかげ。その恩と苦労を忘れないために、細川庄から京都まで通い続けたのではないか。そんな妄想を抱いてみました。
息子を思う母の気持ち、その母を思う息子の気持ち。
いつの時代でも変わらないものがあります。
最後までお読みいただきありがとうございました💖
参照:wiki「十六夜日記」、「藤原俊成」、「冷泉為助」、「孟郊」
漢詩を読む~遊子吟 (bonjin-ultra.com)
武家家伝_細川(下冷泉)氏 (harimaya.com)