弥生時代のお米はパラパラ?
稲作が日本に伝わったのは、縄文時代の終わり(今から三千年以上前)と言われています。
当時のお米の調理方法は、広口の土器に多めの水とお米を入れて火にかけ、吹きこぼれたら土器を傾け湯を捨てた後、横倒しにして蒸らしたそうです。そして高坏という脚台のついた土器に盛り、床に座って皆で囲んで手づかみで食べたのだとか。
ちなみに、当時のお米は今より粘り気の少ない熱帯ジャポニカ米だったそうです。(現在私たちが食べてるお米は、粘り気の多い温帯ジャポニカ米)
手づかみで食べるのも、粘り気の少ないお米だからこそ出来たのですね。
なお、お米を水に入れて炊くのは、お米に含まれるデンプンは加熱することで人間が吸収しやすい形になるのだとか。調理方法にも意味があったとは知らなかった😅
関東地方でお米の調理方法が変わるは、古墳時代中期と呼ばれる五世紀以降。人々の暮らしに煙突つきカマドが導入され、六~八世紀には長細い甕の上に甑を乗せて布で包んだ米を蒸す調理方法が始まります。
器に関しても、弥生時代の終わり頃から一人用の小さな高坏に変化し、五世紀以降の古墳時代中期には脚台のない椀のような形、つまり食器を手に持って食べるかたちに変わっていったと考えられています。
そのため、この頃からもちもちとしたお米を食べるのが流行るようになったのではないかという説もあるのです。(諸説あり)
もちもちしたお米は、古代人にも人気があったのかもしれません。
最後に高坏ですが、表題上の画像右下に映ってるような高い脚のついた器。お供えをするときの器の形になんとなく似てますが、あれはもしかしたらはるか遠い昔のご先祖様を偲ぶ意味もあるのでしょうか。
昔のことを調べていると思わぬ気づきがあったり、なかなか楽しいものがあります。歴史ってロマンがありますね。
最後までお読みいただきありがとうございました💖
参照:wiki「稲作」
『おにぎりの文化史』横浜市歴史博物館 監修
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