「道明寺の合戦」~大坂の関ヶ原~
◆「道明寺の合戦」
大阪府藤井寺市にある、近鉄の道明寺駅に、「道明寺の合戦」の碑が設置されています。
「道明寺の合戦」は、大坂方豊臣家と江戸幕府との間で行われた大坂の陣の戦いの一つで、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の期間に発生しました。この戦いで、豊臣方の将・後藤又兵衛が孤軍奮闘し、討死したことで知られています。
歴史の流れからは、大坂方が勝つことは無かったでしょうが、大阪出身の私としては、どうしても、後藤又兵衛や真田幸村を贔屓にしてしまいます。
◆「大坂冬の陣」
1614年、徳川家康は、江戸幕府を安泰にすべく、豊臣家を滅ぼそうと、方広寺鐘銘事件を起こして、「大坂冬の陣」に持ち込みました。
大坂方に呼応する大名は少なく、集まったのは牢人衆10万人。その中核を為したのが大坂城五人衆と呼ばれる、真田信繁(幸村)、毛利勝永、後藤基次(又兵衛)、長宗我部盛親、明石全登の5人でした。
「大坂冬の陣」では、真田幸村を中心とした「真田丸の戦い」で、一矢を報いましたが、徳川側の大砲攻撃で、大坂方が和議を求め停戦。その際に、大坂城は、内堀、外堀も埋められ、裸城にされてしまいました。
◆「大坂夏の陣」
1615年に始まった「大坂夏の陣」では、八尾・若江など各地で大きな戦いが繰り広げられ、その中でも、「大坂の関ヶ原」とも言われる激戦が繰り広げられたの が、この「道明寺の合戦」です。
5月6日の未明、大坂城を出た「後藤又兵衛基次」は、 河内国分へと2800の兵を進めました。道明寺についた又兵衛は、小松山(玉手山付近)に上り、見下ろすと、そこにはすでに数万の徳川軍が集結していました。
果敢に戦いを挑んだ又兵衛は、奥田忠次を討つなどの戦果をあげましたが、多勢に無勢。八時間にわたる激闘の末、水野勝成や伊達政宗の軍勢に圧されて自刃し、隊は壊滅 しました。
勢いづいた徳川軍は、道明寺へと進軍。いよいよ崩れかけた豊臣方を立て直したのが「真田幸村」 でした。幸村は、誉田八幡宮付近に布陣。片倉小十郎らを盛んに攻め立て両者相譲らず、戦いは膠着。
そこに届いたのが、八尾・若江の敗戦の報で、戦の舞台は道明寺から天王寺へと移され、その際、殿軍を務めた幸村は、「関東勢百万と候え、男は一人もなき候」と徳川軍を嘲笑しながら悠然と立ち去ったと言われています。
翌5月7日、「真田幸村」は、天王寺近くの安居神社で討死に。大坂城は陥落して、戦国時代の終わりを告げる「大坂の陣」は終結しました。
ここから、大きな戦乱の無い時代が長く続くことになります。
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