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少年に神聖を捉える

Youtubeで少年合唱団の動画を観たってだけなんだけども。

小さい頃はわりと何とも思わなかったが年経てから見ると、なるほどたしかに、神聖さを感じる。無垢な子供。特別な環境下で練磨された技術。変声期に失われる声。これを最初に考えたやつはたしかに神のことを思ったのかもしれないが中々に倒錯的なものを感じる。

現実で起きている諸問題や被害云々だとか宗教知識は置いといて、大人が感動するコンテンツとして強い要素がめちゃくちゃに揃っているなと思ったし、無知なる身かつ音楽を聴く環境としてはだいぶ悪い我が家だが実際感動した。

最初に書いた、神聖さ、とは何だろうか。インターネットで調べる。
神聖とは
「尊くて、おかしがたいこと。清らかでけがれがないこと。」
らしい。
清らかとは、けがれとはって疑問も湧いてくるが、とにかくそういったものを容赦なく感じさせうるもの。受け手の文化的背景に依るところも大きいだろうが、少年合唱団に関しては無宗教というなの世界に誇るごった煮宗教国家日本出身の私でも感じたもので、大きく外してはいないだろう。

子供という存在には生物的に庇護欲を掻き立てられる。子猫、子犬、子牛、人の子供に限らず、成熟した生命より強い情愛を感じるように出来ている。それぞれの種が獲得してきた母性と母性をくすぐる仕草と存在感。

ある種の苦行とも言える閉鎖的環境での研鑽、俗世から離れ、ただそれだけを行うある種の機械としての存在。それもまた強く感情を動かされる。

そして喪失。今この瞬間にだけあり、そしていずれ失われるもの。

どれもストーリー性を感じるには十分すぎる要素だ。どれもが強い属性だ。無職になりたてのころに自分には属性がなく、人の目に留まる要素が無いと書いた。まぁ無職もまた属性の一つではあるが凡百のうちの一人に過ぎない。noteでもTwitterでもFacebookでも人は自分がどんな人でどんな属性を持っているかを丁寧に書いている。ブランディングとも言う。大切なことだと思う。

脳科学者ではない人が脳とはこう出来ているなんて話をしていたとしても話半分で見聞きするだろう。というか半分聞いてたら偉い、普通は妄想垂れ流しの空想家扱いだ。正しい。そうやって実績と属性を付与してきて人間の歴史は積み重なってきた。

神聖さも究極的にはまた同じようにこれまでに積み重ねてきた歴史が具現化したものだ。そこに実際の神聖が存在しなくとも「神聖さ」があれば良い。その強い具現化例が少年合唱団なのだろう、それはもはや真性であり神聖だ。神も清らかなるものも人間が人間に理解できる形でこの世の中に表現したものだと考えれば、つまりはそれこそが神聖なのかもしれない。そんなことを考えながらちょっとしばらくハマりそうだなーと美しい合唱に耳を傾けるのであった。

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