ジョーカー・フォリア・ドゥは最高で最低な作品である
本文は日記のようなものであり、ただ映画を観て感じたことを書きなぐっただけの駄文である。映画の評論ではないため、作品の良し悪しや考察を読みたい方はブラウザバックしていただきたい。
2024/11/4
昨夜、ジョーカー・フォリア・ドゥをレイトショーで観た。様々な意味で衝撃を受けた作品であるため、新鮮なうちに感想を書き残しておこうと思う。
この映画の詳細情報が出てきた夏ごろ、私は正直観に行く気はまったくなかった。ハーレイクイン役にレディー・ガがを起用すると知ったときは絶対に(大衆狙いの)駄作になるに決まっていると思っていたのだ。そんな私が観ることにした理由は、先に鑑賞した人たちの感想やクエンティン・タランティーノの評価を聞き、「おや、もしかするとただのウケ狙いの映画ではないのかも?」と思い、半分怖いもの見たさの気持ちもありつつ観に行くことにした。それでも映画館に向かうまでの道中では、「もしかしたら、チケット代の1500円が無駄になるかもな」と考えていた。
結論としてこの映画は100点満点中、10,000,000点であり、ー10,000,000点の映画である。(あくまで私の中で)
ジョーカー・フォリア・ドゥは評価が分かれているが、観る人を選ぶ映画なのは間違いないと思う。この映画は、刺さる人にはぶっ刺さりまくる映画であり(特に映像作品や小説、漫画などフィクションに影響されやすい人ほど、効果抜群である)実際、私は鑑賞中胸のど真ん中を杭で打ち抜かれているような気分であった。もう、しばらく観たくないが、観にいってよかったと心の底から思う。逆に、現実とフィクションを切り離して考えられる現実的な人や、これまでの人生に何の挫折もないストレスフリーな生活を送る、人生勝ち組の人達にはとんだ駄作に思えるだろう。ちなみに、実際観にいった劇場では、鑑賞中に泣いていた観客がいたのか、エンドロールで鼻を啜る音も聞こえた。
この映画の魅力はここに既に表れていると思う。観る人によって評価が真っ二つに分かれる映画は、昨今では珍しい。大作は、おおむねほとんどの人が良作以上と評価するし、逆も然りである。
本映画のような作品は、人によっては一生忘れられない作品となる。ここまで読んで興味が出てきたのなら、ぜひ映画館で観てほしい。あまり人気がないので、公開期間は短いだろうから、早めに行くことをお勧めする。
以下、ネタバレありの感想
前作の「ジョーカー」にて5人(母親を入れれば6人)を殺したジョーカーはラストで、信者に囲まれて嬉しそうに笑い踊って、まるで勝者のようなふるまいをして終わる。それが本作の冒頭では、ジョーカーとしての狂気はなりを潜め、やつれた様子で囚人生活を送っているアーサーが映し出されるのである。「ジョーカー」では劇中の信者以上に、現実世界でのファンを熱狂させた男とは思えない生活を送ってる場面から始まることが、この映画の結論をほとんど示している。
本作のアーサーとリーは、「妄想に生き現実逃避をしなければ生きていけない哀れな人間」と「邪悪な虚像を祀り上げて、崇拝する自分に酔いしれる自分勝手な人間」である。どれほどかっこよく見せようとも、理由をつけようとも、アーサーは法に触れた犯罪者と変わらず、悪のカリスマなどではない。そもそも彼をジョーカーとして伝説にしてしまったのはリーを含めた信者たちであり、アーサー自身はカッとなって人を殺しただけの、よくある殺人事件の加害者である。こうした現実はアーサーにとっては目をそらしたいものであり、リーの言葉に惑わされてどんどん理想の自分(=ジョーカー)に成ろうとする。しかし、元同僚のゲイリーからの失望の言葉や、自分に良くしてくれた囚人の死を経て、繊細で心優しき平凡なアーサーに戻るのである。彼は序盤の弁護士の言葉通り、ただの精神疾患患者であり、人々を震え上がらせるサイコキラーでも、悪のカリスマでもなかった。しかし、アーサーは本当の自分を見てくれる人々からの救いの手を自ら払いのけた結果、虚像であるジョーカーを演じきれなくなり、最後にはイカれた囚人に刺され誰にも看取られずに哀れな末路を迎えたのである。
前述した人生の勝ち組の人々にとってみれば、アーサーという男は哀れで惨めな男であり、本作はそんなアーサーとメンヘラ女リーが意味不明なミュージカルを繰り広げる滑稽な映画に映るだろう。しかし、私はミュージカル(=妄想)に逃げるアーサーの気持ちが分かるため全く笑えなかった。日常の様々な場面で上手くいかないとき、理不尽を感じた時、自分は映画の主人公であり、周りはそんな私を理解できない常識に縛られた傍観者たちだと、妄想に逃げ込むことがあるからである。アーサーが裁判所で痛々しい妄想を見るほど、それを異常だと言われている場面を見るほど、自分と重ねてしまい目を何度も覆いたくなった。誰だって自分は特別だと思いたい。人生は自分を中心に回り、私は他者とは一味違う存在なのだと思うことで自分を守ることは、よくあることだと思う。または、リーのように偶像に自分の欲望を投影し、「よく言ってくれた!!世の中は腐っているんだ!!同感!!あなたは私のヒーローよ!!」と叫びながら自己陶酔におちいる人間だってたくさんいる。しかし、この映画はこうした現実逃避を批判したいわけではない。たびたび挟まれるミュージカルでは、二人とも至福の表情で歌っているし、陰鬱な雰囲気の本作で唯一温かみのある場面である。また、アーサーはリーに会う前は今にも倒れそうなほど、弱っていた。あの拘置所内の過酷な状況下では、誰でも現実逃避もしたくなるし、誰もそれを否定できない。
だが、逃避とはあくまで一時的なものであり、「目が覚めた時に現実を受け入れるため」の休憩時間でなければならない。
アーサーがあのような結末を迎えた理由は紛れもない、逃避を重ねた結果現実を見ることを辞め、自分自身を見失ってしまったからだ。それは、リーにも同じことが言える。最後にはアーサーは本当の自分を思い出し、ジョーカーではないと悟るが、何もかも遅すぎたのである。
現実逃避したっていいさ 虚像に夢見てもいい でもどこかで線引きしような!!!
本作を限りなくポジティブに受け止めるならばこの通りなのである。
無論、ジョーカーと皆が崇めたカリスマのイメージをぶち壊す意図もあったとは思うが、それだけならあそこまでアーサーを丁寧に描かないだろう。(というか、そう思いたい)
裁判中にゲイリーの供述である「君だけが僕を笑わないでいてくれた、君が一番優しかった」はアーサーの人間らしい面を強調していたように思う。つまり、人殺しをせずに道を踏み外さなければ、彼を真の意味で評価してくれる人物は存在していたのであり、アーサーが求め続けた「自分を本当の意味で愛してくれる人」に巡り合えたかもしれない。幼少期に虐待を受けようが、職場でいじめられようが、社会から見捨てられようが、その可能性は存在したのである。それをアーサーは自分自身で潰してしまったのだ。
本作の評価の分かれ目は、アーサーの心の弱さに共感できるか否かであると思う。面白いのは、リー側の人間(ジョーカー信者)にはこの映画は点数をつける価値もない駄作であるという点だ。しかも、そういう方々は自身が信者であることにすら気づいていない。(または否定したい)そもそも娯楽としての映画を求めている人にも向いていないだろう。あまり考えなくても手軽に楽しめる勧善懲悪もののアクション映画を好む人は、本作は退屈に違いない。ジョーカー・フォリア・ドゥは創作に感化されやすく現実逃避しがちな人たちが、ふとしたときに自分を見つめなおすための作品であると私は思考えている。生きづらい世の中だとか周りが理解してくれないなとか、自分の中で言い訳めいたものを感じた時にこの映画を思い出して、調子に乗らないようにしたいと思う。
内容さえ飲み込めれば、映画としてはよくできている
内容についてはここまでとして、単純に本作は映画の作りが上手いと感じた。「ジョーカー」ではあくまでアーサー視点であったことから、実は彼には解っていなかった事柄がたくさんあることを、裁判中に淡々と語られていく。例えば、アーサーの母親ペニー・フレックである。前作では、彼女は少し同情できるような存在として描かれていた。しかし、今作で語られる情報からは、自身の介護をしてくれている息子は頭がおかしいと(自分のことは差しおいて)隣人にたれ流したり、ハッピーと呼ぶ理由が自殺させないために適当につけたあだ名だったりと、精神的虐待まがいのことを行っていることが明かされる。ここで、アーサーの境遇がより具体的に他人から語られることで、彼自身が思っているよりも地獄のような人生を送ってきたことが観客側に伝わるようになっている。
しかし、劇中のアーサーはこんな人生「だから」と言い訳もせず、むしろリーに出会えたことに幸福を見出していたことから(自分の理解者だと勘違いしていたため)、彼はひたすら理解者を求めていただけの純粋な人間であったことが前作よりも強調されている。
他にも、最後にリーに会いに行った時のあの階段は「ジョーカー」にて彼が踊りながら下っていた階段であり、アーサー→ジョーカーへの堕落の象徴であったことから、リーに会うために登る彼はもはやジョーカーではなく、一人の男として会いに行っていることを示していたり、、、、最後に彼を刺すサイコパスが実はちょくちょくカメラに抜かれていたことからちゃんと伏線は張られていたり、、、などかなり丁寧に作られた作品であったと感じる。
また、やはりホアキン・フェニックスの演技が素晴らしいの一言に尽きる。彼以外にアーサー・フレックは演じられないと断言できるほどのハマリ役であった。(毎回煙草を吸うシーンがかっこよすぎてズルい)
*以下は超個人的なこうだったらいいな~の妄想である(あれほど現実を忘れるなと言っておきながら(笑))
ダークナイトとの繋がりについて
私はバットマンシリーズに関してはクリストファー・ノーラン監督のダークナイトトリロジーしか鑑賞していない。2008公開の「ダークナイト」にてヒースレジャー演じるジョーカーが世界的な支持を受けたことから、よく本作のジョーカーと比較されることは多い。どちらも物語におけるポジションが全く異なる存在であるため、この場で二人のジョーカーを並べて語るつもりはない。しかし、ホアキン・フェニックス本人も公言する通り、本作のジョーカー像はダークナイトのジョーカーをかなり意識して作られている。髪型やピエロのメイクが似ていることや、前作「ジョーカー」にて信者たちが使っていたピエロの面は、ダークナイトにてジョーカーの手下たちが
していたお面とよく似ていたことから読み取れる。また、作品自体もダークナイトトリロジーを意識していたように感じる。例えば、ジョーカー2にて裁判所が爆破されるシーンは、司法の否定という民衆の遵法精神が崩壊していっている兆候であり、ダークナイトライジングにも似たような概念が登場する。
しかし、両者はあくまで別の世界軸の話であり、そもそも「ジョーカー」にとってバットマンの世界観は単なる舞台装置に過ぎず、バットマンの存在自体もぼかされていると考えてきたが、、、、
(ヒース・レジャーとホアキン・フェニックス演じるジョーカーが同一世界軸における赤の他人であった場合)「ジョーカー」と「ダークナイト」は繋がっていると解釈することもできる
そもそも、「ジョーカー」で語られる事柄はすべてダークナイトの設定を邪魔していない。ホアキンジョーカーが起こした騒動に感化された、またはあのジョーカー騒動をまねてバットマンに挑もうとしたヒースジョーカーと解釈すれば、繋がっているともとれる。ハービーデントの敏腕の検事ぶりも、数十年たてばダークナイトに登場する皆に支持される著名な検事になっているかもと想像できる。(ただし、年齢が合わないようにも感じるが)
あくまで全て妄想であるが、本作はこんな世界にヒーローがいてくれたらと願いたくもなるような終末世界が丁寧に描かれている。仮にこのあとダークナイトに続くのであれば、少しは希望が見えてくるため、祈りにも似た感情でもって本説を推していきたい。
さて、夜も更けて朝が来てしまった。ここらで夢の時間は終わりにして、何の輝きもミュージカルもない、平凡な現実へと戻っていくことにしよう。
*追記 (より妄想成分が強いのお気をつけて)
なぜジョーカーだったのか
本作に対しての様々な感想を読む中で、この映画はジョーカーである必要が無いとの意見が散見された。確かにそのとおりである。なんならタイトル名も「アーサー」にするべきだとの意見にも頷ける。監督にとってはジョーカーという稀代の悪人のイメージが好都合だったのだと思う。悪のカリスマを一から作るより、ジョーカーと明示しておけば、観客は歴代の悪人ジョーカーを説明無しに連想してくれる。恐らく、本シリーズは、人々の悪への期待を盛大に裏切り、コケにするための映画でもあり、アーサーが被る役は「ハンニバルレクター」でも「ジャックザリッパー」良かったと思われる。とにかく、一言で”悪”を説明できる舞台が必要だったのだ。ただ、それがなぜジョーカーなのか、そしてシリーズ通してなぜちゃんとバットマンシリーズの登場人物が出てくるのか。ただの舞台装置ならば、ジョーカーの名前だけを借りて、他は存在だけ匂わせておけばいいのに、「ジョーカー」ではブルース・ウェインにトーマスウェイン、「ジョーカー・フォリア・ドゥ」ではハービーデントががっつり絡んでくる。
実は私は「ジョーカー」を鑑賞する前から、ダークナイトトリロジーの大ファンであり、クリスチャン・ベイル演じるブルースが大好きであった。彼こそが真のヒーローであり、人類にとっての希望だと考えていた。(もちろんヒース演じるジョーカーも大好きであった)しかし、「ジョーカー」を観終わった後、真っ先に感じたのは、ブルースにはアーサーのような人々を救えるのだろうかという事だった。悪のカリスマは倒せても、アーサーのような弱い人間を救うことが出来るのだろうかと。
監督はもしかするとこんな意図もあったのかもしれない。つまり「バットマンよ、アーサーを救えるのか?この掃きだめのような世の中を変えられるのか?」という挑戦状のようなものが。
ダークナイトのジョーカーがカオスの使者であるならば、バットマンはカオスに対抗するための希望であり、より善き未来を信じる人間の進化形態である。
ならば、「ジョーカー」シリーズにおいて「こんな世界でもブルース・ウェインが存在してくれる」という事は、理不尽が積み重なり合うこの世界においてたった一つの希望であるように感じる。
つまり、ブルース・ウェインの存在こそが本作の唯一の救いとなっている、、、ような気がしている。
クエンティン・タランティーノは本作の評論のなかで、「ドット・フィリップスこそがジョーカーだ」と言っているが、
確かに、ダークナイトのジョーカーもバットマンに様々な苦難を押し付け「お前はどこまで救えるのか」と問い続けていたように感じる。(そもそもタランティーノがそういう意味で言ったかは微妙であるが)
これ以上は、深読みのし過ぎでそれこそ妄想過多になってしまうため、ここらで終わりにしたいと思う。
しかし、本作をみてアーサーを取り巻く環境と理不尽な現実世界をリンクしてしまい、絶望を抱いた人たちに言いたい。「心にバットマンを持て」と。救いようのない現実であっても、弱い私達でも、希望を捨てずに生きていこうと。まさしく、カオス(本作)を私たちに見せつけて絶望させようとしたドットフィリップス監督に、それでも私たちは、人々は、善き道を選ぼうと模索していくんだ、と言ってやろう。