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魂 (短編小説)

 日常の何もかもが無聊だった。


 金曜日の夜、元也は七時に会社を出るとそのままアパートに帰る気にはなれず街中を歩き出した。華金だというのに何の予定もない。週末に会うような恋人も居ない。


 途中、コンビニで缶酎ハイにつまみ、そして煙草とお決まりの三点セットを購うと一瞬の人工的な涼しさも束の間、また温くじめじめした夜道を歩き出した。


 向かった先は、会社から少し離れた大きな公園。都会の中に介在する大きな森のような空間。


 大学を中退した元也は、しばらくフラフラした後、代議士の秘書を三年一寸勤めてから、今の印刷会社に転職した。


 営業の途中にこの公園で一休みすることもしょっちゅうだった。今の会社はそう悪くない。


 元々、知人からの紹介で入った議員事務所に比べれば尚更だ。あの頃と違って土日は休めるし、労働基準法なぞ無視された就労時間もない。


 ただ、これで良いのだろうかという迷いだけが反芻していた。未来が見えないのは、今の会社でも秘書をやっていたときも同じだった。


 しかし、議員事務所に勤め始めた起因には「志」というそれなりに崇高なものがあったのに対し、今の会社にはそれがない。労働環境とは裏腹に皮肉なものだ。


 ただ何となく受けて何となく受かって、何となく働いているだけ。体力的にはそうきつくはないが、いつも何かに疲れている。この先の人生に一体何があるというのだろう。


 考えながら歩いていると公園のとば口に着いた。

 そのまま奥へと進んで行く。

 真昼と夜気では、この場所の表情は大きく変わる。

 日差しの下での賑々しさとは違って、月明かりと終夜灯だけの人通りのない夜闇の中では、幽霊でも出そうな雰囲気すらあった。


 そういえば当夜は綺麗な満月が妙に距離が近く、珍しい夜だった。


 適当にベンチに腰掛けると早速白いビニール袋を弄り、缶酎ハイのプルトップを親指で真上に立てた。


 この夏、二十八歳になったばかりだというのに、公園で酒なんぞ飲んでて良いのだろうかと首を傾げる情況とは裏腹に、心地良い音だった。


 一口目がたまらない。


 程良い炭酸は元也の咽喉を鳴らしながら潤していく。この爽快感がさっきまでの考え事も吹き飛ばしてくれた。次につまみのチーズを取り出すと、突然聞こえもしないはずの声が耳に届いた。


「おーい」


 咄嗟に振り返ると、少し離れた巨樹の下でホームレスが三人坐っていた。その中の一人が立ち上がって手を振っている。


「おーい、兄ちゃん、こっちで一緒に飲もうや」


 歴としたホームレスの形貌を見て、元也は失礼ながらこの季節にその醜悪さで臭いは大丈夫なのだろうかと頭を過った。


「おーい、兄ちゃーん」


(えー、何で誘うんだよ)そう思った元也は叫声で応えた。


「大丈夫でーす。遠慮しておきまーす」


「そんなこと云わないでさあ、こっちで飲もうよ」


「いや、今日は一人で飲みたい気分なんですよ」
 何かたかられるのではないかと思った元也は固辞した。


「そんなあ、寂しいじゃんかよお。俺たち人と話したいんだよお」


「そんなこと云われても」


「一寸で良いからさあ。十分だけ、お願い」


 これ以上しつこく誘われるのも癪なので、十分だけならと重い腰を上げた元也は鞄とコンビニ袋を手にし、恐る恐る彼らに近付いた。まず初めの関門、臭いが心配だったが、それほど気になるものではなかった。


「いやあ、悪いねえ。ありがとう、ありがとう」


 手を振っていたおっちゃんを間近で見ると、伸びっぱなしの白髭に伸びっぱなしの白髪、色黒の肌には皺が深く刻まれていた。

 元也はその人の隣に腰掛けると、飲み掛けの缶酎ハイをまた一口飲んだ。ホームレスが三人、まるで花見でもするようにシートの上で酒宴を張っている。

 一升瓶、一合瓶、ワンカップとそれぞれの前に置かれているのは主に日本酒で、どうやって仕入れたのか、さきいかや薫製、ピーナッツなどが肴だった。


「ま、食べて、食べて」


 そう勧められるも逆に自分が買って来たつまみを取り出して、元也の方が三人に勧めた。


「俺、久住ってんだ。宜しくな」


 先刻の老人が挨拶をした。具体的な年齢は定かではないが、久住は元帝國軍人だと名乗った。


 本当なのだろうか。元也はにわかに信じ難く、嗄れた声の主を覗き込むように見た。


「いやあ、こんなところでこんな生活してるとさ、若い人っていうか、そっち側の人間と話したくなるのよ。特に今日みたいな満月の夜はさ」

「そっち側」


「そう、社会でまともに生活している側」


「は、はあ」 元也は曖昧な相槌を打った。


「兄ちゃんは仕事帰りだな。仕事何してるの」


「普通の会社員です。営業です」


 するともう一人のホームレスが口を挟んだ。
「まあまあ、久住さん、そう詮索ばかりするなって」


「ああ、そうだな。兄ちゃん、悪かった。こいつは柿本ってんだ」


「柿本です。宜しく」


「そんでそっちのが橋爪」


「宜しく」


 柿本は五十代、橋爪は四十代だと元也は予想した。
 無論根拠などなく、ただ何とは無しにそう思っただけだ。

 久住の紹介によれば柿本は元官僚で、橋爪は元県議会議員だと云った。

 さすがにこれはすぐに嘘だろうと思った。橋爪がどこの県議だったのかは聞かなかったが、ならばなぜこの東京都心に居るのか、そんな人たちがそもそもホームレスとなってここに居ることなど考えられない。


 どうしてそんな虚言を吐くのか元也には解せなかった。


「お兄さんはまだ若いね。いくつ」
 ホームレスにしてはどこか品のある柿本が尋ねた。


「二十八になりました」 元也は云うと煙草に火を付けた。


「良かったら皆さんもどうぞ」


「おー、いっつもシケモクばっかりだったからありがてえ」


 久住の声に、本当にシケモクを吸う人が居るのだと元也は心のうちで喫驚したが面貌には出さなかった。

 煙が肺に心地良い。酒とこの煙の美味さだけはセットとして止められない。


「二十八かあ。俺が市議会議員を志したのもその辺りだったなあ」
 橋爪は遠くを見つめながら呟いた。


 元也は一応その嘘に乗っかることにした。
「市議から県議になったのですか」


「そう、三十手前から準備始めて、市議を二期やった後に県議。人口十三万の自治体だったけどさ、それなりにやりがいはあったよ。もっとも俺なんか議会で浮いている方だったけどね」


「どうしてです」


「國家観から政治に入ったからさ。地方自治法九十九条に則って憲法改正、拉致被害者の救出に尽力するように市議会から國に提言するべきだって、そういう取り組みばっかりしてたんだ。まあ、残念ながら議会の承認は得られなかったけど」


 地方自治法九十九条は地方議会から國に対して意見を提出することだ。元也も秘書時代に知り、他人事ではなかった。


「俺が居た保守系の会派は賛成を示す人が多かったけど、本気でやろうって気概もそこまで感じなかったね。革新系の政党とか極左政党はもちろん論外」


 元也は拳を固く握り締めた。橋爪のやろうとしていたことは、何よりも元也自身が秘書時代に、代議士にも地元市議にもさんざ提案して来て、蹉跌していたことだった。

 同じように戦っていた人が矢っ張り全國には居たのだと思った。無論、この橋爪の元議員という言辞が本当ならば、の話ではあったが。

 橋爪はその後、県議を一期勤務めた後に國政に打って出たが落選したそうだ。そこから落ちぶれてしまったのだろうか。


「全く今の政治はなっちゃいねえな。俺たちがどうして國の為に命は張ったのか。俺の同胞がどんな想いで散っていったのか、今の政治家はまるで解っちゃいねえよ」


 久住が嘆いた。


 この奇妙な邂逅の中で酒を啜っていると元也の中で何か政治の世界に忘れて残して来た想いを蘇らせるような感覚が湧いて来た。

 久住は米國占領下にあった時代の話をし出し、それは妙に信憑性があったが、令和へと改元を迎えたこの時代にまだ生き残りの兵士がこうして矍鑠として居られるというのは時系列的にどうなのかを元也は考えていた。


 令和元年。終戦から七十四年も経っている。
 それを考えると、久住はどう考えても歳の割りに若く見える。具体的な年齢を聞くべきだろうか。

 或いは、恐らく戦時中はまだ十歳前後で、軍人への憧れを抱いていた少年だったのではないかと元也は勘ぐった。

 それでもどうも含蓄のある話であることには違いない。その心情の機微は何とはなしに分かる気がした。

 きっと久住自身の持っていた、いや今も持つ「志」がそうさせるのだろう。


 柿本は省内で起こったある問題を契機に組織に楯突いて、退職したらしい。事実上の馘首だったようだ。


 あまり触れてはいけない気がしたので、元也は詳しくは聞かなかったが、官僚だったのは本当かもしれないと思った。理由はなかったが直感でそう思った。

 もしかしたら、柿本の年齢的にも、國士だったあの政治家を失墜させた事件の––––と思ったりもしたが、矢張り安易な質問は元也には出来なかった。


 ホームレスである三人のことをどれもこれも詳しく詮索すべきではないという、そういった類の遠慮が元也を食い止めていた。


 いつの間にか、その場に居た全員がどことなく押し黙っていた。元也も次の会話を見出せずに酒と煙草を交互に口へ運んだ。沈黙を打開したのは久住だった。


「なあ、兄ちゃん、時代や歴史を造る人間ってのはどんな人間かね」


 久住に訊かれて元也はしばらく黙考した。やがて沸々と体躯の底から湧き上がって来る思いと同時にある光景が思い浮かんだ。


 地元代議士の秘書になってすぐの平成二十五年。その夏の参院選の投開票日にテレビの前に坐る自分の姿––––。


 画面の中では、与党の当選者が口を揃えて票と直結する経済を語っていた。

 その中で、たった一人、「憲法を変えること」と云い切った政治家がいた。

 それは元也が関わった与党第一党の当選者ではなく、都知事の職を辞して新しく立ち上げた保守政党の代表、最高顧問を務めた大人物だった。


 あの時、画面に映っていたであろう野党の人間はもちろん、元也は自分が汗を掻いたはずの与党第一党の候補者たちを誰一人として思い出せない。

 印象に残っているのは、その保守政治家の表象とも云える人物ただ一人だけだ。


 あの瞬間、元也は自分が選んだ政党、付いて行く政治家を間違えたのかもしれないという思いを抱いた。
 爾来、どこかでその思いを拭いきれずに居た。保守系の国会議員経験者たちで作り上げられたその政党は時代とともに消滅したが、その心意気は今もさまざまな人間の心のうちで生き続けている。


 同時にその人物が現役の都知事だった時代に元也自身も親しかった国士たる都議会議員が思い浮かんだ。
 知事が靖國神社に参拝する時に必ずその二人の画があった。
 東京から日本を取り戻すという気概を持ったその二人の姿こそ、強い東京都の表象だった。


 そんな元也が与党で秘書をやり続けて良かったと思えたのは、平成二十八年の参院選で、支持する国士が全国比例で当選したからだった。
 献金も、支持団体も付けずに圧倒的な支持を得て、党内で苦心しながらも国益の為に獅子奮迅の活躍をする姿に励まされた。


 つまり、政治姿勢は違うが、その三人のような政治家の勇姿を自分が語り続け、行動指針とすることで、連続性が生まれる。
 これこそが、時代の継承であり、新たな時代、新たな歴史の創造ではないだろうか。
 時代を造って行く人物は、保身や出世を目的に綺麗に政治家をやっている人間ではない。


 と、元也が熱心に話していると、三人は何かを含意したように頷いていた。


「じゃあ兄ちゃん、令和はどんな時代になるんだろうな」
 久住はもう一度尋ねた。


 元也は何と答えるべきなのか考えたが、迷いはなかった。
「いつの時代も陛下の御心、英霊の皆様の想いに沿って生きて行きたいと、僕はそう考えています」

「ほう、そりゃそうだ」 久住は髭を撫でながら頷いた。


「何より護らなくてはならないのは父系男子による皇統です。そして憲法をとにかく変えること、拉致被害者を救出すること、英霊の皆様の名誉を回復すること。この根幹を正さなければ、外交も内政も何をやっても上手くいかないような気がします。そして、先人たちが護り抜いて来た國土、領土、領海、領空をこれからも護り抜く––––」


 すると唐突に泣き喚く声がした。

「そうだ、俺は––––俺は––––まだ終わってない、終わってない」
 柿本がつとに連呼し出した。


「––––くっそう、俺だって」
 橋爪は拳を自分の太腿に叩き付けた。


 その光景を久住は目を細め髭を撫でながら眺めていた。


「それにしても兄ちゃん、若いのにしっかりした考えだなあ」


 久住のその声で、もう夜深になっていることに気が付いた元也は時間の流れが妙に早いと感じた。
 そろそろ帰ると告げて、残りのつまみと未封の缶酎ハイは三人に差し上げることにして立ち上がった。


「兄ちゃん、また来いよ。俺たちはいつでもこの場所で待ってるからよ」


 久住はひょいと敬礼の形を作った。その軽い所作の中に、本物の敬礼の形が見えた気がした。柿本も橋爪もすっきりした顔で元也を眺めていた。


「はい。楽しかったです。また」
 元也は踵を返し、夜の公園を抜けて行った。


     *


「楽しかったってよ。良い奴でしたね」
 元也の居なくなった座敷の上で柿本が云った。

「ああいう若者がこれからの日本を作って行くんでしょうな」
 橋爪は呟いた。


 久住は黙って酒を呷っていた。


     *


 突然の非日常に面食らいながら、元也は帰り道でさっきまでの出来事を反芻していた。

 人生とは何であろう。生きるとは何であろう。三人から聞いた話を回想しながら、アパートに帰宅した後はひたすら眠った。眠っている間も三人の声が脳内に反響していた。


 頻りに寝返りを打ったのはその為だったのかもしれない。


 週が明けて出勤し、また一週間が経った。
 その間元也は公園には行かなかったものの、仕事の最中に先刻の夜のことを思い出しては、この炎天下で公園で暮らすのも大変だろうなと例の三人を思い浮かべていた。夜闇で何気なく月を見上げたりするとあの満月を思い出したりもした。


 再び訪れた金曜日。

 仕事を終えたらまた公園に行ってみようと、元也は決めていた。今度は久住の年齢も聞いて、軍人だったという真偽を確かめようと思った。


 この間よりも少し多めに酒とつまみを買い込んでパンパンになったビニール袋を持ち、酒を搔っ食らう三人を思い浮かべながら、再び大きな樹木を目指した。


 最初に声を掛けられた時は面倒だと思っていたのになぜだろう、元也の胸中は少しだけ踊っていた。

 だが、着いてみると所期した場面とは裏腹に、その日三人は居なかった。少し辺りを歩いてもみたが、どこにも姿は見当たらなかった。


「ちっ、何だよ。居ないのかよ」


 肩透かしを食らったような気分になり、ここで一人酒を呷るのも虚しくなった元也は、重いビニール袋を持ったまま帰路に着いた。


 翌週は営業の途中に立ち寄った。元也は三人の姿がないか昼間の公園内をそれとなく探したが、どうもそれらしき人物は一向に見当たらない。


 爾後、意識的に足を運んでみたが、三人に会うことはなかった。

 休日に時間を掛けて探し回ったりもしたが、空転するばかりだった。他のホームレスらしき人たちに三人のことを尋ねてもみたが、誰も知らないという。


 段々とあの夜のあの三人のことが妙に不可解に思えてきた。


 久住の所属部隊を聞いていない以上、調べようもなく、ましてや官僚だったという柿本のことも調べる伝が見当たらない。恐らく元也が以前仕えていた代議士に聞いても数多いるどこの官僚かまでは分からないだろう。


 一縷の望みで「橋爪 県議会議員」とネットで検索してみたが、それらしき情報は何も見つからなかった。


 結句月を跨ぎ、再び満月の夜が訪れた。もしかしたらと思い、その夜元也はもう一度、あの場所へ向かった。向かう足音が鼓動と連動するかのように早くなる。

 例のベンチの前まで来たその時だった––––。


「おーい」


 久住の声が聞こえたような気がした。


 元也は声の聞こえる樹木の方へ振り返ってその姿に瞠目した。歩を進めながら、やっと会えたと思った。この一ヶ月、おっちゃん三人の為に足繁く公園へ通ったことがおかしくなった。しかし、そう思ったのはほんの一瞬だけだった。


 近付けど近付けど、一向に距離が縮まらないのだ。


 はっとして、自分が誰も居ない樹の下に向かっていることに気が付いた。三人の姿は錯覚だったのだろうか。


 いや、確かに具象として捉えられたはずだった。それも冷静に思い返せば、久住は軍服、柿本と橋爪はスーツを着て立っていたように見えた。人違いではないはずだ。


 でも、誰も居ない。誰一人。あんなに賑々しい空間だったのに、何もない。


 ふと、この一ヶ月間、探しながら感じていたことがあった。なぜだかあの宴の景色がどこかぼんやりしているのだ。本当にあの人たちは現世の人間だったのだろうか。本当は仮象だったのではないか。


 三人はもうすでに亡くなっていて、往生の前に何かを確かめに来たか、もしくは新しい時代に生まれ変わる前にこの時代の現状を確かめに来たのではないだろうか。


 そう考えると、名乗っていた名前が本当なのかは分からないが、久住は本当に帝國軍人で、柿本の経歴も、橋爪がどこかの時代でどこかの議員だったことも真実だったと思えるような気がした。

 元也の全身が毛羽立った。

「あぁ、もうすぐ夏が終わる」

 時間が経って、あの時の邂逅の意味が少し分かった気がした。結句、本当のことなんて現世に居る限り誰にも分からない。分からなくて良いのかもしれない。分からないからこそ、分かることもあるのだから。


 元也は買って来たものを袋ごと樹の下に供えて手を合わせた。

「あなた方の悔しさも、苦しさも受け止めて、生きていきます」

 そう心の中で呟いた。


 三人は間違いなくこれまでの歴史を造って来た人物だ。ならば、元也があの夜語った政治家たちと同様、三人もまた、これからの未来を造って行く人物でもあるのだ。

「だって、俺がその志を受け継いだのだから」

 元也はそう改めて語り掛けるように背筋を伸ばした。


 安心して令和の時代に生まれ変われるか確かめに来たのなら、そういう世の中にして行かなければならない。その為に自分に出来ることを元也は再び考えた。

 その土日、元也は以前勤めていた国会議員の地元事務所の前に立っていた。

 通常ならば代議士はこの時間、地元回りの途中に事務所に寄っているはずだった。
 駐車場に停まっている漆黒の送迎車でそれを確認すると、元也は大きく深呼吸した。


 これから代議士に云わなければならないことがある。何を云うべきなのかは分かっている。秘書に戻るつもりで来た訳ではない。

 これからの世の中の為、これから生まれ来る新たな生命の為、云うべきを云い、やるべきことをやらなければならない。

 それを伝えに行くのだ。ここからが新たな時代のとば口だ。


「俺の肩にしっかり掴まっていてください」

 元也は公園の大きな樹を思い浮かべながら心の中で呟くと、一歩踏み出した。事務所の扉を開けると、眩しいほどの光が差し込んだ気がした。

【完】

––––明治節の佳日に発表––––

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