縋り付く病
晴れ晴れとした寒空の下、私は目覚める。
幾度となく繰り返した起床は、私がまだ五里霧中である証左となる。
鳥は鳴き、猫は眠り、時計の針は回る。
私の朝1番にすることは、現在時刻の確認。
2番は、SNSの確認。
3番は、カフェオレの用意。
4番は、カフェオレをゆっくり飲んで体調を整える事。
私のありふれたモーニングルーティンを紹介しつつ、私がいかに自分の為に真面目に生きてこなかったか、思いを馳せる。
他人を助けるのは美談だが、それは余裕があるものがするべきことで、他人の為に私生活をおざなりにしてしまうものがすべきではない事を私は自らの胸に刻まないといけない。
今からする話は与太話で、この与太話を書き終えたら二度とこの与太話をせず、自分を過信せず目に見える能力だけと向き合おうと思う。
人は、幸運と不運の2つを持ち合わせており、幸せな日々を送る人は幸運が多く不運が少なく、不幸せな日々を送る人は幸運が少なく不運を多く持っていると私は考える。
その為、幸せな日々を送る人は、環境に左右されず幸運によって不幸を回避でき、不幸せな日々を送る人は迫り来る不幸を回避できず不幸を重ねる。
そこに通りかかるのが私のような奇運の持ち主。
奇運の持ち主は、幸せな日々を送る人と不幸せな日々を送る人が永続的にその生活を送れないよう、どこからか現れて消えていく。
その現れて消えるまでの間に、幸せな日々を送り続ける人の幸運を揺らがせて今まで何事もなく済んでいた日々に波を立てる。また、不幸せな日々を送り続ける人の不運を揺らがせて、奇運の人が持つ幸運を分け与えて、しばしの安息を与える。
幸せな日々を送り続ける人からすると迷惑な話かもしれんが、不幸せな日々を送り続ける人には吉報と思う。
そして私は、あろうことか不幸せな日々を送り続ける人と関わる事によりその人に安息を与えたらば、その人は私に感謝してより親密な関係性を築けると思っていた。
だが、現実はそう甘くない。
私は、神社の宮司でも禰宜(ねぎ)でもない。
お守りやお札など目に見える形での証拠や指導などの行為があったわけではなく、ただ関わっていただけなので、奇運の持ち主との関わりにより運気が好転したとは夢にも思わず、努力の成果か、周囲の今まで支えてくれた人々への感謝か、何処かの神に感謝をするに止まり、俄かに現れた奇運の持ち主は移り行く日々の景色に埋もれ忘れられる。
そして、「ああ、また忘れられた。」
そうボヤく。
忘れられた私をもう一度思い出して欲しいと歩み寄るが、幸せな日々が流れ出した人々には私は薄気味悪い混沌と思われるようで距離を置かれる。
きっと、距離を置く君の想いは、今ある幸福が誰かに奪われないよう必死なのだろう。
私は、諦める。
私が背を向け、遠のいて行く最中、静かにその幸福にヒビが入り傾いていく不気味な音が聞こえる。
でも振り返らない。
だってあなたはもう私を知らないから。