「やればできる」が生む可能性と、できない自分を引き受けること
先ほど、古賀史健さんのこちらのnoteを読んだ。
読んでいてふっと思い出したのは、昔の知人のことだった。
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その人は、「やればできる」と度々口にしていた。
最初は、「ふーん」と思って聞いていた。
けれどだんだん、「やればできる」といいつつ、特に何もしない様子を見ているうち、「やればできる」って、ちょっと怖いなぁと思うようになった。
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「やればできる」という言葉には、可能性が残っている。
「自分にはできないんだ」という現実に、向き合わなくてもいいような感じがしてしまう。そう思ってしまうのは、私が少しひねくれているからかもしれないけれど。
「自分にはできない」という現実と向き合うのは、つらいし、しんどい。
私はどうしても、うっとなって、ううーと唸ってしまう。
それでも、そこと向き合って、できない自分を直視しつつ、拾い上げながら進んでいくことしか、私にはできない。そうすることでしか、何かができるようになったりしないと思っているし、実際できなかった。
そんなことを考えていると、語られている文脈は異なるけれど、たらればさんが書かれたこの記事を思い出す。
読み返すたびに、ううーとなるけど、でもやっぱり「そうだよなぁ」と思う。
できない自分を引き受けつつ、試行錯誤しながらやっていくことでしか、できるようにはならないから。
そうすることでしか、自分のできることは増えないし、自分の世界も広がっていかないから。
だから私は、今日もできることからやっていくのかもしれない。時々、「今はできるかわからないけど、やってみたいこと」に少しずつ挑戦しつつ。
未来に可能性を残しておくよりも、何回かやってみて、できなかったらまたできるようになるまでやればいいし、そこまでやりたくなければやらなければいいのだから。
そしてきっと、「やろうと思わなくてもやってしまうこと」が残っていく気がする。思わずやってしまうこと。誰に頼まれなくとも、誰からも求められなくても、ずーっとやってしまうことが。
それこそが、自分の長所になりえるのではないかと、思うんだ。