あの頃、私が受け取っていたものは
読書感想文というものを、まともに書けたためしがない。
いや、本を読んだ感想は書く。noteに書くこともあれば、Twitterに書いていることもある。
けれど、それらはなんというか、「読書感想文」と呼んでいいのかよくわからないのだ。そもそも「読書感想文」の定義がよくわかってないし。
と、いうような状況なのですが。
どうやら、作家の岸田奈美さんが「キナリ読書フェス」という、みんなで本を読んで読書感想文を書く、というフェスを開催するらしいと聞き。
よし、それならばいっちょ書くか、と思って、ひとまず課題図書を読んでみた。
それが、こちら。近内悠太さんの『世界は贈与でできている』。
なんというか、目から鱗の本だった。
今まで漠然とよくわかっていなかったものが、いきなり立体的に、目の前に立ちあられたような感じ。
「そうだったのか…!!!!!」と。
本書で印象的だった箇所は多い。付箋を貼ったら、こんな感じになった↓。
本文中にも、心に残った箇所はあちらこちらにある。
が、その中で一番私の心の奥にぐっさり刺さったのは、実は本文ではない。
あとがきである。
◇
本文もとても素晴らしいのだが、私にとって最も印象的だった文章が、こちら。
「今、いろいろ文章を書いてみているんです。でも、文章を書くと、ああ、自分はからっぽなんだなって思い知らされるんです」
僕は思わず加藤さんにそう漏らしました。
そんな僕の取るに足らない愚痴に、加藤さんはこうおっしゃいました。
「文章を書いて、自分がからっぽだ、って思わなかったら嘘だよ」
「自分はからっぽ」ということは、今自分が手にしているものは一つ残らず誰からかもらったものだ、ということです。他者からの贈与が、自分の中に蓄積されていったということです。
特に後半の、
「自分はからっぽ」ということは、今自分が手にしているものは一つ残らず誰からかもらったものだ、ということです。
というくだりが、ぐっさり刺さった。
なぜ刺さったのかといえば、文章を書いて、「自分はからっぽだ」と痛感した覚えがあるからだった。
「自分はからっぽだ」と痛感した、卒業論文のこと
この話の流れにうまく合致するかがはてしなく謎だが、大学を卒業する際、どうにかギリギリで卒業論文を書いた。
結果的にはどうにかこうにか書いたけれど、当時はあまりにも書けなくて、その書けなさ具合に、愕然としていた。
あまりにも、「自分の言葉」が出てこなかったからだ。
なんというか、うまく説明できないのだが、書いている言葉が、「自分の言葉」ではない、と当時は痛いくらいに感じていた。借り物の言葉というか、自分の中でうまく咀嚼できないまま、言葉を使っているような感じ。
今回引用させていただいた文章とは、話の流れが異なるとは思うのだが、上記のエピソードを読んだとき、一番に思い浮かんだのが学生時代の卒業論文のことだった。
卒業論文を書こうとして、どんどん引用文献だらけになっていって。自分で書いていても、それでいいのかどうのなのかまるでわからず、少しずつ少しずつ組み立てて、どうにかこうにか書ききった。
あの頃、全然書けなくて困りきっていたけれど。
今思うと、たしかに私は、贈与を受け取っていたのだ、とは思うのだ。
それまでにさまざまな研究を重ねて論文を書いて発表して書籍を出してきた数多の研究者の方々から、先生から、先輩から。
「論文」というかたちで。「書籍」というかたちで。
先行研究がなければ、私は卒業論文が書けなかった。
私は、世界から、贈与を受け取っていたのだ。
今この瞬間まで、そうとは気が付かないまま。
◇
きっと今も、私は世界から贈与を受け取っている。
次は、贈与の差出人になれるだろうか。どうか、なれるといい。
そうして差し出したものが、どうか、いつか届くといいな。