『アステロイド・シティ』所感――遺された者が生きるために
↓ここから下は未鑑賞の方もあんしんしてお読みいただけます。
アメリカの砂漠にポツンと位置する田舎街、アステロイドシティ。
天才科学少年少女を賞する「小惑星の日」で起こるドタバタ珍騒動!?
とてもたのしいコメディ映画でした。今や映写っている映画館も少ないですが、(記事投稿当時)ぜひ劇場で観るとよいです。ある意味観客がいることで完結する作品であります。
↓ここから下は鑑賞済の方向けの内容です。ちょっとネタバレもあるから気をつけてください。
加えて、あくまで個人の考察めいた所感です。なんか賢しげに書いてるけど、この解釈が「正しい」かどうかはいささか自信がありません。真理は舞台の子どもたちとジューン先生がめちゃ良かったことくらいです。
所感の前に――構造理解
まずアレコレ書く前に、本作は4つの世界が噛み合った入れ子構造であることを確認します。
内訳は以下の通り。
舞台『アステロイドシティ』
劇中劇「コメディ」(仮題、練習のみ)
「ドキュメンタリー」
「ドキュメンタリー」舞台裏
舞台と劇中劇、「ドキュメンタリー」と舞台裏はそれぞれ同一の世界上で展開していますが、「ドキュメンタリー」の内容が「舞台」に影響したり、舞台の内容が「ドキュメンタリー」に影響しうる点に注意してください。(特に終盤「第三幕 休みなくせわしなく~」に顕著)
最後の猶予期間
では主人公の戦場カメラマン、オーギー・スティーンベック
そしてオーギーを演じる役者ジョーンズ・ホールにスポットを当ててストーリーを振り返りましょう。
舞台開始時、オーギーは息子のウッドロウを「小惑星の日」イベントへ連れていき、子どもたちを義父のスタンリーに託そうとしました。
なぜそうする必要があったのか?それは子どもたちの母、すなわちオーギーの愛した妻が亡くなってしまったからです。戦場カメラマンであり、常に死と隣り合わせにあるオーギーは子どもたちの生活を任せるに足る人物に託すほかなかったのです。
そして、オーギーは最愛の妻を失ったこと(と長きに渡る封鎖)により、自暴自棄になりつつありました。それが顕著に表れているシーンは、劇中劇の練習に付き合わされるシーンでセーフライト(カメラフィルムの感光を防ぐ赤電球)を割り、電熱線で自らの手を焼くシーンでしょう。セーフライトがなければフィルムの現像が行えず、手が焼けてしまえばカメラを構えることもできません。
幸いライトは新しく調達すればどうにでもなりますし、火傷もそれほど重症には見えません。しばらくすればまたカメラマンとして復帰できるでしょう。ですが、この自暴自棄が戦場で発露してしまえば、オーギーは命を落とすと考えても不思議ではありません。
アステロイドシティにいた彼は親としての務めを果たすと同時に、子どもたちの目の前ではよき父であろうと努力し続けました。(母が死んだと子どもたちに伝えるシーン)彼が狂わずにいられたのは、子どもたちの目があったからかもしれません。同時に、「小惑星の日」の終焉が、彼の人生の終焉を示唆しています。アステロイドシティで過ごす日々が、最後の猶予期間となったのです。
愛するものを喪うということ
さて、舞台ではオーギーが救われたかどうかははっきりとしていません。ですが、エンディングの雰囲気からするとどうも大丈夫そうです。これを読み解くには、虚構と現実が入り乱れる「ドキュメンタリー」へ視点を移すべきでしょう。
役者ジョーンズがオーギー役を勝ち取ったのは、脚本家コンラッドのもとへ押し寄せ、驚異的な演技力を見せつけたためでした。そして、オーギーとコンラッドはお互いに愛し合っていた――いわゆる同性愛者だったのです。
1950年代のアメリカはジョセフ・マッカーシー上院議員が旗振り役となり、いわゆる「赤狩り」の真っただ中にありました。取り締まりの対象は「赤」こと共産主義者のみならず同性愛者も含まれ、ジョーンズとコンラッドの関係は公にできるものではありません。
幸い、彼らの関係は当局に摘発されることはありませんでした。ですがコンラッドは不幸な事故により、急逝してしまいます。ジョーンズは悩みました。これからオーギーがどうやって立ち直るのか、どうすればオーギーが生きる希望を見出せるのかが分からなかったのです。
愛する人を喪ったという点ではオーギーもジョーンズも同じです。ですが、それを誰かに打ち明けることはできません。恋人はコンラッドであり、自分が同性愛者であると公にするわけにはいかないためです。(比喩ではなく、役者生命の終焉を意味します)
結果として、オーギーの妻役(予定)の彼女と奇跡的なめぐり逢いを果たし、カットされたシーンの演技を通じてオーギーが救われる道を見出すことができました。このシーンはオーギーの救済であると同時に、オーギーを演じるジョーンズも演劇を通じて救われることとなったのです。
眠りに落ちなければ、目を覚ますことはできない
作中で印象的な使われ方をした
“You Can’t Wake Up If You Don’t Fall Asleep”
の一節。これはエンドロールの歌(公式配信)でその全容を掴むことができます。
原語の歌詞は以下の通り。
わたしは翻訳傭兵なので一から訳すのはやぶさかでもありませんが、既によい和訳をされた方がいらっしゃいました。素晴らしい――
意味の解釈について多くは語りません。ですが以下の一節に集約されているように思えます。
天にめします宇宙人さまよ
「子どもでも楽しめる程度に複雑で、大人でも理解できる程度には簡単にしろ」(うろ覚え)という言葉をむかしどこかで聞きましたが、アステロイドシティは大人が簡単なことで悩み、子どもたちが複雑な問題に取り組むシーンが多々見られました。
特に、米軍の将兵たちが異星人接触プロトコルを前に四苦八苦するなか、授業を子どもたちが思うがままに宇宙人といかに付き合うかを話し、歌にし、踊るシーンはコミカルでありながらある種の本質を衝いていたかのように思えます。
自分も大人になってしまい、複雑なことを考えることはできません。とりあえず、学校の先生が頑張っている姿が教員時代を思い出して良かったです。(あと半宇宙人と半魔女)ここまで読んで観てない奴がまだいたら、とっとと観るといいっすよ。わしは大変気に入りました。やるぞう!