3000字小説 #4 「寝台列車」(短編)
「寝台列車」
夏の終わり、秋の始まり、僕らは東京駅に夜7時半に集合した。彼女はキヨスクでオレンジジュースとあんぱんを、僕はジンジャエールと焼きそばパンと目的地の瀬戸内の地図を買った。プラットホームのベンチは老若男女で埋め尽くされ、一つだけ空いているベンチがあったので彼女に譲った。彼女は大きな緑色のリュックサックを足下に、オレンジジュースを膝の上に置き、あんぱんを食べ始めた。彼女の着た濃紺のワンピースが風に煽られるさまを目の前で一列になって列車を待っている中学生らしき野球少年達が気にしていた。
9時5分発のその夜行列車は8時40分から乗車口を開け、乗客が乗り込むのを待っていた。僕らも多くの乗客とともに乗り込み、席を見つけるとすぐさまその寝台に寝っ転がってみた。僕たちが寝泊まりするのは最も安い寝台で、上下二段になっていて僕らは上の段だった、隣とはカーテンで仕切る仕様となっていた。女性専用のラインもあるのだが、彼女は別々になるのを嫌がったのでサラリーマンや鉄道ファン、大学生らのむさ苦しい男らがほとんどの一般客用ラインを予約したのだった。狭い通路を大きな乗客たちが譲り合いながらそれぞれの寝台につき、やはり皆すぐ寝っ転がってみては、笑い合っていた。
寝台は固かったが、小さな枕とブランケットが置いてあり、ブランケットは柔らかく温かそうだった。彼女は起き上がって座り直すと、しばっていた髪をほどき、鎖骨まである少し癖のついた髪を必死にブラシで梳かし始めた。600mlの水筒ほどの長さがあるブラシは結構な荷物に思えた。僕は瀬戸内の雑誌を開き、ちまちま焼きそばパンを食べていたが、彼女が少し欲しいと言うのであげると残り全部たいらげてしまった。彼女は今まで見たこともないほど上機嫌でいたので、僕はとても幸せな気持ちになった。
僕と彼女の両隣にそれぞれ乗客が来たので、僕らはそれぞれ片側のカーテンを閉めた。車掌のアナウンスが流れ、車内のデジタル時計が9時5分を表示すると、夜行列車はゆっくり音を立てて動き出した。しばらく大きな音を立て左右に大きく揺れながら進んでいたが、一定の速度に落ち着くと音も揺れも落ち着き、車内の照明は一段階暗くなり、薄暗闇の中では非常口とトイレの表示灯だけが強調された。僕らは再び寝っ転がって肘をつき、席に付いている読書灯を点け、雑誌を開き、静かな声で旅行計画を立てた。
列車が動き出してからしばらく経っても彼女の興奮はおさまらなかった。彼女はリュックの中身をほとんど全部寝台の上に出して並べ始め、一つ一つ横にしたり縦にしたりして綺麗に詰め直した。張り裂けそうなくらいぱんぱんに詰め込まれた重たそうなペンポーチを出すと、何色ものカラーペンで先ほど買った地図に丸印や文字を熱心に書き込んだ。そうしているうちに、足下から声が聞こえた。車掌が切符の確認に来たのだ。切符にスタンプが押されると、ごゆっくりと言い残し僕らの足下のカーテンをシャッと閉めた。彼女は嬉しそうに一生取っておこうと言った。
旅行計画がひと段落し、静かな声で笑ったり話したりするのに疲れると、僕らは読書灯を消しリュックを枕にして横になった。彼女の顔は薄暗闇の中に飲み込まれたが、彼女は両手で僕の右手を包んでいた。
僕らは規則性のあるリズムの良い列車のジョイント音と快適な振動に包まれた。カーテンの隙間からは外の電灯や街明かりの光の束が入り込み、寝台列車の中に光を舞き散らしていた。等間隔の閃光が次々に入っては消え去ってゆく。閃光たちは列車の速度を表している。目を瞑り、横になった身体は列車という大きな物体に含有され、風を切り、前へ前へ、夜の暗闇を切り開いている感覚がした。時折、彼女の手が反射的に小さく動くのが伝わってきた。僕は空いた左手で彼女の柔らかな髪の毛を撫でて、安らかな眠りについた。
気がつくと、彼女は僕の両手をしっかり包み、吸い込まれそうなふたつの黒目で僕のことを見つめていた。車内は相変わらず薄暗かったが、カーテンの隙間から青い光が差し込んできた。その青い光は真っ白な透き通った線となり、空中の埃を映し出し、彼女の顔をスクリーンにしていた。彼女の顔の上で光がちらちらと動き、真っ黒な黒目はときどき茶色い目に変化して、その中には向日葵があった。彼女はにっこりしながら朝だよと言った。彼女に窓の外を見るよう促され、窓側のカーテンを少し引いてみてみると、一面うす明るい海だった。胸が高鳴った。車内のデジタル時計は5時27分を表示していた。彼女の額に静かに口付けし、僕らはもう一度浅い眠りについた。
6時半過ぎ、車内にチャイムがかかった。どこかで聞いたことのあるような懐かしい音色だった。僕らは瀬戸内では比較的大きなその駅に降り立った。北口周辺と南口周辺も歩いたが、店はまだどこも空いておらず、早いところでも7時半の開店だった。レンタカーの予約時間まではあと2時間ほどあった。駅三階に上がってみると、そこはテラスのような広場になっていたので、そこへ出て街を見下ろしてみた。僕はベランダを往復し、乗ってきた寝台列車が東京へ帰っていく様子を眺めていた。朝の空気は薄ら寒かったが、風は柔らかく水分をよく含んでいて優しく温かかった。空はだんだんと明るさを増していった。
彼女は一箇所にとどまり、柵の上に腕と顎を乗せ、その街のだだっ広い道路や点々とある店をしらみ潰しに観察していた。彼女は興奮した様子で指を上下左右に動かし、僕に何かを伝え始めた。彼女が指差した先にはMがくるくる回っているマクドナルドのサインボードがあった。僕らはそこまで手を繋いで歩いて向かうことにした。彼女は途中からずっとスキップをしていたので、僕もスキップをしているとマクドナルドに辿り着いた。
店内に入ると寝台列車で見かけた初老の夫婦やビジネスマンもいたし、大きなスーツケースを持った若者や近所の住民と思われる老人も数人いた。彼らは空になったバーガーの包み紙をテーブルの上に置き、同じく時間を潰していた。ある客はテーブルに突っ伏していて、ある客は大きな音でラジオを流し新聞に熱心に書き込みをしていた。客たちはほとんど会話をしていなかった。店員は仲が良さそうで、夜勤を終えた店員は勤務後もカウンターの前に私服で立ち止まり、朝勤務の店員と楽しそうに会話していた。店内では彼らが一番元気で楽しそうにしていた。
彼女はカフェオレとパンケーキを、僕はアイスティーとエッグマフィンにハッシュドポテトを頼んだ。都会では実現できないだろう、地方都市独特の間隔を存分に取った広いボックス席に二人向かい合って腰掛け、ファストフードを食べた。彼女はパンケーキの入った四角い箱のフタを開くと、マーガリン一つとメープルシロップ全部を上にかけた。プラスチック製の真っ白なフォークとナイフを器用に使い、パンケーキを均等な三角形に切りながら頬張った。気づいたら店内には朝日が充満していて、静かにボサノヴァのBGMがかかっていた。
眠たそうに集まっている客達を一通り見渡すと、彼女は言った。
「あたし、この瞬間が大好き。」
Fin