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3000字小説 #2 「アシカとコウスケ」(短編)

「アシカとコウスケ」


 二人は隣り合った部屋でそれぞれ生活をしていた。二人の仕事は水族館でショーをすること。アシカというのはあだ名だった。本名は芦野果穂。アシカはアシカのショーをして、コウスケはイルカのショーをする係。アシカはこの三月に東京の動物専門学校を卒業し、四月から「とこなつ水族館」で働いている。

「カイジュウ学部!?」
「怪獣じゃないよ、海の獣で、海獣って読むの。」
「海獣学部なんて聞いたことないよ」
成人式ではそんな会話をいちいち繰り返さなければならなかった。アシカは毎回きちんと海獣学部を違う言葉で言い換えたりせずに「海獣学部」と伝え細かく説明をして、相手を納得させようとした。アシカというあだ名で呼んだのはコウスケが初めてだった。芦野果穂は学校では芦野さんと呼ばれ、ごく親しい友達は「かほ」とそのまま名前で呼んだ。アシカは自らの専攻に誇りを持っていた。

 アシカは学部ではドルフィントレーナーコースを選択した。だから、水族館に就職したら、イルカのショーやら飼育をやらせてもらえると思っていた。しかし、就職が決まって任されたのはアシカのショーだった。イルカショーは午前と午後の一日二部制だが、アシカは午後のイルカショーの前のみ二十分だけの出演だけだった。アシカは相当落ち込んだ。しかし、数十社受けた後彼女を採用したのは「とこなつ水族館」だけだったので文句は言っていられなかった。とこなつ水族館は山と海に挟まれた小さな水族館だった。休日には家族連れが県外からやってくるが、平日は半日で三組のお客さんが来るか来ないか、そんなところだった。しかし、地域では有数の観光地として「とこなつ水族館」を売り出していた。

 三月の最終週、一両編成の列車はアシカを無人駅に送り届けている。列車の窓からは春の訪れを感じられる。梅の花は満開を終え、桜の花と花の間はどんどん隙間が狭くなっていて、一週間後には満開になりそうだった。駅に着くと腕時計は11時47分を指している。快晴だ。到着は12時と伝えてある。12時になれば、とこなつ水族館の職員の人がアシカを迎えに来てくれるはずだ。その無人駅には自販機もトイレもなかった。ただ形式的に一つの改札があり、それが駅の中と外を分けていた。改札の横には電話ボックスのような駅員室があったが、誰もいなかった。駅員室を除くと机と椅子と戸棚、小さなキッチンがあった。壁には四時で止まった時計と「とこなつ水族館」のカレンダーが貼ってあった。駅の内側には赤いペンキで塗られたベンチがあり、駅の外側には黄色いペンキで塗られたベンチがあった。ただそれだけしかなかった。料金は前払いだったのでアシカは黄色いベンチに座って迎えを待った。
 12時を過ぎても迎えは来なかった。空ははだんだん暗くなってきて、ついにアシカは顔に水滴が落ちるのを感じた。アシカはボストンバックの滑りの悪いジッパーを苦戦して開けた。ボストンバックの奥底に折り畳み傘を詰めてきたはずだった。アシカはポツポツ雨が降ってきている中、荷物をいくつか取りださなければならなかった。ドライヤーとジーパン二枚をベンチの上に置いてやっと傘が取り出せたが、その時には本格的に強い雨になっていた。アシカはかばんの中身が濡れないように急いでドライヤーとジーパン二枚をしまおうとしたが、ジッパーが閉まらなくなってしまった。何度閉めようとしても、ジッパーはある位置から先に動かなくなってしまった。アシカは涙が出そうになった。アシカは小さい折り畳み傘で自分を濡らさないようにするか、荷物を濡らさないようにするか迷ったが、荷物を守ることにした。三月後半とはいえ冬が尾を引いた雨は冷たく寂しかった。
 時計が12時48分を指したとき、水色の軽自動車がアシカの前にとまった。
「お待たせしました、とこなつの従業員の鈴木コウスケです。遅れてほんまにすんません。ずっと待ってたよなあ。」
アシカは震えていた。白い息が出るのではないかと思った。
「芦野果穂です。今日からよろしくおねがいします。」
「なんや、大丈夫か。頭がアシカみたいやな。」
アシカは首元まで真っ黒な髪があり、それが雨にぬれてぴたっと顔周りについていて、黒目がちな目も寒さで潤んでいた。コウスケはとりあえず車にアシカを乗せた。車内はとても温かくコーヒーの匂いが漂っていた。運転席に座ったコウスケは思いついたように言った。
「芦野果穂ってほんまにアシカやんけ。」
「アシカ?」
「言われたことない?苗字と名前の最初取ってさ、アシカ。」
「ああ、確かに。のだめみたいな感じで、ですね。」
「そうそう。呼ばれたことないの?」
「ないです」
「まじか、アシカ担当やろ?」
「そうです」
「おお、すごいやんけ。マジでアシカやん。良かったな」
アシカは微笑するしかなかったが、コウスケのどぎついが柔らかな関西弁は彼女の心を和ませ、今後に希望が持てたようだった。コウスケはアシカが来る一年前からとこなつ水族館で働き始めた。コウスケは大阪の人だった。大阪で生まれてずっと大阪にいた。大阪から神戸の専門学校に通い、くじら専攻だったらしい。

 とこなつ水族館の正面口に到着したが、コウスケはそこを通り過ぎた。アシカは何も言わず、通り過ぎる正面口を振り返った。ワイパーがリズム良く音を立てて雨を弾き飛ばして、きれいに窓を行ったり来たりして拭いていた。アシカは運転するコウスケの腕を横目で見ていた。
「今さっき、正面口通り過ぎたんやけどな、俺らの寄宿寮は裏口と繋がっとるから、そっち行きますね。」
「はい」
裏口について車を出る頃には、雨はすっかり止んでいて、厚い雲の隙間から優しい太陽の光が入り込んでいた。
「おお、晴れたな。」
「ほんとだ」
「芦野さんだけびしょびしょで場違いやな。」
コウスケは笑った。アシカは少し嬉しかった。

「ここが駐車場で、あっちが寮の入り口や。部屋は全部で七個あってな、今は四つしか使われておらんのよ。」
寮の入り口には学校の校門のような重そうに見える軽い門があり「とこなつ寮」と書いてあった。
「夏には、研修生が来るやんな、そんときは満室になりますね。」
「そうなんですね」
その門を開けると、すぐ左側に三部屋分の平家が立っていた。
「ここには涼さんと内海さんっていう社員さんが二人住んどって、あと警備とか雑用してくれる佐々木さんっておっちゃんが住んでます。下は満室ってわけ。で、この上に行くと」
「あ、その佐々木さんはな、ちょっと障がい持ってはるから最初びっくりするかもやけど、まじでこの水族館いち優しい人やからな。」
そう言ってコウスケはアシカに笑いかけ、山に沿った急な坂道をずんずんと登り進めた。
「ここの寮な、昔の従業員の人が山をちょっと切り開いて無理矢理に立てたんよ。」
坂の途中には物置らしきものが何軒かあったが、その外には使われていないであろう器具やショーで使うらしいボールやフラフープが放り投げてあった。下の平家から五、六分歩いたところにもう一つの平家があった。そこは二部屋分しかない平家だった。
「隣、俺が住んでるけど、まあ好きなようにしてくれて構わんので。」
「はい。」
上の平家からは下の寮ととこなつ水族館が見下ろせた。駐車場にはコウスケの車、その他に三つの車が停まっていた。
「あの、全部で七部屋あるんでしたっけ。」
「そや。でもな、ここに来る途中に物置みたいなのあったやん、あれなんよ。あれ含めて七部屋で、あの二つはちょっと物置状態になってるし、エアコンもぶっ壊れてて、いま住むのはちょっと厳しいと思うわ。」
「そうゆうことなんですね。」
「そや、だからここでええか?もし俺に言いにくいこととかなんかあったら、涼さんは女の人やし、言ってくれれば」
「いや、全然ここで平気です。ありがとうございます。」
「そうか。ちなみに涼さんはちょいと怖いで気いつけや。じゃあ、明日からよろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
「あ、言い忘れてたけど、俺な芦野さん来る前まではアシカ担当やったんやで、先週からはもう正式にイルカ担当になってな。アシカさん。アシカたちまじでかわいいしええ子らやからよろしく頼むわ。」
「そうだったんですね。責任持って頑張りたいとおもいます。」
コウスケは微笑み、隣り合った個人部屋の扉をガラガラと開けて、中に入っていった。

Fin


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