3000字小説 #3 「嫌悪感が蝕んでゆく」(短編)
「嫌悪感が蝕んでゆく」
僕は一日の中で、なるべく感情の振れ幅を少なくさせたい。むしろそれが僕の生の目的であるようにも、最近は思える。僕は生活の中で音楽は聴かないし、感情を揺さぶられるような趣味も、友人や恋人も持たない。着る服や下着、ハンカチなどは全て統一された色なので、悩み考える必要はなく、持ち物は一番近くの都会に出ればすぐにその交換が手に入るような高価でも安価でもない物を買う。僕の生活は陽と陰どちらの感情の波立ちも起きないようになっている。スマートフォンのニュースアプリでアメリカで頻発する襲撃事件と、その陰謀論を解説する発信者の失踪についての記事に時間をとられこの日は経済面まで読み進める時間がなくなってしまった。ニュースは出来事をそれ自体として司法解剖のように客観的に判断するのが大事だ。朝食で使った皿とコップを洗い、水を拭き取り、食器棚に戻す。スーツのジャケットと冬物のコートを羽織り、腕時計を巻く、鞄を持ち、手袋をはめる。外へ出て鍵を閉め、職場へ向かう。マンションのエレベーターに乗ると毎日習慣的に、しかし僕の生活の中では唯一感情的に「ごめんなさい」と言う。
言ってしまう。
いつからか僕は、自分の感情の変化の敏感さに自ら恐怖を覚えていて、何か刺激を与えるものや人間が、僕を構成する部分を侵していく様が酷く病的に思えて、ある一定のラインを超えてくるとそれらに拒絶反応を起こし、一切の関係を絶つようになった。それで僕は幾らか生き易くなり、生活はシンプルに、単調で、平穏なものになった。人はそんな僕を不気味がったが、一度縁を切ったら様子を伺いにくるようなことはなかった。音楽や趣味や他人は、僕の生活を蚕食していくと思う。
それは腐敗した死体を蛆虫が侵食していく様子を連想させる。初めて孤独死現場の特殊清掃をする映像を見た時に、僕が周囲を取り囲むものに感じる感覚はまさにこの様子であると判明した。僕の住む部屋のような閉ざされた空間で孤独に死んでいった人は、身体中の穴という穴から体液を出して腐敗を進めていく。いずれそこから蛆が湧き、赤黒い血痕を残して人間の形を無くしていく。蛆から蠅になったそれらは光に向かって飛び続けるが、閉ざされた一人の人間が住んでいた孤独の空間から、無数の蠅は自ら脱出することが出来なくて、窓を囲み同心円状に蝿の死骸が散らばるのである。汚くて、吐き気を催すそれは、ある一定の域を超えてしまえば自然の摂理、生物の姿なのだと、脳内整理され、映像ではどんな孤独死現場も平然と見ることができてしまうのだから興味深い。
僕にとっては、その映像を見ることは、生活の一部となっていて、その映像を見ないと生を感じられないようにもなっている。同じ類だと、戦争映画を見た後に感じる生の尊さと漲りだろう。そう思うと、僕は生に対して真面目で、死を見据えた人生設計をしていることを実感するとともに、自らの生命力を死という陰の方から与えられていることに対する不公平さにも気が付く。僕を構成しようとするものや人は、いずれか僕自身になり、オリジナルの僕は食い殺されてしまうのだ。僕はそれが恐ろしく怖い。僕の日常の動作は、僕の中で罪滅ぼしの意味を持つし、これを逃れることはきっとできない。
しかし僕が僕の秘密を彼女に打ち明けてしまってから、僕の生活が破滅を遂げることは予想できなかった。あるとき、佐保子という女性と関係を持った。いつもの一回限りの関係であった。行為後、彼女は白いシーツを脇に挟み、寝転んだまま僕の顔を覗きんで尋ねた。
「秘密を教えて。誰にも話したことがないこと。」
僕は、今夜限りの関係の彼女になら打ち明けてもいい気がしていたが、彼女が先に話し出した。
「じゃあ、私が先に言ってあげようか。いい?」
「いいよ。」
「でも、やっぱりやめようかな。嫌われちゃうかもしれないな。」
「もう会うことはないだろうし、言いなよ。」
「えー、ひどい。まあでも確かにそうだし、言ったらすっきりしそうだから言うね。・・・
人はさ、女も男も関係なく誰もがいつからか自慰行為をするでしょう。あなたは何歳のときに初めてした?」
「中二くらいの時」
佐保子は、僕の方を向かず性処理のために設けられた商業的な内装が施された天井を見上げ、話を続ける。
「やっぱりそれが普通だよね。私はね、物心がついた時にはもうそれを自分の心を満足させる行為として、意識的にやってたの。それをすると寂しさとか不安がなくなったし、心地よかったの。安心させてくれて温かい気分になって、怖くて悲しい夜もすぐに眠れるの。私はその行為を本能的に見つかってはいけないって思ってて隠れてするんだけどね、親や幼稚園の先生に見つかると必ずやめなさいって言われるの。そんなこと、成長する過程で別に気にしたことはなかった。ほら、幼稚園でトイレが終わるまで先生が目の前にあたこともあったし、友達に見られたり、それが普通だったし。そうゆう括りだと感じていたの。」
そこで彼女は深いため息をついて、泣き出しそうな声で続けた。
「でもね、ある時、あれが自慰行為でオナニーだって知った。血の気が引いた。親や幼稚園の先生に対してとても恥ずかしくなって、今すぐ家を飛び出したい気分だったの。他のどんなことよりも恥ずかしいことだと感じて死にたくなった。」
天井を見たまま佐保子は一気にそう言い切ると、気まずそうに僕の顔をまた覗き込んだ。
僕は続けた。
「そっか。でも、幼少期の自慰行為はそんなに珍しいことでもないって言うし、そんなに気にしすぎることでもないと思う。特に性に関する成長や方法は人それぞれだしね。」
「ありがとう。そう言ってくれて心から安心した。あなたに白状して、何かが救われた。」
そして、僕が秘密を暴露する番になる。これは普通の人と僕との間にある明らかな倫理観や人間性の差を露呈してしまう結果となる。そして僕はその先ずっと、社会や世の中に蔓延る普通の定義に悩まされることとなるのだ。
「僕はね、小学生のころ近所のスーパーの上にある文房具屋さんで小さな消しゴムを盗んだんだ。ずっと、その消しゴムが怖くて使えないんだ。実は店員が見てたんじゃないかって、防犯カメラに写っていたんじゃないかって。他には、嫌いな男子の靴に砂を入れた。あとは、みんなでバイキン呼ばわりしてた子のいじめにも加担してたし、その子をエレベーターの中で、」
「やめて。」
佐保子は、唐突に、衝動的にその言葉を発したが、それは感情的なものではなく静かに発声された。
「ごめん。」
僕は謝った。僕は付け足す。
「僕がしてしまったこの過ちは、今まで誰にも言わなかった秘密でこのことで今も苦しんでいるんだ。こうゆう行為自体は簡単だったけど、やってしまった事実はその先ずっと僕を蝕んでいったんだ。だから、君に」
佐保子は、僕の目をもう見ない。天井も見ない。寝っ転がって上を向いたまましっかりと、固く目を瞑ってこう言う。
「そんな話聞きたくない。気持ちが悪い。本当に気持ち悪すぎる。ひととしてありえない。子どもだったからとかは関係ない。あなたには人の心がないんだよ。」
僕はあまりにもショックだった。一人の人間に全面から否定されたことが、僕はとても悲しかった。佐保子は僕に怯えていた。軽蔑した目で僕を見ていた。佐保子はすぐに支度をして帰っていった。僕はそこに取り残された。
何かの罪を滅ぼす、葬るために人は日々何らかの贖罪的な行為をして、それらによって自分の罪が滅ぶことを願っている。しかし結局、罪滅ぼしなんてエゴにすぎず、他人に付けた傷は自分にも同様にまたはそれ以上に深く刻印され、日々それを目にし、自らを蚕食し続ける。その上で、人は他人を愛するし、他人に優しくするが、それは結局自分本位な行為でエゴの押しつけあいであることが多い。僕は、所詮、自慰行為しか出来ない人間なのだ。
Fin